第13話 多少の不名誉(回想)

 明日の朝には大寺院の使者が王宮に殴りこみをかけてくる、チャンスは今日しかない、と精霊は言った。


「殴りこみって…」


 天を駆ける戦車の上で、レイフは苦笑する。


「これは立派な戦争だ、レイフ。上品で陰険な」


 精霊はニヤリと笑う。王太子は、政治の駆け引きを知っているのだな、とレイフは思う。いつもは一緒にお菓子を食べてくだらない話をしている王太子が、急に遠く感じられた。


「そうだレイフ。自由を得るためには、多少の不名誉に耐えてもらう必要がある。承知しておけ」


「わかった…」


 口ではそう言いつつ、何のことかは全くわからない。

 王太子は戦車を、後宮の中の王太子とその妃たちが住まう王太子宮に入れた。王宮の応接室と執務室には入ったことがあったが、後宮に入るのは初めてだった。


「ここに私の許可なく入ってこられるのは王妃だけだ。大寺院の連中には手出しできない」


 王太子宮の北側のバルコニーに戦車をつける。北側の目立たない位置にあり、なおかつ目の前はちょっとした森のようになっていて、外からでも室内の様子を伺うことはできない。しかしバルコニーは他の部屋同様立派なもので、戦車を楽に停めることができた。塔のように、空中に浮かばせた戦車からバルコニーに飛び降りる必要はない。


「アールトは執務があるので夜まで来られないが、ゆっくりしていてくれ。カーラをこちらに来させている」


「わかった」


 精霊は手を取ってレイフを室内に案内した。


「ではまた」


 精霊はレイフの手の甲にくちづけると姿を消した。王太子のところへ戻ったようだ。精霊の唇は、血が通わない冷たい唇だった。


「レイフお嬢様」


 カーラはレイフも顔馴染みの侍女だ。歳は40歳くらいだろうか。レイフの母親でもおかしくない。茶色の髪に水色の目をした、小柄で優しげな雰囲気の女性だった。


「やあ、久しぶり」


「本日は、おめでとうございます。誠心誠意、お勤めさせていただきます」


「あ、うん…?」


 ここにきてようやくレイフは、何かがおかしいことに気づいた。


(えっ!?)


 王太子が言った「多少の不名誉」とは、そういう意味だったのか。

 

(そうだ。そう、そういうこと…だよな。お妃になるって、私が言っちまったんだった…)


 今日しか時間がない…、多少の不名誉に…、夜まで来られない…、精霊の言葉の意味することをやっと理解すると、途端に全身から汗が噴き出した。


「お嬢様?」


「あ、ああ。うん」


「こちらへ。お菓子などいかがですか? お嬢様のお好きなものを作らせました」


 カーラは落ち着いてレイフをソファにかけさせた。


「色々なことがあまりに急なので、動揺しておいでかもしれないと殿下から伺っております。少しでもお寛ぎくださいましね」


「…ありがとう」


 王太子の妃になる。婚姻を結ぶということ。そのふんわりした言葉の向こう側、手を伸ばせば触れられる現実の一番近いところに何があるのか、それくらいのことはレイフも知っていた。でも、それは自分とは関係ない、遠いどこかで起こるお伽話のような気がしていた。

 大好きなはずのタルトは、全く味がしなかった。


「本当は、もっとお時間をかけて、ゆっくりと準備していくものなのですけれど」


 カーラは紅茶のカップを、音もなくレイフの前に置いた。


「…」


 まあ、そうだろうなとレイフも思う。精霊使いの村の結婚だって、1年くらいの時間をかけて準備するのが普通だ。


「それでも、王族の方が本当にお好きな方と結ばれるなど、ないことですわ。わたくしは殿下がお小さい頃からお側に仕えておりますけれど、殿下は本当に、レイフお嬢様がお好きでいらっしゃるのですわ。拝見していればわかります」


 上品に微笑むカーラに、レイフは顔が上気してくるのを感じた。両手を扇代わりにして、ぱたぱた扇ぐ。


「でも。これは、なんというか。仕方なかったというか。王太子も、奥の手を使わざるをえなかったんだと思う…」


 焦って言い訳するレイフに、母が娘に向けるような柔らかい笑顔を向ける。レイフの粗野な言動をよく思わない侍女もいる。確かに、王族をはじめとした身分の高い人々や城に仕える者たちに比べれば、言葉遣いも粗いし所作も洗練されてはいない。しかし、いつまでも変わらない、この飾らないレイフをこそ、王太子は愛しているのだろうと彼女は思う。それに、レイフはどことなく人を惹きつけるものを持っていた。レイフは光の来訪者だという。魂が見える者にとっては、レイフは光り輝く、この世に2つとないであろう美しい魂なのだとか。類稀な精霊使いでもある王太子がレイフを愛するのは、当然のことだ、運命のようなものだと言う者もいた。

 緊張を隠すこともできず黙々とタルトを口に運ぶレイフはまだほんの少女であり、かわいらしかった。


「おかわりはいかがでございますか?」


「いや、もういい。ありがとう。ちょっとひとりになりたいんだけど、いいかな」


「ええ、もちろんですわ。控えの間におりますので、ご用がございましたら、こちらのベルを鳴らしてお呼びください」


 カーラはテーブルの上の金のベルを示した。


「わかった」


 カーラが退出すると、レイフは大きくため息をついて立ち上がった。


「とんでもないことになってきた…」


 バルコニーにはまだ光の戦車が停まっていた。王太子には、必要であればいつでも呼んでいいと言ってあるし、光の精霊にも、王太子の呼びかけに応えるように言ってあった。今日は戦車が要るような執務はないということなのだろう。

 レイフはバルコニーに出て、光の馬の首筋を撫でる。


「どうしよう」


 声に出してふと気づく。

 自分さえその気になれば、すぐにここを出て行くことができる。王宮の人気のない場所で、侍女も1人だけ。そもそも、レイフが出て行ったことに気づいたところで誰も止められはしないわけだが。

 これは、出て行きたければ出て行ってもいい、という王太子からのメッセージだ。


 王宮を出て、国を出て、誰も知る者のいないどこかへ。

その考えはレイフを甘く誘惑した。


(でも…)


 ここを出れば、二度と王太子に会うことは叶わないだろう。両親に代わって後見人を務めてくれた族長にも。散々苦労をさせておいて、また迷惑をかけてしまうと思うと、辛い。自分が去ったら、ドラゴンもついてくるのだろうか。この国の人々は、自分と共にドラゴンが去ったことを知ったら、この国から恩寵が失われたように感じるのではないか。その気持ちは王宮へ、ひいては王太子へ向けられることになりはしないか。

 レイフは広い王宮のどこかにいる、王太子の魂を探した。しかし気持ちが乱れているせいか、隔たりすぎているせいか、うまく感じることができなかった。

 レイフは目を閉じた。

 ここから出て行く選択肢を自らの手で捨てる。それを取るには、自分はあまりにも彼らを愛しすぎている、とレイフは思う。

 朧げな感覚しかないが、光の世界では、このような執着に惑わされることはなかった。個と全は同義であり、自と他の区別もなかった。世界は喜びの歌に満ちていた。ぼんやりとした光のヴェールの中で、全ては調和の中にあった。

 この世界はクリアで、色彩豊かで、美しすぎる。この世界の者たちは、あまりにも愛おしすぎる。

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