第1章

1-1 侵食されし日常

 次の日、当然の如く桜は、遅刻ギリギリに学校へ駆け込んだ。すると、待ち構えてきたかのように、海月が桜に近づいてきて、


「もう……! 桜ちゃん。昨日頑張るって言ったばっかりじゃない!」


 と、可愛らしく頬を膨らませていた。しかし、桜は曖昧に笑うだけで、反省の色は見えない。そんな桜の反応を見た海月は、深くため息を吐き、拗ねたような目で、桜を見やった。


「あのね、桜ちゃんが一人で起きられるように頑張るって言ったんだよ?」

「う、うぐぅ……。そ、そうなんだけどね? なかなかすぐには無理というか……。面目ない!」


 狼狽える桜に、海月は深く溜息を吐き、


「全くしょうがないんだから……」


 と、いつものように、甘々対応を取り始める。しかし、すぐに海月は可愛らしく唇を尖らせ少し俯いて、頬をリンゴの様に赤く染めた。


「あのっ、あのね。やっぱり、東雲君に起こしに来てもらったほうがいいんじゃない? さ、桜ちゃんが遅いと、私もさ、寂しいし……!」


 そんな海月の訴えに、桜は手を顎に当てて唸り、眉間に皺を寄せ、視線を下に向け、難しい顔をした。確かに、最近朝ギリギリのせいで、あまり海月と話す時間が無いのは事実だ。翼が迎えにきてくれた時は、もっと余裕をもって登校していた。なので、海月が寂しく思うのも無理はない。自分の見栄で、翼に来てもらうことを遠慮したくせに、一度も早起き出来たことがないのは不甲斐ないな。そう思い、桜は悩んだ末に、もう少しだけ翼に朝起きるのを手伝ってもらおうかな。という結論に至った。徐々に目覚ましで起きる習慣をつけて、慣れてから迎えをなくしてもいいだろう。と安易に考え、桜は顔を上げ海月を見る。


「うん。ちょっと焦りすぎてたかも。もう少し迎えに来てくれるように頼んでみるよ」

「えっ……! そ、そう? そっか。うん。それがいいよ!」


 桜の提案に、海月は目を見開き、ぱっと花が咲いたように微笑む。その顔に、桜は胸を撃ち抜かれる。


 ぐぅ……っ。天使! なんて可愛らしい天使なんだ! 天然たらしとはまさに海月ちゃんの為にある言葉だよ……っ!


 そんな事を思いながら、桜は大げさに胸を押さえ、膝をついた。そんな桜を、海月は心配そうに見つめているが、桜はすぐに立ち上がる。そして善は急げと言わんばかりに、ぐるりと教室を見回し、翼を探す。しかし、肝心の翼がなかなか見つからず小首を傾げる。その様子に海月がクスリ、と微笑み、桜に探し人のことを教えてくれた。


「ふふ、東雲君を探してるの? 東雲君なら、白浜先生のお手伝いしてるから、白浜先生と一緒に来ると思うよ」

「えぇー! 善は走れってことで、ちゃちゃーっと頼んじゃおうと思ったのにぃー。翼のやつ、間が悪いんだから……。まっ、次の休み時間でもいいんだけどね」


 桜はそう大仰に腕を組み、独り言を言う。すると、海月は困惑したようにあたふたし始めた。


「さ、桜ちゃん。言いたいことはいくつかあるけど、とりあえず善は走れ、じゃなくって善は急げ、だよ?」

「え、そうだっけ? 日本語って難しいなぁ……。あ、後は何が変だった? 善は走れーくらいしかことわざ使ってない気がするんだけど」


 小首をかしげ、不思議そうな表情で、桜は海月を見つめる。そんな桜を見て、海月は言いづらそうに目線を泳がせるが、意を決したように、視線を桜に定めた。


 ────そして、この海月の言葉で、桜は思い知ることになるのだ。


「『翼』って……誰?」




 ────自身の『日常』が、崩れ去っていることを。


「え…………? 何、言って……え? つ、翼だよ? 東雲翼! 同じクラスで、キザで嫌味ったらしい男! 前まで私と一緒に登校して……そう!  海月だってさっき言ってたじゃない! 東雲って。その翼だよ!」

「え、しののめつばさ……君? えっと……ごめんね。私が言ってたのは、同じクラスの東雲翔君の事だよ? 桜ちゃんと一緒に登校してたのだって、翔君……だよね?」


 話が噛み合わない。それどころか、認識すら、全く一致しない。そんな状況に、桜は酷く困惑していた。桜は元々頭が良くないので、記憶力もそこまでいい訳では無い。なので、物忘れなど日常茶飯事だったが、流石にここまでの記憶違いをするほど悪い訳では無いのだ。

 海月がこんな悪質な冗談を言うはずがない。それは今まで一緒に過ごしてきた桜が、一番よく知っていた。

 そもそも、翔はずっと入院していた。なので、私たちと同い年だけど、一年生から。ということで、一個下の学年で高校に通っていたはずだ。それもごく最近のことのため、海月にはまだ会わせたことはない。存在は知っている者の、冗談の類で名前を出すほど、親しくはないはずだ。

 などなど、桜は足りない頭をフル回転させ、思考を巡らせる。しかし、いくら考えても、桜を満足させる結論が出ることはなかった。

 今にも叫び出したい気持ちの桜だったが、海月の心配そうな表情を見て、指の爪が皮膚に食い込むほどの勢いで拳を握りしめ、深く深呼吸する。そして、無理やり笑顔を作り、


「大丈夫、だから……。ごめんね、気にしないで」


 と早口でいい、海月に背を向け、自分の席に着く。そんな桜の背中を、海月は心配そうに見つめていたが、かける言葉が見つからず、ただ見送ることしかできなかった。


 ……本当は、今すぐに教室を飛び出して、翼を探しに行きたい。だけど、今のままじゃ何も情報が無さすぎる。まずは長門と玲一、そして翔に話を聞かないと、どうにも出来ない。というか何より、ここで飛び出したら、海月ちゃんにかなり心配をかけてしまう。ヒーローに憧れる身としては、友達に無用な心労はかけたくない。


 と、桜は考え、じっと自分の席で黒板を睨みつけていた。実際には、先ほどの会話の時点で、既に海月は過保護なほど桜を心配をしているなど、露知らず。

 

 キーンコーンカーンコーン


 そして、チャイムとともに教室の扉がゆっくりと開かれ、白浜先生と共に翼に瓜二つの顔立ちの少年、翔が入ってきた。やはり髪型は桜の知っている翔と同じで、少し伸ばした髪を一つにまとめていた。

 一体何故、翔が同じクラスにいるのか。そして、それを何故誰もおかしなことだと思っていないのか。考えても無駄なことは、先ほどのことで嫌というほど桜は理解していた。

 次の休み時間、翔に色々問い詰めよう。

 そう考え、桜はもう一度深く深呼吸をし、涙を堪えた。

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