5 伊吹はアイと一緒に暮らしたい

 桐原家の居間では、

 伊吹、アイ、柚美、絵理子の四人が座卓を囲んで座っていた。


 机には焼きあがったばかりのクッキーが並んでいて、

 甘いバニラの湯気が漂っている。


 アイがクッキーをほいほいと腹の中に納めているが、

 柚美の手はあまり動いていない。


 伊吹は友人の異変に首を傾げる。


「スローペースね」


「や……。

 だって伊吹ちゃんから借りたパンツ、お腹がきつい……」


「穿かなければいいでしょ。

 不満があるなら、下着丸出しでどうぞ」


「あ、うん。

 丈が余ってて辛いし脱ぐ」


「こーら。柚美ちゃん脱いじゃだめ。

 伊吹も駄目でしょ。

 伊吹は冗談のセンスがないんだから、

 本気で言っているように聞こえるの」


 絵理子はほわほわしながらも、子猫を拾ってきた子供に対する口調だ。


 だから、真剣な話題に切り替えるときでも口調は柔らかいままだ。


「田中さんいるでしょ。郵便局の。

 聞いたらすぐ分かったわ。

 外国の女の子が住んでいるのなんて珍しいし」


 絵理子は伊吹がアイとお昼寝をしている間に、

 アイの身元を調べていた。


「九重橋を渡って少し行くと教会があるでしょ。

 あそこって児童養護施設を兼ねていて、アイちゃんはそこの子だって」


「孤児院ってこと?」


 児童養護施設は、児童福祉法により定められている用語だ。


 だが、古い小説に慣れ親しんでいる伊吹には、

 孤児院という言葉の方がイメージを思い浮かべやすい。


 アイの様子を窺うと、クッキーとジュースに夢中なようだ。


 小さな口でリスのように食べている様子は微笑ましい。


 けど、孤児という事実を知った直後だと、

「まさか教会では、満足にお菓子も食べさせてもらえないのだろうか」

 と伊吹は不安になる。


「施設にも、連絡は取ったわ。

 引き取り手が見つかって、今日は里親と会う予定だったそうよ。

 なのに逃げだしたらしくて、あちらも探していたみたいね」


「里親って、養子縁組み?」


「うん」


「じゃあ、里親の住所によっては、アイさんは遠くへ引っ越してしまうのね。

 そうしたら、もう、会うのは困難……」


 桐原家は裕福だし、優しい家族もいるから、

 伊吹は何不自由なく育ってきた。


 クッキーの登場によりテーブルの端に追いやられた茶受け一つの値段で、アイのポケットを駄菓子でパンパンにすることができるだろう。


「アイさん、美味しい?」


「ウイ。ママにもあげる」


 ちっちゃな手で、クッキーを差し出してきたから、

 伊吹はそのまま口でもらった。


 伊吹は物質的な裕福さが、そのまま精神的な裕福さに繋がるとは思っていない。


 しかし、孤児院という言葉から想像する生活のことを思うと、

 どうしてもアイに同情してしまう。


 思考が絡まった。


 新しい家族ができることを祝福してあげれば良いのか、

 引っ越し先によってはもう二度と会えなくなることを残念がれば良いのか分からない。


 絵理子の話は続いていたが、伊吹にはほとんど聞こえなかった。


 漠然と、アイを孤児院に連れて行けば、

 もう二度と会えなくなる予感がし、息苦しかった。


「聞いてるの?

