アチヤツヅネ

富升針清

第1話

 私の人生は、残りわずな物でして。

 何をするにも、如何しても時計の針を気にする余り、何も手に取れぬ次第で御座います。

 それ故に、時計の針が止まりましても差し支えない様、私は私の話をさせて頂こうと思いました。

 もし、私の人生を、誰かに知って頂けると言うのならば、どうぞ、片時でも、刹那でも、思い出して頂けると幸いです。




 私は、とても卑しい人間です。最早、人間として存在を保っているかすら、自分で自分を疑う始末。

 なのにも関わらず、人間としての形容に縋りこうと必死に必死に、生きて来た次第で御座います。

 これは、決して自分を卑下している訳でも、貴方様に同情を買って頂こうとする為の言葉ではなく、有りの儘の、酷く他人事であり、そうです。自分を気客観視した故のただの結論と言うものでしょうか。

 だって、私は最初から卑しき人だったたのですから。

 私は、子供である時から卑しい人間なもので。

 何も持たぬ、何にもなれず、何処にも行けず、伽藍堂の頭がカラカラとなる物さえ入ってはいない子供でした。

 家は貧しく、金ものない。

 ええ、私の時代には、周りにも多く私がおりました。

 物がない時代で御座います。

 何もない時代で御座いました。

 洒落た町でさえ、何もなく、ただただ私達が大人も子供も彷徨い歩く。行き先の分からぬ迷子の様に。

 今の子は物に溢れ心が貧しくなっていると嘆く大人が画面の向こうに多くおりますが、私から言わせて頂いたらトンデモナイ。昔は物も心も貧しい貧しいと所かしこで悲鳴が残響の様に届く時代でございました。

 その中でも、私は取り分け貧しい子でした。

 私には、父も母も優しかった姉も、元気に庭先を走り回っていた妹弟も居らず。

 たった一人で、配給の列に並ぶ毎日で御座いました。

 ええ、ええ。私の様な子は勿論沢山居りました。運が良ければ、血族が見つかり、血を頼りに家に住まわせて貰える様で。ええ、ええ。そうです。しかし、それは酷く稀で御座います。あの中で、血族が無事の人間の少ない事、好きない事。都を離れれば私と言う人間でさえも血は頼れたかもしれんですが、あの惨さの後でございしましょうに。安易と血をたどれる術など、何処に誰にも余裕など御座いませんでした。

 だから、私は一人列に並んで今日一日生き抜くためだけのスープをね、貰いたかったんです。

 けれど、スープは不思議と少ないんですよ。ええ、ええ。数百人は並んでおられる列でございます。一人一人は少ないのです。

 けども、まあ、母親はね。母親は自分のスープを子に分けるのです。

 母親だって腹は減ってら。けどもね、それを我慢しては子に与えるのですよ。

 ええ、ええ。その子はね、自分の分と母親の分を飲める訳でしてね、ええ。私なんぞよりも酷く腹にスープが溜まるので、御座いまして。

 でもね、私は一人で御座いますから。ええ。どれだけ待てと暮らせど、スープは一杯しか飲めぬのです。

 ある日、私はスープを貰う道すがらで、一人の女がありました。女は、どうやら捨ててあった様でね、私の様に酷く、酷くね、痩せこけておりまして。

 私は、ああと思ったのです。

 私は女を担いで列に並びました。

 母ちゃん、母ちゃん。もう少しでスープが飲めるよ。母ちゃん、母ちゃん。あったかいスープだよ。母ちゃん、母ちゃん。大丈夫だよ。

 周りに聞こえるように、必死に女の死体に語りかけました。

 既に事切れた母親を抱いて列に並ぶ子供を大人は酷く憐んでくれた事でしょう。

 その日、私の腹はいつもよりもスープ一杯分だけ膨れて眠る事が出来ました。

 次の日も次の日も、私は女を担いで列に並びました。

 でもね、所詮人も獣です。早いのですよ、腐るのが。すぐに女は私を担げないようにしましてね。

 私は新しい母を求め歩きました。でも、死体なんて転がっている方が少ないんで御座います。

 ですからね、私のスープは一杯のままなのです。

 そのうち、私は家も家族もないまま見知らぬ土地で働き始める事となりまして。

 小さな工場で、これまた小さな部品を磨く仕事で。

 私は朝も夜も働き続けました。

 辛うじて、簡単な文字の読み書きは出た物で、他の同僚達よりも人一倍働かせて貰えました。

 そこでも、私は卑しい人間でした。

 ある日、同僚の一人が酷い間違えを犯しましてね。

 それはもう、目も当てられぬ程の。

 長も酷くお怒りになっておられ、我々だって飛んだ火の粉の後始末に数日間奮闘致しました。

 事を起こした同僚は、皆に必要以上に責められ、酷く項垂れ落ち込んでおりまして、今にも自ら業火に身を投げ出そうとする顔色で。

 私は同僚を必死に宥め、落ち着かせ、毛布を被せてやりました。

 ここではない何処かへ今にも消えてしいそうな同僚を必死に抱きしめておりました。

 私は、自責の念に潰れていく同僚に一握りの金を掴ませ、国に帰る様に進めたので御座います。


 ここにいては、いけないよ。


 そう、背中を押して外に飛び出させて。

 私は卑しい人間ですので、たったそれだけの金を掴ませて外に出させた後の元同僚のイバラの道など酷く考えもしておらず。握らせた金銭は本当に些細な些細な物で御座いましたのでね、元同僚が無事に郷に戻れたかも知らず。

