逢魔時
城間盛平
第1話
男はこの時有頂天になっていた。男は幼い頃から優秀だった。大学は名前を聞けば誰もが驚嘆する大学を首席で卒業した。就職した会社は知らない者がいない大会社で、トントン拍子に出世をした。社長の覚えも良く、一人娘との縁談も持ち上がった。次期社長の期待が高まっている最中だった。社長と令嬢との食事会に行く途中、近道をしようとしたのがいけなかった。どうやら道に迷ってしまったようだ。ちょうど十字路にさしかかった時、誰かに呼び止められた。
「お前、関谷恵一だな」
自分の名前を言われて、声の方に振り向くと、そこにはみそぼらしい老人が立っていた。男は老人に見覚えは無かったが、どうやら老人は男を知っているようだった。老人は男に詰め寄り、胸ぐらを掴んで声を張り上げた。
「今ならまだ間に合う、傲慢な考えを改めるのだ。さもないとお前は破滅するぞ」
男は眉をひそめた。老人のツバが顔に飛んで不快だったからだ。男は老人の胸を勢いよく押した。押した拍子に、痩せた老人はヨロヨロと仰向けに倒れた。男は倒れた老人の元まで歩いていくと、老人の胸を足で踏みつけにした。少しだけ溜飲が下がった。こんなイカれた老人になどかまっている暇はない、早く約束のホテルに行かなければ。十字路を抜けると知った道に出て一安心した。それきり老人の事は忘れてしまった。
次期社長と目された男を周囲は褒めそやした。男は当然の事として受け止めていた。男は自分が選ばれた存在だと自覚していた。男は社長の娘と結婚した。社長の娘は何とも地味な女だった。息子も産まれたが、男は妻にも息子にも愛情を持つ事は無かった。愛人の女をマンションに囲い、家に帰る事が少なくなった。男の周りにはよからぬ輩も集まってきた。うまい儲け話があると耳元で囁かれた、男は冗半分で自身の金を投資に回した、すると面白いように金が増えた。男は思った、自分は投資の才能があると。まだ自分の金だけの時は良かった、次第に会社の金に手をつけるようになった。儲かれば会社に金を戻せばいいとたかをくくっていた。しかし金額が大きくなり、遂には会社にこの事が露見した。男は会社を解雇された。社長はカンカンに怒って娘とも離婚させられた。囲っていた愛人は既に姿をくらませていた。親からは勘当され、男は住む家すら無くなり途方に暮れた。残った貯金で安宿を転々として、新しい仕事先を探した。住み込みの力仕事だ。しかし男は傲慢な性格ゆえいつも他人と衝突を起こし、仕事をクビになっていた。気がつけは男は五十を過ぎていた。ある時繁華街を歩いていると、かつての部下だった男に会った。かつての部下は上等のスーツを着込んで歩いていた。懐かしさの余り男が声をかけると、元部下は男を頭のてっぺんから足の先まで見やり、鼻で笑って、落ちぶれましたね。と一言いって去っていった。男はその時になって初めて自身を見つめ返した。男はどこかでたかをくくっていたのだ。自分には才能があり、優秀だから今にまた返り咲く事ができるのだと。しかし現実は定職も住む家すらない根無し草になってしまっていた。男は定期的に入る住み込みの肉体労働で働いていたが、六十に年齢がさしかかると身体が思うように動かなくなった。体調を崩すようになり、働く事が出来なくなった。そんな時だった。フラフラと歩いていると十字路にさしかかった。そこで男ははたと思い出す。男が若い頃、出会った奇妙な老人の事を。はたしてそこには若かりし頃の自分が歩いていた。
「お前、関谷恵一だな」
男はかつての自分に掴みかかった。ここで思いとどまらせないと現在の自分のように落ちぶれてしまう。
「今ならまだ間に合う、傲慢な考えを改めるのだ。さもないとお前は破滅するぞ」
かつての自分は男を汚いものを見るような目でみると、男の胸を強く押した。男はバランスを崩し、仰向けに倒れた。かつての自分が近づいてくる気配があった。助け起こしてくれるのかと思いきや、胸に激しい痛みを感じた。男はかつての自分に、足で踏みつけにされたのだ。男は呼吸ができない恐怖から、かつての自分を仰ぎ見た。するとおぞましい事に、かつての自分は踏みつけにした男を見てニヤニヤと笑みを浮かべているのだ。男は絶望を感じると共に、かつての自分を思いとどまらせる事はできないと悟った。
かつての自分が去っていった後、男は起き上がろうとするが、どうにも起き上がる事ができない。踏みつけにされた胸が苦しくて呼吸ができなかった。ゴホゴホと咳も出てきて苦しい。どうやら折れた肋骨が肺に刺さっているらしい。男は息苦しさの中、ある事を思い出した。男は仕事が無く、食事に困った時、ボランティアが運営している配給を利用していた。温かい料理が食べられるのだ。料理を手渡してくれたのは大学生くらいなのか若い女性だった。別段綺麗でもないが若さが輝いていた。男が食事を受け取ろうとした時、彼女が一言いったのだ。熱いですよ、気をつけて、と。その時男の胸はじんわりと暖かくなった。初めての感覚だった、ボランティアの女性は金銭を抜きにして男に給仕してくれていたのだ。男は今まで金銭の発生しない事柄に関心をいだかなかった。この時になって初めて人の暖かさに気づいたのだ。男は妻だった女の事を思い出した。男が帰るといつも温かい料理を出してくれた。妻の食事を食べたいと思った。息子は大きくなっただろう。大切なものとは失ってから初めて気付くのだ。男は仰向けのまま空を見た、夜空には星が瞬いていた。
逢魔時 城間盛平 @morihei
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