第40話ーA とても、幸せな毎日でした。
「……え? 」
アタシは、文字通り頭の中が真っ白になった。
同時に、ガツン! と、スゴい力で頭を殴りつけられたような衝撃に、目眩がする。
「ただの幼馴染みでいよう」
その追い打ちのような言葉に、――アタシは、抱いた彼の腕を、再度、力一杯抱きしめる。震える。身体が震える。そして、心の震えが止まらない。
……ただの。ただのって何?
目眩が強くなり、耳鳴りがする。アタシには今、自分でもわかるほどのストレスが襲いかかってきていた。
怖かった。
本当に怖かった。
その言葉を言われるのが、小さな頃からずっと、ずっと怖かった。
やめて。待って。言わないで。アタシはそれを聞きたくないのに。
冗談よね。そうよ、幻聴よ。アタシは、振り払うように、彼の顔を見つめ続け、
「――仲が良すぎたんだよ。だから僕は……」
イヤだ。やだ。いや!
彼を抱く腕に力がこもる。もう理屈じゃない。身体が、まるで、彼を離してなるものかと、そう叫んでいるかのようだった。
「なんで、なんで、そんなこというの……」
血の気が引くのは、過去何度か経験があったけど、これはあのときと一緒だ。
――彼に『キライ』と言われたときの、あの小学生の時のトラウマ。
頭が痛い、喉が渇く。
……本当に心をケガすると、アタシは、涙すら出ない。
もう、無我夢中だった。
「あ、アタシのダメなとこは言って! 全部なおすから! もうワガママも言わない! 困らせない! 言うことは何でも聞くから! ……そうか、そうよね。に、日曜日の事でしょ? 謝ってなかったもんね……」
きっと、今のアタシは、無様で不格好で、そして、彼にしてみれば本当にウザったらしい迷惑な女でしょうね。
声も身体も、みっともないくらいに震えていて、ただただ、彼の腕にしがみつき、彼に問うことしか出来ない。
でも、それでも彼は、泣きそうな顔で笑うのをやめないの。
「別に、なおすところはないし、謝ることもないよ」
なんでよ。悪いところは言ってよ。イヤなところも教えてよ。怒ってよ。叱ってよ。だって、そうしなきゃ、ダメ。そうしてもらわないと、アタシはアンタに、
「……ごめん、ごめんなさい。いままでずっと、ごめんなさい……。だから、だから」
だから、
「キライに、……きらいにならないで、ください……」
ほとんど聞き取れない声で賢明に喚いてみたものの、最後は、もう彼の顔すらも見れなくなって。
ひんやりした風に、ぶるりと身体が冷える。
自分の感情に精一杯で、彼が今どんな顔をしているのかはわからない。どういうつもりで、どんな感情で、その言葉を言ったかは、今のアタシには、わからない。
「キライになんてなるもんか」
でも、確かに彼はそう言った。妙にきっぱりと、その声にウソはなかった。
じゃぁ、どうして。
なおのこと、もうアタシには何が何だかわからない。怖くて顔も上げれないし、彼の言葉の意図するところも、自分の感情も、何もかも、頭の中はごちゃごちゃになっていくばかりで。
だって、何度も好きって言ってくれたじゃない。愛してるって、ずっとずっと好きだって、そう言ってくれたじゃない。
……それなのに、なんで。
アタシは、それ以上何も聞けない。一気に雪崩のように物事が押し寄せたもんだから、アタシの中の許容量を軽く超えてしまっている。もはや今、自分が何をしていてどこにいるのかもわからない。
わかるのは、今また、彼の手がアタシの頭に置かれ、慰めるように優しく撫でてくれている。
それは、小さいときから、彼が謝るかわりにしてくれる、アタシの好きなものの一つ。でも、今は、――今だけは、やめて。
まったく、理解できてないのに。
全然、整理できないのに。
これっぽっちも、納得できていないのに。
それなのに、ずっとずっと好きな彼に、本当に好きで好きでたまらない彼に、このタイミングで、こんなに優しくされたら、アタシはもう――
別に、マンガやアニメのように、小さな頃、結婚しようねと誓い合ったわけではない。もちろん、アタシから、お嫁さんにしてねと頼んだこともない。アイツから嫁にしてやると言われた記憶もないけれど、だけど、隣に住んでいて、小さな頃から何をするにもずっと一緒で、同じことで笑い、泣いて、数え切れないくらいケンカして、そして同じくらい仲直りして、そして……
「僕とお前は、恋人じゃない。ただの幼馴染みなんだからさ……」
――ふいな彼の言葉に、頭の中が、薄荷をなめたように、透き通った。
不思議と、納得してしまった。ストンと小気味よく、アタシの心が受け入れてしまったかのようだった。
同時に、アタシは今、何か、胸の奥で亀裂の入る音が聞こえたように思う。
そうか、アタシ達って、別に特別じゃなかったんだ。どこにでもいる、あたり前のふたり。
……ううん、違うわ。違うわよ。違うじゃない。
