8 伊吹は駐車場で襲われる
伊吹はゴスロリ衣装のせいで注目を浴びたが、
エレベーター乗り場まで全力で走った。
下着売り場から離れると、
騒ぎを遠巻きに見ている人や、野次馬しに行こうとする人はいたが、
大きなパニックにはなっていないことが分かる。
離れた位置に居た者からすれば、
女性用下着売り場周辺の蛍光灯が数本、
割れただけという認識なのだろう。
伊吹がエレベータ脇の階段を前にして壁に手をついて息を整えていると、
絵理子が駆け降りてきた。
「良かった。伊吹。無事ね。遅いわよ」
「私のせいで怪我をした人がいて、放っておけなかったの。
関に連絡を取って。
私達だけじゃ、津久井から逃げ切れないわ」
「もう電話した。
けど、あっちはあっちで立て込んでいるそうよ」
「そう。きっと桧山という男もここに来ているんだわ……」
「階段、行ける? エレベーター使う?」
「ん。大丈夫。手、引いて」
伊吹が絵理子に手を引かれて階段を昇る途中、
階下から地響きのような鈍い音がよじ登ってきて足下を揺らした。
「関が一階か地下駐車場で戦っているのね」
「え、ええ……。こんな音が鳴るほど暴れているの」
「右腕が大蛇になるのよ。絵理子さんも見たら驚くわよ」
「は虫類は苦手だし、見たくないなあ……」
にわかに人々の叫び声も混じり始め、
混乱が拡大しつつあるようだ。
戦闘の余波がふたりを急かすように駆り立ててくるが、
店内を走った直後で伊吹の息が上がっていたため歩くしかない。
「はぁ、はぁ……。
まったく、たかが数階の階段で、こんなに……。疲れるなんて」
「無理しちゃ駄目よ」
「ええ」
伊吹はつい、出入り口スペースにある自販機に目が行ってしまうが、
顔を背けて視界に入れないようにする。
天井の管をくぐもった音が駆けめぐっていた。
遠くを見れば駐車場の外は薄墨に染まっている。
「本当に酷い雨男ね……。
どうして関が戦っているときは雨が降るのかしら」
伊吹は「はあ……」とため息混じり。
異なる理由だが、絵理子も一緒にため息を零した。
「この雨の中を運転するのかあ……。
前、見えるかな」
ふたりが車に辿り着き、
運転席側と助手席側に分かれたところで
「誰」
絵理子が誰何し、姿勢を変えずに、素早く後ろに下がった。
「どうしたの?」
「柱の陰、誰か居る」
突如、絵理子が指さす柱の陰から男が躍り出た。
男は絵理子に向かって拳を振り上げる。
アイが誘拐されたときに運転手をしていた男だと、
伊吹が気づいた瞬間には終わっていた。
「ぐあっ!」
襲撃者は受け身も取れずに床に叩きつけられ、
反動で胸を仰け反らしている。
伊吹は痛みを想像し、反射的に背中を縮めて目を半分、閉じてしまう。
絵理子は合気道の師範なのだから、
並の男が不意打ちしたからって、どうこう出来るはずもない。
「うちの家系って、どうなっているのかしら」
伊吹はつい独りごちる。
祖父は剣道の世界選手権で優勝したし、
父は祖父に匹敵する実力者だった。
早くに他界した母も、やはり剣道の達人だったらしい。
両親は道場で出会って、勝負の末に互いを認め合って結婚したと聞いている。
伊吹自身は引退するまで、剣道の全国大会を連覇している。
剣道雑誌だけでなく、
一般のスポーツ紙にも取り上げられるほどには、
天才と持て囃された。
襲撃者が関のような異能力を使う相手なら、
伊吹にはよそ事を考えている余裕なんてないはずなのだが、
つい、絵理子といる頼もしさが勝ってしまう。
伊吹は気を引き締めようと、息を短く吐き、軽く顎を引く。
ふらつきながらも襲撃者が立ち上がる。
「くっ……。いったい、何が……。ぐああっ!」
既に男の背後に回り込んでいた絵理子が腕を取り、関節を極める。
「いきなり、殴りかかってくるなんて随分と非常識ね。
けど、そこまで。暴れたくても、もう無理。
折られたくなかったら、大人しくして」
「くそっ。なんなんですか。テメエは。
関以外にも能力者が来ているなんて聞いていませんよ!」
額に脂汗をにじませた男が腕を取られたまま毒づく。
手際が鮮やかすぎたため、どうやら男は絵理子を、
関たちと同類の能力者だと誤認したようだ。
伊吹から男の第一印象は、暴力に荷担しているとは思えないような優男だ。
街を歩いていれば「ねえ彼女、一緒に遊ばない」と声をかけてくる男のような風体をしている。
男は身を捩って逃げようとしたが「痛い! 痛い!」と情けない声をあげてから大人しくなった。
「絵理子さん。そいつは津久井の部下よ。
絶対に関節を緩めないで。
もしそいつが妙な素振りを見せたら、関節を砕いて、折って。
津久井のもうひとりの仲間は手から火を出したわ」
「想像したくないなあ……。
まあいざとなったら遠慮なく肩関節くらい。……え?」
痛みに悶えていた男が急に大人しくなり、
平然とした声を出し始める。
「はあ。まったく、理不尽ですよ。
ここにいたのが、僕で良かったですね。
津久井さんや桧山だったら、
詰んでるかもしれませんよ」
男は頭を左右に捻りながら、歩き始める。
合気道の師範が肩関節を取っているというのに、
