5 ー妻は恋をするー


 オリビア・セイデナルは困窮した男爵家で生まれ育った。

 貴族らしからぬ服装に作業。貴族には蔑まれ平民にはいじめられる子どもだった。


 両親はオリビアに構えないくらい忙しかったから、彼女はいつも一人で耐えていた。

 子どもの頃偶然手にした魔術本の解読で自身の魔術の素養に気づき、実家の為に必死に勉強した。


 両親はオリビアの魔術に良い顔をしなかった。弱小貴族が魔術の素養を持つなど他所に知られたら何をされるか分からない。あくまでも秘密裏に、それでいて将来を約束された魔術院に勤められるようにと、彼女が学ぶ事を許した。



 ある時から家にある本では物足りないようになり、オリビアは歩いて二時間掛かる皇立の図書館まで通うようになった。行きと帰りにも歩きながら本を読み、時間を惜しまず勉強した。


 ある日ずっと返却を待っていた高等魔術書が棚にあると受付で確認し、オリビアは夢中で本に手を伸ばした。


 すると自分より大きな手がオリビアの手を払い除け、欲しかった本を奪っていった。呆然と本を見送るオリビアの視線の先には皮肉気な顔をした貴族の令息が立っていた。


「お前みたいな平民のガキが公共の図書館の本になんて触るな。汚らしい」


 オリビアは目を見開いた後口元をぎゅっと引き結んで俯いた。

 勉強する事が生意気だとか、女のくせにとか言われた事は多々あった。けれどそれ以上に酷い言葉をかけられるなんて思わなかった。


 黙っていると肩に衝撃を受け、続いて背中に痛みが走った。視界が回って気がついた。突き飛ばされたのだ。


「さっさと出てけよ」


 横になったオリビアの上に足を乗せ、令息は遠慮なく華奢な体を踏みつけた。


 涙が出そうになったが我慢した。それくらいしか反抗が出来なかった。声も出したくない。彼の綺麗にあつらえられた服装はきっと高い爵位のものだから、オリビアには結局何も出来ないのだから。


 必死に胸を圧迫する痛みに耐えていると、急に身体が軽くなった。困難になっていた呼吸を整えて、そっと首を巡らす。


 そこにはとっても怖い形相の男の人が立っていて、先程オリビアを踏みつけていた令息を拘束した腕を捻り上げていた。


「痛いぃっ!! 何をするんだ!! 俺は伯爵家の人間だぞ! こんな事をしてタダで済むと思っているのかっ……ああぁああ!! やめろ、腕が折れる!痛い!! やめてくれええ!!」


 男の人は冷たく目を眇めて口を開いた。


「仮にも爵位ある立場の者なら、その振る舞いに恥では無く誇りを持ったらどうだ? こんな小さな子どもを踏みつけるなんて貴族どころか、人として最低だ」


「ううるさい! いい加減離せ! 痛いぃ! やめろおお!」


「うるさいのはお前だよ。この子はお前に殴られても踏まれても一言も泣き声を言わなかったと言うのに。そもそも皇立の図書館に身分による規制は無い」


 そんな事も知らないのか、と言いながら男の人は貴族の令息をほおった。バランスを崩してべしゃっと倒れ込んだ令息はよたよたと起き上がり、ギリリと男の人を睨みつける。そうして彼の顔を見てはっと息をのんだ。


「文句があるなら我が家に苦情を入れに来るといい。皇立の図書館で子どもに嫌がらせをした挙句、踏みつけにして騒いでいたと私もしかるべき場所に出て説明させて貰う」


 その言葉に令息は目を泳がせ慌てて去っていった。

 オリビアも騒ぎを起こしてしまった気まずさから、慌てて立ち上がり帰ろうとした。けれど上手く立てずにたたらを踏んだところで男の人に支えられ、目を丸くした。


「大丈夫か?」


 黒髪黒目のその人は、先程の怒りの形相から一転して労りの表情でオリビアを見つめていた。


「すまなかった。私も貴族の一人として、恥ずかしく思う」


 オリビアは必死に首を横に振った。自分も貴族だ。けれど恥ずかしいくらいに貧乏で、そうだなんて言う勇気は無かった。


 男の人は先程令息が落として行った本を手に取り、オリビアに差し出した。


「こんなに難しい本が読めるなんて凄いな」


 その言葉にオリビアは目を見開く。

 そんな言葉生まれて初めて聞いた。

 固まっていると男の人の手がオリビアの頭をそっと撫でた。


「小さいのに頑張って、偉いな」


 ボロリと涙がこぼれる。

 怖かったな、もう大丈夫だよ、と言って慰めてくれる手にオリビアはそうじゃないと心の中で首を振った。


 嬉しいのだ。


 初めて、本当に初めて貰った優しい言葉。止まらない涙が温かくて、胸が痛くて。

 そうしてオリビアは生まれて初めて人を好きになった。

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