7 伊吹は津久井と対峙する

 伊吹の目から見て、

 津久井の身体能力は普通の成人男性と変わらないように思える。


 数秒ほど走って追いかけられた、距離は縮まりはしても、

 追いつかれていない。


 相手が関だったらとっくに追いつかれているはずだ。


(軽く息を切らしているわね。

 津久井は医者。

 平均的な成人男性よりも足が遅いくらい?)


 イレーヌの記憶の中でも、

 津久井は関や桧山のような超人的な運動能力は見せていない。


 下着売り場のワゴンの隙間を縫うようにして移動しているのだから、

 津久井は飛び越えるような跳躍は無理なのだろう。


「きっと、なんとかなるわ」


 両者を隔てるものは、商品陳列のワゴン一つ。


 やり過ごせる距離ではない。


 伊吹ひとりが素手で取っ組み合いを演じれば負けるかもしれないが、

 大声を出したから、警備員との来援を期待できる。


「商品の一つでも購入してから通り抜けなさい!」


 伊吹はワゴンを押し、津久井の行く手を遮る。


「ぐおっ!」


 激突した津久井とワゴンは、

 数店舗先まで届きそうな音を撒き散らし転倒した。


(やはり間違いない。

 津久井は、関や桧山のような身体能力はもっていない)


 予想通り津久井の身体能力が低いことが分かり、

 余裕の出来た伊吹は周囲を見渡す。


 津久井と遭遇した時はどうなるかと思ったが、

 予想以上に事態が好転している。


 子供服売り場のあたりに警備員がいる。

 しかも、身長は180ほどありそうだ。

 周りの棚から頭がひとつ出ている。


 伊吹は警備員に向けて声をあげる。


「痴漢が刃物を振り回して暴れています!」


 声は届き、警備員が駆け寄る勢いを一気に上げた。


「大丈夫ですか!」


 肩幅の広い大柄な若い男だ。

 見た目だけなら、柔道の黒帯。


 警備員を務めるのだから、

 柔道とは限らないが実際に武道の経験はあるだろう。


「君、危ないから離れて」


 見た目に似合った重い声を発しながら、

 警備員は伊吹と津久井の間を遮るような位置に来た。


「その人、長い刃物を隠し持っているわ。

 薄くて目に見えないから、気をつけて」


 伊吹は警告を残し、さっさと逃げることにした。


 伊吹はいくら津久井が暴挙におよんでいるとはいえ、

 負傷者を出すはずはないと思いこんでいた。


 伊吹は若干の安堵を覚えつつ、

 柚美の逃げた階段方向へと向かう。


 しかし、太い悲鳴が井吹の足を止める。


「ぐあああっ!」


「え?」


 不穏なものを感じて振り向けば、警備員が腹を押さえて呻いていた。


 津久井は両腕を広げ、薄ら笑いを浮かべている。


「津久井!」


 伊吹は、津久井が能力を一般人には使わないとたかを括っていた。


 能力者といっても、現代社会の一員である以上は、

 人を傷つければ犯罪者として追われる立場だ。


(既に組織とやらから、

 関という追っ手がかけられているのに、

 警察からも追われるつもりなの?

 デパートには監視カメラだってあるわよね?

 外科医という社会的地位のある男が、

 こうも堂々と犯罪におよぶ?

 そこまでしてアイさんを誘拐したいの?)


 津久井は現在の地位や生活を捨ててまで、

 アイの身柄を確保しようとしている。


 伊吹には想像もつかない覚悟があるように思えた。


 伊吹は薄ら寒いものが背筋を這い昇っていくのを感じた。

 生半可な覚悟では、津久井を食い止めることは出来ない。


 津久井は、足下のおぼつかなくなった警備員を押しのけると、

 階段の方へと走りだした。


 伊吹を無視してアイを追うつもりだろう。


「待ちなさい!」


 伊吹と津久井の間には、転倒したワゴンがあるだけだ。

 津久井の足を止める手段がない。


 伊吹は走って追いかけようとしたが、

 腹を押さえて苦しんでいる警備員の姿が視界に入り込む。


(無関係なのに、

 私の甘い見積もりのせいで巻き込んでしまった……)


 自責の念が込み上げて足が動かなくなってしまう。


 柚美達を追いかけたい衝動を抑えつけ、警備員に駆け寄る。


「大丈夫ですか」


「あ、ああ。君こそ、怪我は」


「私は大丈夫です」


「そ、そうか。それはよかった……」


 警備員は両手で腹を押さえていたが、

 片方の手を離し、腰の辺りを探り無線機を取りだす。


「こちら二階、女性下着売り場。

 店舗の蛍光灯を破壊していた不審者と遭遇。

 不審者は三十代男性。身長170前後、痩せ型。

 紺色のスーツ。刃物を所持」


 警備会社かデパート内の詰め所に連絡しているのだろう。


 男は片手を離したせいか、目に見えて出血が増えた。


 伊吹は慌てて手近にあった白い布を掴み、

 警備員の傷口に押し当てる。


 防刃ジャケットらしき肉厚の制服が裂けている。


(嘘でしょ……。

 これって犯罪者にナイフで刺されたときに身を護るための服よね?

 それがこんなにも綺麗に切れているなんて……)


 傷跡を目の当たりにしてゾッとしていると、

 無線通話を終えた警備員が何か言ったが、

 伊吹は聞き逃してしまった。


 おそらく止血をしたことへの礼だろう。


「私が呼んだせいですみません」


「ああ、いえ……」


 最初の布が血で染まったので、伊吹は新たに別の布を上に重ねる。

 ピンク色をしていて、素材はシルクだ。


 肘も切っているようだったので、

 別の形をした布を使って、警備員の腋をきつく縛り上げる。


「止血、大丈夫ですよね。

 ここを右手で押さえてください。

 私のせいで怪我をさせてしまったのですから、

 汚した商品の代金はあとで払います。

 もし何かあれば隣町の桐原道場に連絡をください」


 伊吹はフロアの柱にある時計を確認すると、

 男の血を使い、指先で男の額に時間を書いた。


 過去に男以上の重傷を負ったことのある伊吹は、

 血を見ても怯むことなく、応急処置を終えることができた。


「あ、ああ。ああ?」


 ようやく警備員は、止血に使っている布切れの正体に気付く。


 怪我で青ざめていた顔が赤くなった。


 女性下着売り場に大量にある布切れが何かなんて、分かりきっている。


「うひひゃっ」


「変な声を出さないでください。傷口が開きます」


「い、いや、しかしですね。止血のためとはいえ」


 警備員は大声を出しているし意識は明確。

 体格にも恵まれているため、体力はあるのだろう。


 伊吹は、男の命に別状はなさそうなのが分かり、安堵の息を漏らす。


「おい、どうした、何があった?」


 別の警備員が血相を変えて駆け寄ってきた。


 無線連絡を聞いてからにしては早いから、

 騒動を聞きつけて近くに来ていたのだろう。


 伊吹は怪我人を新しい警備員に任せ、

 津久井の行方を追うことにした。

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