見上げた月に、彼女は何を思う

奥久慈 しゃも

見上げた月に、彼女は何を思う

 激しい雨が降る夜の一〇時。


 僕は不意に彼女の声が聴きたくなった。  


 衝動のまま手に取った携帯電話。


 けれども、僕の指先は画面に映る数字に触れては消すことをひたすらに繰り返ている。


 それは、付き合い始めたばかりの彼女にこんな時間から通話を持ちかけて良いかどうか判断に迷っている所為だった。


「このヘタレ……」


 文字通り、最後の一押しが押せない腑抜けた自分に呆れてしまう。気を紛らわす為に僕は閉じたカーテンを軽く引き、雨粒が無数に張り付いた窓の外を眺めた。


―彼女は今頃何をしているのだろう。


 夜の一〇時十五分。


 当然に外は真っ暗闇で、屋外の様子はまるで分からない。それを良いことに、僕は黒のキャンバスへと悪戯な妄想を描き始めた。


―今日は好きな作家の新刊を買っていたな。


 彼女を表現する際に本と言う名詞は欠かせない。笑う時、不貞腐れる時、彼女の様々な一面に本は何時も傍らにあった。


 やがて、拙い白線が鮮明に輪郭を形作っていくと、それはベッドを背にして静かに本を読む彼女の姿となった。  


 実際、彼女が何をしているのかは分からない。


 はっきりと断言出来る確証がある訳でも無く、これはただの僕の虚像に過ぎない。


―何をしているんだ僕は……


 我に返ってから見る窓に彼女の姿はもういない。その代わり、窓に映った僕の姿がとても大きなため息をついて見せた。


 夜の一〇時二五分。


 これが今の僕に出来る精一杯。再び携帯の画面に向き直った僕はただ一言、短い一文を彼女へと送った。


―今日は月が綺麗ですね


 送信した直後の事は余り覚えていない。気が付いた時には携帯電話の液晶はいつの間にか暗転し、それを握った僕の右手は高揚で震えていた。


 それから、彼女の返信を待つ間、冷静になり始めた自分が冷や水を持って帰ってきた後が大変だった。


―彼女はもう寝ているのかもしれない、それなら彼女を起こしてしまったのでは。いいや違う、きっと彼女は……。


 自己嫌悪と自己暗示を繰り返している中で不意に鳴った携帯の着信音に、僕は脱兎の勢いで携帯の画面に喰らい付く。


 液晶に映っていたのは彼女の名前と数字の羅列。


 それを見た僕の高揚と緊張は一瞬で最高潮へと達し、これまでの葛藤が瞬く間に遠く何処かへ飛んで行った。 


 僕は携帯の画面にそっと指を置いてから一度だけ深呼吸をする。


 そして、僕は置いた指を剥がすように引き上げたのだ。


「もしもし……」


 夜の一〇時三〇分。


 激しく降っているはずの大雨は不思議と静かだった。


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