金曜の夜

「だって無理じゃない、あたしみたいな乙女がおじさんたちと四人部屋なんてねえ。でも男性は女性のフロアには入れませんから、とか言われたらさ、もう個室しかないじゃない。しかしこれ、保険でカバーできるのかしらね」

 病院でレンタルされた、男物の寝間着に身を包み、ムギさんはこっちが拍子抜けするほど元気だった。

 いつもの完璧なお化粧ではなく、どスッピン。それでもムギさんはムギさんだ。腕に点滴をつないだまま、ベッドの上であぐらをかいて、マシンガントーク炸裂。

「けさ五時まで飲んでたのよ。新幹線が八時って、そんな早い時間に起きられるわけないからね。で、うち帰ってシャワー浴びて、ちゃちゃっと荷造りして顔作って、コーヒーだけぶっこんで出発。で、新幹線乗ったら桃子ももこちゃんとずーっとおしゃべりしてて、京都なんか一瞬で着いたわよね」

 傍にいる桃子さんは、うんうん、と頷いた。もしかすると積もる話はムギさんだけにあって、桃子さんは相槌だけうちながら、京都まで来たのかもしれない。

「それでさ、いざ京都に着いたら何これ、ってくらい暑いじゃない。秋じゃなくて真夏よね。でもまあホテルに荷物預けて、平等院行ったのね。宇治の。もう京都市内なんか何度も行ってるから、ちょっと郊外まで足伸ばしましょって。でも歩くのやだから、結局ぱーっとすっとばしただけで、それから薬膳料理の店でお昼食べて、お茶屋さんのカフェで抹茶パフェ食べて、これで体内の酒も浄化されたと思ったわけ。でさ、桃子さんが伏見稲荷行ったことないって言うから、行ったのよ。まあ近いエリアだし。それで例の鳥居よ、あのずらーっと並んだ。あれの下を歩いてたらば、わたくし、すーっと意識が遠のきましたの。神のお告げが下りてきたのかと、一瞬思ったんだけどね。気がついたら救急隊に、聞こえますか?とか呼びかけられてて、大丈夫って返事しようと思うんだけど、声が出ないのよ」

 そこで一息つき、ムギさんは枕元に置いていたリンゴジュースのブリックパックを手にとった。

「ここの病院、小さいからコンビニもないのよ。ショボい自販機だけ。本当はスムージーが飲みたいんだけど」

 桃子さんはすかさず「じゃあ後で買ってきてあげる」と言った。

「いらない。この入院で三キロは落とすつもりだから、差し入れ不要」

 そう言いつつ、ムギさんはリンゴジュースを一気に飲み干すと、空のパックをゴミ箱に放り込んだ。私はようやく「それで、身体は大丈夫なんですか?」と口をはさむ。

「もうすっかり元気よ。ここに着いた時は二日酔いを二乗したようなグダグダ感だったけど、点滴打ちまくったら気分爽快になっちゃって。何かヤバいお薬でも入ってんじゃないかしら」

「要するに脱水でしょ?熱中症ってドクター言ってたわよ」

「らしいわ。振袖なんかこんだけタプタプしてるのに、干からびちゃってたの」

 ムギさんは点滴の入っている左腕を持ち上げると、二の腕のたるみをつまんでみせた。

「とにかく、ほんとに色々とお騒がせいたしました。それでなんだけど」と、ムギさんは改まった口調になる。

「ドクターによると、私、あと二、三日は出られないらしいのよ。なんか血液検査の数字が悪いだとかって。悪いのは根性だけよって言ったら、アハアハ笑ってたけど」

「あのドクター、けっこう可愛かったわよね」

「そうよ。まだ三十なってないらしいわ。あの先生じゃなかったら、私も無理やり退院してるとこなんだけど、まあもう少し彼の顔を拝んでいたいから、仰せに従う事にします」

「でも」と、私は話に入る。

「ムギさん今回は二泊の予定でしょ?そしたらずっと病院にいて、退院したらそのまま東京に戻らはるんですか?」

「そうよ。戻らはるのよ」

 私の口調をリピートして、ムギさんは意味ありげに笑った。

「もう今回はそういう事で、外をうろつくのは諦めました。どうせ馬鹿みたいに暑いし。でもね、そもそもこの京都旅行は桃子ちゃんのために企画したんだからさ、私としては責任感じてるのよね。だからさ、悪いけど私に代わってハニーに桃子ちゃんのアテンドをお願いしたいの」

「アテンド?」

 当然、私は面食らう。だってムギさんから聞いてた話では、昼間は予定がつまってるから、今日の夜と明日の夜だけ食事をしましょうって事だったし、何より、桃子さんが一緒だなんて知らなかったのだ。

