第32話 風の魂
王都も真冬になり、冷たく乾いた、強い風が吹く日々が続いた。天気が悪い日は傷が痛み身体が動かしづらいので、寒くても晴れた日が多いことは今のレイフにはありがたかった。身体の機能は多少回復したものの、リーリを弾けるほどには左手の動きは回復しなかったし、部屋から出るときは杖を使っていた。身体に埋めこまれた混沌は、確実にレイフを蝕んでいた。
イミニ妃とサーシャ妃はレイフの体調を気遣い、ことあるごとに声を掛け、お茶に誘ってくれた。
今日もイミニ妃は多忙な公務の合間を縫ってレイフの部屋を訪れていた。
「イミニ様にこちらに来ていただくなんて…」
レイフは戸惑いながらイミニ妃を迎えた。
「いいえ、レイフ様。王太子宮の中といえど、移動するのは難儀でしょう? わたくしの方から参るのが合理的ですわ」
イミニ妃はいつものとおりふわりと笑った。
「今日は、珍しいお菓子を頂きましたので、レイフ様にも差し上げたいと」
イミニ妃は侍女が押しているワゴンを示す。
「ありがとうございます」
イミニ妃は微笑んだままレイフを見る。以前王太子宮に滞在していた頃と比べると、すっかり痩せてしまった。最近では臥せっていることも多くなったと聞いている。心配だった。今日も、お菓子をもらったというのは方便で、レイフを見舞う口実として、少しでも口にしやすくて滋養のあるものがあればと、イミニ妃が手配したものだった。
「レイフ様、お身体はいかがですか? 最近は冷える日が続いておりますし…」
お茶の用意が整い、テーブルを囲む。
「悪くありません。曇りや雨の日に比べると、寒くても晴れている日は調子がいいので。…あ、おいしい」
温められたケーキは、切ると中からとろりと甘いソースが流れ出す。レイフの素直な反応にイミニ妃は微笑む。
「たくさん召し上がって。お気に召したのなら、取り寄せましょう。今度はサーシャ様も一緒にいただきましょうね。今日はお忙しくていらっしゃるようで、残念でしたわ」
イミニ妃はそう言うものの、自身はお茶にもお菓子にも手をつけない。レイフはその原因に気づいた。
「イミニ様…。隣に行ってもよろしいですか?」
「え? ええ、もちろん…」
レイフは精霊を現す。
「イミニ様の隣に、椅子を運んでくれないか」
風の精霊が手を取って立ち上がるのを助け、火の精霊と土の精霊が椅子をイミニ妃の隣に運んだ。
レイフは腰掛けると、目を閉じた。
「なんて綺麗な風の魂だろう」
レイフの言葉に、イミニ妃は目を見開いてレイフの方を見た。
「まだ小さいけれど、すごく明るくて、力強い。魂の色はお母様から、輝きはお父様から頂いたんだね。王子殿下でいらっしゃる」
「レイフ様…」
イミニ妃の声は震えていた。
レイフは目を開けてイミニ妃を見ると、微笑んだ。
「おめでとうございます、イミニ様」
「あ…、ありがとうございます、レイフ様…」
唇をわななかせながら、イミニ妃はなんとか言葉を紡いだ。
「レイフ様は…、以前、わたくしを救ってくださったことがおありですわね?」
「…」
あの時、レイフに言われたということは黙っていてくれと頼んだ。
「その時は、気づきませんでした。ただ、殿下が突然お見えになったことが嬉しくて、救われた気がしました。ひとりではないと、悲しみを共に背負っていただけたことが、どれほど心強かったでしょうか」
イミニ妃はレイフの手を取った。
「実はあれは、『2度目』だったのです。最初は何事もなかったかのように振る舞っていました。それは珍しくない、よくあることだというのは知っていましたから。それでも、悲しかった。悲しくて、寂しくて、身が引き裂かれる思いがしました。自分の中にそのような感情があることを、わたくしはその時初めて知りました。これ以上の悲しみには耐えられないと思っていたのに、また、同じことが起きて…」
レイフはイミニ妃の手に自分の手を重ねた。
「…正直に告白いたしますが、わたくしはレイフ様に嫉妬していました。でもあの時のことに気づいて、わたくしはすっかりあなた様に嫉妬する気持ちを失って、晴々とした気持ちになったのですわ」
その言葉にレイフは驚愕する。
「まさか、なんで…」
「ふふ、おわかりにならないのですか?」
イミニ妃は優しく微笑む。
「だって、殿下は、殿下が、恋しておられるのは、あなた様だけなのですもの。もちろん、殿下はわたくしたち3人の妃を平等に愛しておいでですわ。でも、殿下が恋をしているのは、レイフ様、あなただけなのです」
「…」
レイフは何も言えなかった。
「もちろん、殿下はそのようなことはおっしゃいませんわ。レイフ様ご自身にも、おっしゃらないでしょう、きっと?」
レイフは頷く。
「そういう方ですわ、殿下は。おそばに、いて差し上げてくださいませね? レイフ様、わたくしを悲しみと嫉妬から救ってくださったように、殿下も救って差し上げて」
イミニ妃は首を傾げて微笑む。レイフは両手で顔を覆った。涙は後から後から溢れた。
夜更けに王太子がそっとレイフのベッドに滑りこんできた。王太子はこうして毎晩レイフの様子を見に来て、時には朝まで一緒にいた。
「ん…」
頬にくちづけられたのを感じて、レイフは目を開けた。
「すまない、起こしてしまったな」
「ううん、いいんだ…夕方にちょっと眠っちゃって、眠りが浅かったんだ」
レイフは王太子の温かい胸に顔を寄せて、深く息をついた。
王太子はレイフの前髪にくちづける。
「おやすみ、レイフ」
「うん…。おやすみ、アールト…」
王太子に抱かれて、穏やかな気持ちで眠る。もう何にも、心を悩ませる必要はなかった。愛しい者を愛しいと思う、ただそれだけのことなのに、ずいぶん遠回りをしてしまった。レイフは素直に王太子に甘えた。そして、イミニ妃とサーシャ妃に。そう、王太子は、イミニ妃とサーシャ妃を悲しませてまでレイフの元にやって来るような男ではない。こうしてレイフのところに来るのは、2人が認め、許しているからだ。なぜそんな簡単なことが、わからなかったのだろう。
(甘えていよう…もう、残された時間はそれほど長くないから。ああ、風の魂の王子様には、会いたかったな…)
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