彼は、頑張ったんだ。きっと、アタシなんかよりもいっぱい考えて、大切に、大事にしてきたものを、精一杯、ぶつけたんだ。
でも、それをアタシが、受け止めなかったから。自分本位で考えて、自己中心的に振る舞ったから、あぁ、そうか。そうなのか。結局は、アタシの自業自得。これは誰のせいでもない。八つ当たりの矛先すらない。
とてもとても、本当に特別な関係だったのに、どこかの誰かさんがすぐに返事をしなかったせいで――終わってしまったのか。
全身をものすごい倦怠感が襲う。なんだ、全部、アタシのせいじゃん。せっかく欲しかったものが手に入る瞬間に、自分自身で捨ててしまっていたのか。
妹があれだけ怒ったのも当然だ。彼をバカにするなって、言われて当然だ。
遅かっただの、捨ててしまっただの、あの日曜まではだの――言い訳だけがアタシの中で駆け回る。
でも、もう遅い。
彼がさっきのあの言葉を発したときに、全てはキレイに終わったのか。
悔しくないと言えばウソになる。未練がないかと言えばあるに決まっている。
でもそれは、全て自分の日頃の行いなのだから、もう、彼がそう言うのなら、気持ちが冷めて、そして変わってしまったのなら、今更、何も言い訳できそうにない。
今、心の中にいる冷静なもう一人のアタシが、ゆっくりと首を横に振ったような気がした。
あぁ。そうか。
そうよね。そうなるよね。
……誰も居ないかのような静寂のあと、呟くように、アタシの口は、細々と言葉を紡いでいく。
「……小学生の時は、いっぱい遊んだね」
「あぁ」
「毎日、顔が見えなくなるまでいろんなところを走り回ったよね」
「もっと早く帰って来いって、散々叱られたな」
「初めて二人だけで出かけたのは、中学生の時だっけ」
「……映画、観に行ったよな」
「あんまり面白くなかったよね」
「うん。あのあとふたりで借りたDVDを、僕の部屋で朝まで観たっけ」
「ふふ、そういえば、ケンカもいっぱいしたわ」
「あぁ、まだ謝ってないこともたくさんある」
「……アタシも」
「毎日楽しかったのは、きっとお前がいたからだ」
「うん。そうだね。アタシも、そう思う」
でも、――言わないで。次のアタシの言葉には何も答えないで。お願いよ。最後のお願い。もう、アタシ、多分、感情を抑えきれなくなってしまうだろうから。
誰もいない階段の踊り場が、まさかこんな場面に使われるとは、アタシ自身、思いもしなかった。
アイツの顔はまだ見れそうにない。だって、
「……もう」
答えは、アンタの中で、すでに出ているんでしょう?
「アタシ達、……さよならなの? 」
それが、アタシにとって、幸か不幸かわからない。……彼は、何も言わなかった。
でも、あぁ、そうか。
アタシの唇は震えながらも、口角を上げた。
そうよね。そうなんだ。――ずっとずっと、好きです。アナタより好きになる人は、この先、ずっといないと思います。本当に本当に好きです。でも、いま、ようやく、アタシの初恋は終わったんだ。
ぽっかりと胸に大穴が空いたみたい。かろうじて持っていた最後の暖かい何かが、今まさに零れ落ちたように思う。
でも最後だけは、ワガママ言わない方が良いよね。アンタを困らせて好き勝手に振り回した結果が、今なのだから。
アタシの意思とは無関係に、彼の腕を抱く力が入っていく。離したくない。何があっても離したくない。でも、彼が、困るのなら、最後くらいは、キレイに終わるべき。身が引き裂かれる思いとは今の時のような言葉だろうか。
でも、どうしてかな。
こんなときなのに、彼とのケンカした思い出ばかりがよみがえる。
もっと、嬉しかったこととか、楽しかったこととか、そういうのを思い出せば良いのに。
なんて、わかっているクセに。アタシはつくづくダメなヤツだ。
――アナタが叱ってくれたとき、アタシを思って叱ってくれていました。
――アナタが怒ったとき、アタシのかわりに怒ってくれていました。
――アナタが泣いたとき、アタシの為に泣いてくれました。
嬉しかったです。毎日が、今思うと宝物だった。だけど、悲しいけど、悔しいけど、くじけそうだけど、――今からはただの幼馴染みです。
好きです。ずっと好きです。アナタを愛しく思います。でも、それでも、アタシは、アナタがそう願うのなら、従います。だって、最後は、最後くらいは、アイツは良いヤツだったなと、そう思って欲しいから。
「……」
今までの彼との思い出を破り捨てるように、アタシは、ゆっくりと、その腕を手放した。
すぐ近くで、彼が歯を食いしばる、そんなイヤな音が聞こえ、どれくらい経っただろう。
「だって、」
やがて、小さな溜息のように、
「だってさ、」
アイツは声を漏らした。
「――相手に悪いだろ。僕なんかと仲良くしてたら」
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