男は歩き続け、そのまま、するりと絵理子から離れ、
自由になってしまう。
男は大きく踏み込み、正面の伊吹に殴りかかってくる。
絵理子から逃れたことに驚き、伊吹は反応が遅れてしまったが、
なんてことない大振りの喧嘩パンチだ。
伊吹は絵理子の指南で合気道の基本的な動作は身につけている。
伊吹は半歩身を引き、
男の腕を取って投げ飛ばそうとした瞬間、手に妙な感触が生まれる。
男の腕が、ゼリーのように柔らかい。
少しでも力を込めるとめり込んでしまうせいで、
男の手首を完全に掴みきれない。
「何これ!」
伊吹は横に飛び退こうとしたが、つっこんでくる男の勢いに負ける。
肩と肩がぶつかり、勢いと体重に押し負けた伊吹は、
後ろに弾き飛ばされる。
転倒するのを避けようと数回地を蹴ったが、
姿勢を直せず、お尻から転んでしまう。
運悪く転んだ位置にあった車に肩をしたたかにぶつけた。
「……たっ!」
「伊吹、大丈夫?」
「痛い……。
けど、なんとか」
絵理子がすぐさま間に入り、襲撃者の追撃を阻止する。
伊吹は絵理子の後ろ手を借り、立ち上がる。
「あいつの手、タコかイカみたいになってたわよ」
「関みたいに蛇になるのかもしれないわ」
「なんですか、お前たちは。
組織が把握していない能力者ですか。
ん、ん~。野生の能力者発見~?」
伊吹は余裕な態度を取る男を観察した。
細くはないが、スポーツや武道経験がある体付きには見えない。
踵はべったりと地面についているし、肩がふらふらと揺れている。
「アイーシャを出してくれませんか。
あの女と交換しましょう」
男が潜んでいた柱のさらに奥から「痛っ」と小さな悲鳴がして、
柚美がおずおずと顔を出した。
「柚美さん!」
車体の陰になっているためハッキリとはしないが、
柚美は両腕を身体の前で拘束されているように見える。
少なくとも、伊吹たちに駆け寄ったり、
反対側に逃げたりできない事情はあるようだ。
「悪い条件じゃあないですよね。
あの子を解放する代わりにアイーシャを渡してくれませんかね。
直情馬鹿の桧山と違って、僕は争いごとが嫌いなんですよお」
(アイーシャを渡してくれ? どういうこと?
アイさんは柚美さんと一緒にいたんじゃないの?)
伊吹は、柚美だけ掴まっている状況に戸惑い、
思わず顔に出してしまったが、男は不審に思わなかったようだ。
なぜ、柚美だけが捕まっているのだろう。
柚美は気心の知れた友人だが、
目と目があっただけでは何を訴えているのかは分からない。
「先ず、その子に酷いことをしないと約束して」
「貴方たちの態度次第ですよ」
(津久井や桧山と違って、
この男は会話が成立する?)
同じ判断をしたらしい絵理子が一歩前に出る。
相手を説得できるか試みるようだ。
「貴方たちがアイちゃんを連れ去ろうとする理由を教えてください。
貴方たちがアイちゃんのご家族だと言うのなら、引き渡します」
「絵理子さん!」
「いいから伊吹は黙ってて。
貴方、喧嘩を売ることしか考えていない。
関君の話ばかり聞いていて、
この人たちの言い分は全く聞いていないでしょ」
伊吹は文句を言いたかったが、
自分よりも絵理子の方が冷静そうだし、
大人を頼りにしたい想いもあるので引き下がる。
「貴方や津久井さんは随分と暴力的なことをしているように思います。
正当な理由がなければ小さい子を貴方たちに渡すわけにはいきません。
あるのでしたら、理由を教えてください」
「ん。んー。正統な理由?
それならありますよ。人助けです」
絵理子は「人助け?」とオウム返しにした後、一拍置いて続ける。
「貴方たちの元にいる方がアイちゃんのためになるという意味ですか?」
「詳しくは言えませんけどね。
僕たちは、人の命を救うために、
アイーシャを必要としているのです」
声音だけなら随分と誠実そうに聞こえる。
人好きそうな笑顔のようにも見える。
だが、伊吹は男を信じる気にはなれない。
大蛇で襲ってきた関ですら、言葉が先にあったというのに、
目の前の男も津久井も、会話よりも先に暴力を振るってきている。
「アイちゃんを渡すには条件があります。
先ず、一切の暴力を振るわないこと。
貴方の言う人助けに私を同行させること。
関を立会人にすること」
「そういう条件を飲めないから、
先にこれを見せたんですけど?」
男が親指で背後を示すと、
柚美が「きゃっ」と悲鳴を挙げ、身体をくの字に折った。
「柚美さん?」
「痛い、痛いっ!
あっ! ああああっ!」
柚美は拘束された両腕を上下に激しく振って飛び跳ねる。
「やめなさい!
柚美さんに何をしたの!」
伊吹は柚美の下へと駆け寄ろうとするが、
男が横に身体をずらして遮った。
「お前にも同じコトしてやりますよ」
足下から水の跳ねる音がしたので見下ろしたら、
男の両袖から水があふれているのが見えた。
バケツでも仕込んでいたかのような水量だ。
ただの水のわけがないから、
伊吹は同じように駆けだしていた絵理子に警告する。
「離れて」
男の足下から水が跳ねた。
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