 元同僚が抜けた穴に、私以外に唯一もどの読み書きが出来た元同僚が抜けた穴に、自分の身を滑り込ませるのが精一杯でした。

 私は、いつしか大人になりました。

 小さな工場は、大きな工場で大きな機械を作るために、私たちを捨てました。

 必死で誰にも取られない様に守ってきた席も、今は青空の椅子で御座います。

 私は、少ない金を握りしめて見知らぬ街に住み着きました。

 日稼ぎ、日稼ぎ、銭はなし。ええ、ええ。まさにその歌の様な生活でした。

 それでも、私は恋をしました。一人の人間に惚れてしまいました。

 夜空に咲く、大輪の花の様なお人でした。

 私には初めての春の訪れで、身を焦がす太陽が上がる夏を恋焦がれまして。

 ですが、既にその方にはお相手が居まして、私の季節はすっかりと冷え込んでしまいました。

 家が決めた許嫁に、何も持たぬ私が何を争い奪うことが出来ましょうか。

 美しい人でした。文を交わそうと思っても、足がすくんでしまう程の美しき人でした。

 だからこそ、私は人知れずその人の窓辺に文を置きました。

 私の名前はなくても、アナタを常に思っていると。思いを懺悔の様に、吐き出す様に。そんな日が長らく続き、もう諦めようと墨を切らした頃。

 その方のご婚姻を聞いたのは、その後でした。

 なんでも、御相手はその方に酷く惚れ込み婚約者がいるのにも関わらず、毎日そのお方の元へ手紙をお届けになったそうです。

 それに胸を打たれたあの方は、お相手の手を取ったのだとか。

 ああ、私以外にも。

 美しい方で御座いますから。何も不思議では御座いません。

 お相手もまた、その方の窓辺に文を置き続けられたらしいのです。

 ええ。ええ。不思議では御座いません。私と全く持って同じ事を考える輩がいても不思議ではない程、美し方なのです。

 私は街の一員として、若き夫婦の門出を祝いました。

 二人が育まれて来た、鉄の精神で培った愛を。

 心の底から祝福をさせて貰った次第でございます。

 でも、私は、卑しき人間でございます故、その日の日稼ぎを握りしめて墨屋で墨を買い足しました。

 ええ、ええ。お二人の愛は確かであり、立派であり、素晴らしきご夫婦だと私も思いましょう。その言葉に嘘偽りは御座いません。

 ええ、ええ。だけども、私は純真無垢で疑いを知らぬ赤子には戻れぬ日稼ぎで、人を疑う卑しき人間でございます故に。

 私は、さらさらと筆を走らせ、最後の文を綴りました。

 そこには、ご婚姻に祝いを酷く簡潔に。

 私は、またも彼の方の窓辺に文を置きました。

 来る日も来る日も。貴女がその文を手に取って、叫び出すまで。

 その悲鳴を汽笛に、私は街を出て海が見える町へと。

 その町は随分と酷く草臥れた港町でした。

 目に写るは、老人と女子供ばかり。聞けば、若い男達は漁を捨て山で穴を掘る金払いの良い仕事に行ってしまった、と。

 私はそこで一人の老婆の家に住み込み、漁の手伝いをさせて頂きました。

 私一人で賑わいを戻せる訳は御座いません。

 しがない流れ者一人で御座います。

 しかし、良き町で御座いました。

 私の様な流れ者を受け入れ、愛を育み、子を授かり、笑顔の絶えない家庭を持てる程の恵を下さいました。

 良き、町で御座いました。

 しかし、私は卑しき人間。

 ある日、山から男達が帰ってくるや否や、手には多くの金を持っておりました。

 こんな草臥れた町で細々と漁しなぞしている私には、到底手の入らないであろう大金を手に。

 男達はその金を元手に漁に乗り出して行きました。

 私なんぞのボロ船が、彼らの船に勝てるわけもなく。

 私はとても惨めな気持ちで毎日を過ごしておりました。

 一度、山に私も行こうかと、少しばかり思った時もありますが、愛しき家族を置いて何処に行けましょうか。

 ある晩に、私達家族は海辺に食料を取りに参りました。こんな事をしてるのは、この町では貧しい我が家だけでしょう。

 その時です。私達はまるで大きな大きな化け物に立っている様な感覚と叫びを聞いたのは。

 恐ろしくて、恐ろしくて。

 子供達は泣き始める始末。それを我々夫婦は抱きしめるのが精一杯でした。

 暫くすると、化け物の動きは止まり、辺り一面がシーンと、静まり返ったのです。

 そのしじまに月まで落ちた様に、私の目には映りました。

