丑の刻ハニー
双峰祥子
金曜の夕方
九月の京都なんてロクなもんじゃない。
真夏の暑さはまだ残ってるのに、五山の送り火だとか、鴨川の床だとか、夏らしいことはもう終わってしまって、気怠いばかり。
日が暮れても大して涼しくなるわけでなし、秋の気配といえばせいぜい虫の声ぐらい。お彼岸を過ぎても、猛暑が残していった澱みたいなものが、盆地の底によどんでいる。
なのにどうしてそんな時にわざわざ東京くんだりから京都に来るのか。ムギさんってやっぱり物好きな人だ。物好きな上にマメだから、夕食の場所まで予約してあるらしい。
いつものように自転車に乗り、烏丸丸太町を下がったところだというその店を目指す。
待ち合わせに遅れる奴は死ねばいい、という姉の口癖が怖いのか、もって生まれた小心者の性格か、私は約束の十分前にはその場に着くのだけれど、本音を言えば一人でお店に入って待つのは死ぬほど嫌い。
死ねと思われるのと、死ぬほど嫌いなのと、私はいつも天秤にかけてみる。
というか、その場にいない姉の口癖なんかどうでもいいんだけど、困ったことにムギさんは姉の友達で、下手をしたら情報筒抜け。だから私は死ぬほど嫌いなのを我慢して、店に入った。
時間は六時四十五分。金曜の夕方だっていうのに客は誰もいなくて、私はもう舌打ちしたい気分で「予約していた
四つある空いたテーブルの一つに、わざわざ「予約席」ってプレートが置いてあるのもなんだか空しい。私は腰を下ろすとまず出されたおしぼりを使い、それからグラスに注がれた冷たい水を飲んだ。
一人で待つのは嫌いだけれど、外の暑さから解放されるのはやはり気持ちいい。テーブルに置かれたメニューにはふれず、私はポケットからスマホを取り出した。ムギさんからの連絡はなし。とりあえず「着きました」とだけ打って、あとはツイッターやなんかを見ておく。
店の様子だとか、雰囲気だとか、そういうのを確認する余裕なんてのはない。だって居心地が悪いから。
一人で知らない店にいて誰かを待つなんて、罰ゲームみたいなものだ。でもムギさんと会うのは約束だから、我慢している。
予定の七時になってもムギさんは現れず。でもまあ仕方ない。あの人は方向音痴だし、歩いてる途中で気になる店があると「五分だけ、ね」と言いながら軽く三十分は粘ってしまう性格だし。
七時十分に店のドアが開いた。でも入ってきたのは熟年カップル。まあこれで、たった一人の重圧からは解放される。私はまたスマホに没頭して、外界を遮断する。
ムギさん、せめて連絡ぐらいくれたっていいじゃない。
じわっと怒りが湧いて来て、いやいや、私がムギさんに怒るなんて百年早いと思い直す。
スケジュールは公私まとめて連日夜中まで満杯というムギさんが、私なんかに会いたいと思ってくれること自体がありがたいんだから。
気を取り直そうとするつもりが、はあ、と溜息が出てしまい、暮れてきた窓の外を眺めて考える。もしこのままムギさんが来なかったとして、私は何分ぐらい待つんだろう。三十分?一時間?で、店を出る?
この店でたった一人で夕食なんて有り得ないけれど、何も食べずに帰ってしまうのは予約のドタキャンと変わらない。お店の人に怒られたりしたら、どうすりゃいいのだ。
という事は、一人で食事か。
私はひどく暗い気持ちになってメニューを手に取った。京野菜をふんだんに使ったヘルシーかつカジュアルなビストロ、というのがムギさんのツボにきたらしいけど、加茂茄子のバルサミコ仕立てだとか、万願寺のフリットとか、一人でどう頼めばいいのだ。
メニューを前菜からデザートまで行ったり来たり、何度もながめて、もう水菜のペペロンチーノだけにする!そう決心したところで、店のドアが開いた。
反射的にそちらを見たけど、残念、三十代らしいショートカットの女の人で、ムギさんではない。私は視線を落とし、水菜のペペロンチーノの価格、千五百円を「たっけえな」と思いつつ目に焼き付けてメニューを閉じた。
時間は七時と二十五分。入ってきた女の人は七時半の約束なんだろうか。彼女は待ち合わせの相手を探すような顔つきで店を見回すと、応対に出たマダムに「すみません、麦谷で予約している者ですが」と言った。
「お連れさまでしたら、こちらに」と、言われた私の身になってほしい。誰この人。
たぶんそう顔に出てしまったのだろう。女の人はあからさまに、敵意はない、という笑顔になって「ハニーさん?」と言った。
人前でその名前で呼ぶのやめて。
もちろん心の叫びで、私は顔がひきつるのを感じながらも口角を上げ、「はい」とうなずいた。
彼女はぱっと花が開いたような表情になり、その時はじめて私は、この人が並外れて美しいことに気がついた。
ショートカットが似合うのはつまり、頭の形がよくて小顔でスレンダーってこと。しかもひと夏越した後だというのにまるっきり日焼けしてない。すっきりしたアーチを描く眉の下に、切れ長の大きな瞳。通った鼻筋と適度な頬骨、そしてその涼し気な顔立ちに、敢えてアクセントを添える、ふくよかな唇。
「いきなりでごめんなさいね。私、砂田桃子といいます。ムギさんと一緒に東京から来ました」
いや、聞いてないしそんな話。ムギさん一人だと思ってた。なんて私の当惑は置きざりにして、彼女は向かいに腰を下ろす。
「実はね、ムギさん急に具合が悪くなって、救急車で病院に運ばれたの」
「え?き、救急車?」
「熱中症になっちゃって、そのまま入院。でも二、三日で出られますって」
そして彼女はメニューを手にとると「とりあえずお夕食をいただいて、ムギさんのいる病院に行きましょ」と言った。
「ハニーさんは何を召し上がるかしら?ムギさんがここはおごるって言ってくれてるから、遠慮しなくていいわよ」
私はもうなんだか判らないまま、「水菜のペペロンチーノ」と口走っていた。
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