3 ー妻は風呂に入らないー


 走る馬車の座席に妻を横たえ、自分は向かいに座った。

 よく眠る顔をじっと見て顔を顰める。一体どれだけ風呂に入っていないのか。腕を組み目を閉じて暫く時間をやり過ごす。


「……ぃ」


「……え?」


 小さな声に目を開ければ、妻が眠ったまま眉間に皺を寄せ、何事か呟いている。

 リカルドはそっと口元に耳を寄せて、その声を拾おうとした。


「お腹が空いたのでご飯下さい」


「……好きなだけ食べろ」


 つい寝言に突っ込んでしまった。帰って風呂に入れた後は夕食だ。

 まあいいかと、頭をがしがしと掻いて座り直せば、向かい合った妻の口からまた言葉が紡がれた。


「失敗してごめんなさい」


「……」


 思わずそっと頭を撫でて顔を顰めた。屋敷に着いたらバスタブに頭から突っ込んでやる。そんな決意をしながら。


 ◇ ◇ ◇


「きゃぁああ! 旦那様止めて下さい!」


「うるさい黙れ! 大人しく風呂に入れ!」


 そう言い、バスタブに服を着たまま押し込んだ。石鹸を投げ込み上からシャワーを浴びせる。


「ひ、酷いです。旦那様……」


 泣きそうな顔の妻に、ふんと鼻を鳴らしリカルドはバスルームを後にした。

 外に控えていたジェインに憮然と口を開く。


「流石にあの格好で食堂に行こうとはしないだろう。悪いが洗うのを手伝ってやってくれ」


 こくこくと首肯するジェインの背中を見送り、ドアを離れるリカルドの背中に、クサっ! という侍女頭の声が聞こえてきて、リカルドはげんなりと肩を落とした。


 まさか結婚式の日以来風呂に入っていないとは。そもそも女性としてどうなのだ。しかもあろう事か自分の妻である。


「はあ……」


 オリビアは勝手に魔術院から連れ出されたとリカルドへの文句を口にした。

 あんなところで倒れていたからだと怒れば、倒れていない、寝ていただだけだと憤慨された。

 やり途中の仕事を思い出し易いから、効率が良いのだとふんぞり返ってきたので先程バスタブに突っ込んできたが、何故か気は晴れず重くなった。


 この結婚にどう向き合っていけばいいのか、決意したばかりなのにもう挫けてしまいそうだ。

 自身の匂いを嗅ぎ、リカルドも風呂へと直行した。


 ◇ ◇ ◇


「わああ。美味しそう」


 ジェインに磨き上げられ、美しく装った妻はすっかり見違えていた。

 今は料理に夢中で、リカルドにはさっぱり目も向けないのが、些か面白くは無いが。


 美味しそうに食事を摂る妻にリカルドは何となく口にして聞いてみた。


「君は有名な魔道士だったんだな。全く知らなかった。魔術院では……その、どんな仕事をしているんだ?」


 オリビアはきょとんとした後、そうですねと一度視線を宙に投げた。


「魔術の素養を強く受け継ぐ者ほど研究に向いているんですよね。私は強いそれを持っていますから、専ら研究担当です」


「研究とは具体的に何を?」


「書物に残る魔術陣の発動を確かめたり、文献を追って魔術陣を復元したり。昔の魔術師たちが扱ったような魔術はもう使えませんから、その中から生活に有用な陣を探り当てて、起動を試みたり魔道具にします」


 そうか、と頷く。魔術史はアカデミーで学んだが、魔術の基礎知識は専門分野で選ばないと知らないままだ。


「君は市井から人気があると聞いた。貴族であるのに気さくで親しみやすい、良い関係を築けているのだな」


「……」


 その言葉にオリビアはなんとも言えないような顔をした。


「どうした?」


「いえ……」


「気になるから言いなさい。私たちは夫婦だろう」


 オリビアは驚いた顔をして、リカルドを見た。

 何も間違えた事は言っていない筈だが……。


「……私は別に、市井に人気のある貴族という訳では無くて、ただそこにしか居場所の無い、弱小貴族なだけです」


「君は優秀だと聞いた。卑屈になる必要は無い」


「旦那様は不思議な事をおっしゃる」


 オリビアは苦笑してワインを煽った。


「貴族社会では労働は卑しいとされております。けれど私のような弱小貴族は働かなくては食べていけません。だから卑しい貧乏貴族と言われます」


 リカルドは顔を顰めた。確かに貴族としての評価はそうなってしまうだろう。実際男爵や子爵には経営手腕を発揮し、ひと財産築いたものもいるが、格式ばった貴族社会では嘲笑のネタだ。


 労働するくらいなら借金をして見栄を張り、汚点を隠す事に熱意を注ぐ。金と名誉を持つ者に擦り寄っていくくせに、

それが自分より立場の弱い者ならば貶める。歪んだ風習だ。


 ただこんな事は近いうちに変わるだろうとも思う。先日皇太子が選んだ婚約者は公爵家の娘だが、あの家は貴族の労働や、女性の社会進出に理解を示す事を公言している。それを皇家が迎えたという事は、つまりそういう事なのだろう。


 時代の過渡期に置き去りにされれば貴族とて生きてはいけない。節目を敏感に感じ取り、追い風に乗る舵取りが爵位を持つ当主の役目だ。


「それに市井にも認められた訳ではありません。平民には貴族を嫌う人も多くいますから……」


 視線を俯けるオリビアにリカルドは眉根を寄せた。


「ならばどうして君は平民に喜ばれる魔道具や、陣の研究に勤しむんだ? 何が君を突き動かす」


 オリビアは困ったように微笑んだ。


「私、魔術が好きなのです」


 その表情にリカルドは、はっと息を飲んだ。


「それに出来れば喜んで使ってくれる人に提供したいだけですわ」


「……そうか」


 オリビアは、ふうとひと息つき、満面の笑みで控えていたコックにお礼を言った。


「ありがとう。とても美味しかったです」


「勿体無いお言葉です、奥様」


 にこにこと笑う様子は子どもっぽいのに、たまに妙に大人びた顔で笑う。一体自分の妻にはどれ程の引き出しがあるのやら。リカルドは思わず綻びそうになる口元をワインを流し込んで誤魔化した。

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