 私は、家族を引っ張り上げて、町の明かりには目もくれずに山へ山へ走り出しました。

 子供が泣いても、どうしたと声を掛けられても、何も答えずに。

 私は、酷く卑しき人間で。

 それでいて、何処か狡猾な人間でして。

 分かっていたのです。分かっていたのです。

 これから起こる、酷く悲惨で酷く恐ろしい何かが起こる事を。

 でも、矢張り。

 私は卑しい人間だったので御座います。

 一瞬、村の明かりが見えました。大きな御殿から、暖かそうな家族が顔を出す所が見えました。

 私は口を開いたのです。

 私は、声を、大きな大きな大きな声を、出そうとした刹那。

 脳内には大きな御殿、大きな船、大きな大きな大きな大きな。私達家族を可愛そうと謳う彼らの富が映りました。

 そうなると、私は直様口を閉じました。

 そして、一層。足を早めて山道を駆け上がりました。

 すると如何でしょうか。

 天にも届くとばかりに、壁が、大きな壁が私達の町に倒れ込んで来たのです。

 子供も、愛する人も、その酷い悲劇に震え泣き始めました。

 でも、私は。

 私は。

 卑しい人間なもので、流された我が家の金の事を、ずっとずっと考えていたのです。

 私の町以外にも、国中がテンヤワンヤと騒ぎが続きまして。

 何もなかったあの子供の時同様に、私達家族は列を並びました。

 ただ、違ったのは、私の飲むスープは一杯にも満たぬ量になってしまったという事だけ。

 卑しいは、子供達が寝た後に容器にこびり付いたスープの残りを必死に舐めとりました。

 ある日、私たちが並ぶ列に、死体を担いだ子供がおりました。よく通る声で、母ちゃん、母ちゃんと死体に呼びかけておりました。

 大人達は、子を憐れみました。

 でも、私は卑しい人間。同じ卑しさを知っております。


 あれは、母親ではないのか知らん。

 私と同じ、あの子供も卑しき子では無いのか知らん。


 ええ、ええ。きっと。子が背負ってきたのは母親ではないでしょう。

 よく通る声は健気であり、そして酷く健全でした。

 ああ、卑しき人間故に、分かってしまう。

 母ちゃん、母ちゃん。もうすぐスープが飲めるよ。

 母ちゃん、母ちゃん。暖かい、スープだよ。

 母ちゃん、母ちゃん。大丈夫だよ。

 私は、少しだけ気が触れた様に笑い出しそうになりました。

 ああ、同じだと。

 こんな卑しい事を考える人間の脳内は全て同じだと。

 全てを悟った次第で御座います。

 声が、震えていないのです。まだ、死を知らぬ子供かもしれません。けども、言葉がどれも健全で前向きで、瀕死の母を助ける様に縋りつく姿もない。

 そして、目線。

 目線が、ダメなのです。卑しい人間の卑しさ故の、卑しき心を映し出す、目。

 恐らくあの時の私も、そうだった事でしょう。

 母親に語りかけていると言うのに。

 必死に語りかけていると言うのに。

 目線は常に、スープの鍋へ。

 口よりも物を言うのは目だと言う事は、少なからず真実でしょう。

 私も。

 私も。

 その一人だった事でしょう。

 その子は、その日だけ沢山のスープを飲みました。けど、その日だけ。

 ええ、ええ。腐るのは、随分と早い物ですからね。

 一人並ぶ子供を見て、私は自分のスープを差し出す事はしませんでした。

 卑しい人間ですから、とても、卑しき人間で御座います。

 その子供が列に姿を無くしても、私はただただ自分の家族を抱きしめて思いました。

 ええ、ええ。

 思いました。

 お前達ではなくて良かった、と。

 酷く浅ましい安堵を、涙を流して喜びました。

 それから、世界は目覚ましい進歩の時代を歩みました。

 私の卑しさなど、何処か遠い夢ではなかったかと勘違いする程に。

 でも、私は卑しい人間で御座いますから。

 六十六になって迄、生きる誰かを羨んでしまうので御座います。

 今の平和に生きるアナタ方を。




 どうぞ、のちの平和な時代に、この悲惨な時代に生きた卑しき私を、片時でも、刹那でも、思い出して頂けると幸いだと思うのです。

 そう、明日にでも。




 2086年 11月29日 檥武 蒼

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