1 ー妻に逃げられ無能扱いー
以来妻は一週間ほど帰っていない。びっくりするくらい音信が無い。
初夜の翌朝、伯爵夫人が部屋どころか屋敷内にいないと騒然となった。そう言えば腹が立ちすぎて誰にも告げずにベットに入ったのだった。勿論私室に入れてある一人用のものだ。
朝から執事に叩き起こされ、その話をしたら怒られた。女性一人、夜中に外に出した事を告げれば、信じられないものを見るような目で見られ、流石にバツが悪くなった。
この屋敷は皇城から近く、この辺りの治安は良い。憲兵が昼夜を問わず巡回しているからだ。
また競うように魔術院も防犯に力を入れている。
この二つが自分たちの価値を争っている限り、不審者を見逃す事は決して無い。
……だが、だからといって夜に女性の一人歩きを許すなど常識的ではない。それが己の妻であるなら、尚更許す夫など紳士の風上にも置けないだろう。リカルドは思わず渋面を作った。分かっている。自分が悪い。
有能な執事はすぐさま彼女の無事を確認し、物凄く冷たい目で報告してくれた。
勝手に馬に乗ろうとしていたのに驚き、馬番が馬車を用意してくれたらしい。聞いた時は流石にほっとした。多めに渡した臨時収入には勿論口止め料も含まれている。
以後屋敷内には微妙な空気が漂っている。
険悪な夫婦どころか、結婚初夜に妻に逃げられた無様な夫扱いだ。
年配の執事は婚約期間中に誠意が足りなかっただの、奥様が可哀想だのと嘆いてくる。
顔を合わせる度にぐちぐち言われてる自分は可哀想ではないのかと反論したいが、どうせ倍になって嫌味を返されるだけだろうから黙って聞いていた。
それにしても帰って来ないな。
魔術院と言っていたが、彼女はそこで住み込みで働いてでもいたのだろうか。確か魔術の素養を持っていた筈ではあるが。そんな事を侍女頭に聞いてみたら、驚愕の目で見られた。似たもの夫婦め。
「なんなんだ。私の態度が悪かったのは認めるが、いくらなんでも彼女も意地を張りすぎだと言っているんだ」
侍女頭は苦いものでも口にしたような顔をしてから、口を開いた。
「旦那様、奥様は魔術院にお勤めなんですよ」
やはりそうかとリカルドは得心した。
それと同時にこの屋敷より、職場の方が良いと逃げ込む心情に申し訳ないような気持ちと何故か苛立ちが湧いた。
「そうか、伯爵夫人よりも掃除婦の方が彼女には心労を与えないか」
その言葉に侍女頭は口をあんぐりと開けて固まった。
「な、なんだジェイン」
どう見ても過剰な反応にリカルドも焦る。
「旦那様……ご存知無かったのですか?」
「……何がだ」
眉根を寄せるリカルドにジェインは口を開き掛けたものの、何かを思い立ったように、少々お待ち下さいとぱたぱたと退室していった。
少ししてジェインは大衆向けの雑誌と平民用の新聞────簡易の瓦版をいくつか手に戻ってきた。
それを、どうぞとリカルドの手に押し付けてくる。
訝しみながらそれに目を向ければすぐに妻の名が目に入ってきた。
天才、秀才、奇才。その全てが妻を評する言葉であり、賛辞であり冷評であった。
リカルドは目を丸くした。
評価云々ではなく、自分の妻が平民向けとは言え新聞を賑わせている。
「な……」
慌てて他の紙面にも手を伸ばせばどれも彼女を語り、中には信者めいた言葉が連なっていてリカルドは目眩がしそうになる。
「か、彼女は有名人だったのか?」
その言葉にジェインは、両手を腰に当て、はあやれやれと首を横に振った。
「旦那様のような高貴な方々は、こんなもの読まないかもしれませんがね、ご自身の妻となられる方ですよ。どうして知らないんですか」
本気で呆れ返る侍女頭はリカルドの母親代わりでもある。
リカルドの両親はいわゆる貴族の結婚で、結婚後も上手くいかなかった典型だ。