 そんな気持ちが顔に出てしまったみたいで、桃子さんが「駄目よ、ハニーさんに悪いわ」と止めに入った。

「大丈夫よ、私ひとりでちゃんと行けるから。私、ムギさんが思ってるほどポンコツじゃないのよ」

 思いがけない言葉。だって桃子さんはどう見たって美しさと知性を兼ね備えた、ポンコツとは程遠いタイプだから。

「それは駄目よ。ひとりは絶対やめた方がいい」

 ムギさんは頑として桃子さんの意見を聞かず、そうなるとアテンド問題は私の考えひとつという事になる。でも、ムギさんのお願いを断るなんて、できる私じゃあないのだ。さっきの夕食代だって、ムギさんが持つって話だし。

「別に、お寺とか案内するぐらいやったら、かまへんけど」

 まあしょうがないよね、学校も行ってなくて、実質ヒマなんだから。

「そうそう!かまへんわよね!かまへんのよ、桃子ちゃん」

 ムギさんは微妙に違うイントネーションで「かまへん」を連呼しながら、私の手をとった。

「じゃあハニー、困難なミッションだけど、頑張るのよ」

 ムギさんのぶっとい指が、私の頼りない手首を締め上げる。

「困難って、アポなしで修学院離宮行きたいとか、そういうこと?」

「いやーね、紅葉なんてまだまだ先じゃない。私たちが京都に来たのは、丑の刻参りをするためなの」

「丑の刻参り?それって、あの、藁人形に釘打つ・・・」

「そう。丑の刻参りの本家本元は京都だもんね」

「本家本元て、どういう意味ですか?」

「あーら、灯台下暗しってこういう事かしら。ハニーは能の「鉄輪かなわ」って演目をご存知ない?」

「能?能狂言の?」

「そうよぉ」

 残念ながら、京都に生まれ育ったからといって、そんな雅なものを鑑賞する人間は多くない。

「すいません、わからないです」

「あやまんなくてもいいわよ。私だって今回のことがなければぜーんぜん知らなかったもんね」

「その、カナワ、って、どんな話ですか?」

「ズバリ、丑の刻参りよ。時は平安、自分を捨てて別の女と結婚した旦那を呪うために、夜な夜な神社に通う女がいて、怒りのあまり鬼と化す、って奴。その神社ってのが、鞍馬の方にある貴船神社なのよ」

「あ、小学校の遠足で行ったことある。あそこって、丑の刻参りするとこやったんですか?」

「昔はね。今はそんな事、オフィシャルにはやってないわよ。でも、やっぱり、やるなら貴船神社よ。パワーが違うもの」

 パワー、のところでムギさんは小鼻をふくらませた。

「それは、ムギさん、誰か呪いたい相手がいるって事?」

「私じゃないわよ」

「え?え?ムギさんと違うって?」

 まさか、と思いながら私は桃子さんの方を見る。彼女はちょっと困ったような微笑を浮かべているのだけれど、それがまた様になっていたりする。

「そ。桃子ちゃんよ」

 当たり前じゃないの、という口調でムギさんが言い放ったところへ、ドアをノックする音が聞こえて、「麦谷むぎたにさーん」という声とともに看護師さんが入ってきた。

「もう消灯のお時間過ぎてますので、そろそろよろしいですか?」

 にこやかだけど、有無を言わさぬ口調。ムギさんは「あーら、ごめんなさいね!すぐお引き取りいただきますんで」と平謝りだったけれど、ドアが閉まった途端に「お昼の担当の人は、わがままきいてくれたんだけどね」と、低い声になった。

「消灯て、何時ですか?」

「八時だけど」

 言われて腕時計を確かめると、もう九時前だった。

「んなもん、個室だからいいじゃんねえ。消灯っていっても、みんなテレビとか見てるに決まってるし」

「とにかく、私たちはもう失礼するね。明日、何か買って来るものとかある?」

 帰り支度をはじめながら、桃子さんがたずねても、ムギさんは「いらないわ」と断った。

「さっき調べたらさ、この病院のすぐ近所に前から行きたかったカフェがあるのよ。だから明日はそこにモーニング食べに行くわ」

 入院患者の身でそんな事できるのか疑問だったけど、桃子さんは「そっかあ、どんなだったか、教えてね」と違和感ゼロの笑顔で、「じゃあまた来るから」と手を振った。

 つられて私も、桃子さんの後を追うように病室を出たのだけれど、エレベーターに乗った途端、さっきの会話が甦って来た。

「あの、あれホンマなんですか?」

「あれって?」

 病院特有の青ざめた照明。閉鎖空間に二人きり。

「丑の刻参り、しはるって」

「本当よ」

 そう答えた桃子さんの口元は、邪悪に限りなく近い可憐さで、私はこの人になら呪われても嫌いになれないと、膝の力が抜けるような気分になった。



 


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