幼い頃は不憫に思ったのか、両親に隠れてこっそりと甘やかしてくれた人でもある。夫である執事もまた、リカルドと弟を育んでくれた一人だ。その為、リカルドは彼らに気安い態度を許してしまうが、こき下ろされていい気はしない。
「そんな気分にはなれなかったんだ」
憮然と告げるリカルドにジェインは一つため息を吐き、雑誌の一つを手に取り説明を始めた。
「奥様は魔術院で優秀な魔女と称されていて、私共庶民の憧れでもあるんですよ」
「どういう事だ? 彼女は一応貴族だし、何故それ程平民に、
「奥様が庶民の為になる研究を第一に考えているからです。第一人者のウォレット・ウィリス様は流石に旦那様もご存知でしょう?」
きらりと光るジェインの目にリカルドは慌てて首肯した。
「当然だ」
彼こそ貴族会を切っての魔術研究の天才であり、また、魔術院長である父親との見識の違いから、自ら平民落ちした有名な異端児だ。
魔術と貴族。これへの隔絶は未だ根強い。
ウィリスの生家であるフェルジェス家は代々魔術院長を担っている名家だ。だが魔術とは労働の元に産まれる道具の一つであり、それを担うのはあくまで平民というのが、一般的な貴族の考えであった。現フェルジェス家当主もそれに倣っている。
なぜなら魔術は扱うものではなく、研究の上に成り立つ。
我らの時代には、古の魔術師の扱った魔法のような現象など、夢物語の世界なのだから。
だが魔術という特異な
貴族にとっての婚姻などその程度。分かってはいるが当事者となると、面白くないと思うのは仕方がないだろう。
そもそもそれがただの表向きの理由だろうと、穿った見方をしてしまっている時点で、結婚自体受け入れがたいと思ってしまうのだから。
「奥様はウィリス様の共同研究者なのですよ」
思考の波に攫われていたところ、差し伸べられた手にリカルドは瞠目した。
「何だって?」
知らないそんなこと。彼女がそんな高等な魔道士だったなんて。いや、知ろうともしなかったのは自分だ。
リカルドの頭に娘との婚姻に感謝していた義父母の顔が浮かぶ。それ程優秀なら他に貰い手ならあった筈だ。それこそ貴族の婚姻として有利に交渉する事だって出来ただろう。
リカルドの疑念が顔に出ていたらしく、ジェインは少しだけバツの悪そうな顔をした。
「ですがオリビア様が自領での研究に失敗してしまって。セイデナル男爵領は一時的に多大な負債を抱え込んでしまったのです」
研究に失敗というからには、持て
眉根を寄せるリカルドにジェインは頬に手を当てため息をついた。
「何でも古代の魔術師が開発した毛生え薬の陣を発動した結果、男爵家の作物が毛まみれになっていまったらしくて」
「……」
「毛をむしれば食べられない事は無いのですが、手間だし、見栄えも悪いでしょう。それで売れなくて大損失を被ったらしいのですよ」
何をやってるんだあの娘は……
「だけど、育毛の陣の発見は価値の高いもので、その成果で収支を相殺できれば良かったんですが、そこは魔術院が既得損益を巡って議論に発展してしまったらしくて、負債に充てるのに間に合わなかったようで」
ため息がでる。
「もういい分かった」
いや、何が分かったのかはわからないが。
つまり妻は魔術院勤めの研究者で、その上かなりの変わり者であるという事だ。
「……で、研究にかこつけて魔術院から帰って来ないと」
腕を組み口にすればジェインは不満そうな顔をしている。
「何だ、まだ何かあるのか」
つい低い声で問えばジェインは首を横に振り、いいえと呟いた。
「失礼いたしました、私はこれで。昼食の際またお呼びいたします」
訝しみながら退室を見送り、テーブルに散らばった妻の記事を整えて執務机に仕事に戻った。
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