 アイちゃんを教会に連れて行くわよ」


 伊吹は既にアイを家族同然のように思っている。

 本能では娘のように思っているのだが、

 理性で妹のような存在だと言い聞かせている。


 家族なのに一緒に暮らせないことを考えると、

 目頭が熱くなり、湿ったものを感じる。


 いても立ってもいられなくなり、伊吹は部屋を出た。


 呼び止める声がするが、無視する。


 襖の閉め忘れに気づいたが、戻るのも億劫なので、

 伊吹はそのまま自室に逃げる。


 膝を抱き、身体を丸くして畳に転がった。


 寂しいときの、胎児のポーズだ。


 畳の跡が頬につくのよりも早く、背後で襖の開く音がした。


 和室は鍵をかけることができないので、ひとりになりたい時は不便だ。


「ママ」


 小さな足音が近づいてくると、遠慮なく横っ腹によじ登ってきた。


「ママ、お腹が痛いの?」


「貴方、里親が嫌いだから、逃げてきたのね。

 縁談を潰したくて、私のことをママと呼んでいるの?」


「ママがアイのママだもん」


「アイさんはどうして私のことをママだと思うの」


「ママの匂いがする」


 アイが伊吹の腕を抉じ開け、胸に顔を埋めてきた。


 手ごろな位置に頭が来たので、伊吹はアイを抱きしめる。


「ねえ、今はどんな人と一緒に暮らしているの?」


「おじいちゃん。

 ひげもじゃもじゃだけど、頭がツルツルなの」


「サンタクロースみたいな人ね。

 まだ三月だけど、クリスマスプレゼントの代わりに、

 貴方を私にくれないかしら」


「サンタさんは頭がつるつるなの?」


 それからふたりは他愛もない話を延々と続けた。


 伊吹は、アイの家族について聞き出したかったのだが、

 上手く事は運ばない。


 アイは物心の付いた頃には教会にいたらしく、

 実の両親については全く覚えていないようだった。


 伊吹は出会って数時間で我が子のように愛おしく思えていることや、

 抵抗があったとはいえ授乳の真似事をしてしまったことこそが、

 アイが夢の赤ちゃんである証拠だと思っている。


 アイがイレーヌの名前さえ口にしてくれれば、

 確定するのだが、アイはイレーヌという名前すら知らなかった。


「アイさん。

 もし私と一緒に暮らせるとしたら、孤児院とどっちを選ぶ?」


「ママと一緒がいい」


 アイが額をぐりぐりと動かしたので、

 シャツが胸の先端に擦れてぴりっと痛む。


 噛まれた痕が、また吸ってほしいと疼く。


「ねえ。私の何処が好き」


「強くて格好いいところ」


「なにそれ。貴方も柚美さんと同じようなことを言うのね。

 私が強かったのは昔よ」


「ママ、アイを護ってくれた」


「午前のはただの成り行きよ。

 誰もできっとそうするわ。

 私はそんなに強くないわ。

 今だっていじけて逃げてきたんだし。

 それに……。

 柚美さんに言われたわよ。

 今の私は私らしくないって……」


 少なくとも伊吹にとって大切なふたりは、

 桐原伊吹に強さを求めている。


 伊吹にだって、求められているものが肉体的な強さではなく、

 困難に立ち向かう心の強さをであることくらい、分かっている。


 だが、余命一年を宣告されている身であれば、

 剣道に心一つ打ち込んでいた頃のような、苛烈な気迫など、

 湧かせようがなかった。


 諦観。

 ただ漫然と、変わらぬ日常を過ごすことこそが、

 最良の幸せだと何度も言い聞かせてきた。


 しかし、アイと出会い、揺らいだ。


「子供は親の背中を見て育つのだから、

 格好わるい姿を見せるのは良くないわよね」


 伊吹は胸に抱いたアイの温もりを感じながら、

 自問自答する。


 残り一年の人生はなんのためにある?


 アイを育てるため?


 こんな劇的な出会いなんて、物語の中にしかないことよ。


 これは運命よ。


 臓器提供者の娘と出会い愛情を覚えるなんて、ありえないこと。


 ついでに大蛇に襲われて……。


 きっと今、自分は、物語の主人公になっている。


「ねえ、アイさん。

 絵本は好き?」


「好き!」


「どんな作品が好き?」


「『楽しいライオン』とか『グミとクマ』」


「そう」


 伊吹は、桃太郎とか金太郎と答えて貰いたかったのだが、

 全然聞いたことのない作品が好きと言われて、

 話の流れが思惑どおりに進まない。


 しかし、そんなことは気にしない。


「桃太郎は悪い鬼を退治するわよね。格好いいわよね?」


「知らない……」


「格好いいのよ。

 ねえ、ママの物語、見たい?」


「……?」


「そう。見たいわよね。見せるしかないわよね」


「……ウイ」


「ぐじぐじと悩んでいても事態は好転しないわよね。

 午前中は、諦めずに走り続けたから大蛇から逃れることができたのよ。

 化け物から守り抜いた娘を、みすみす帰してよいの?

 良くないわよね。

 物語なら、戦わなきゃ……」


 胸に抱いたいとおしい存在を手放してもよいのかと自問すれば、

 身体を包む金色の輝きが、駄目だと告げている。


 伊吹は膝に力を込め、立ち上がる。


「里子の縁談、壊せないかしら」


 伊吹はアイを立ち上がらせると、手をつないで部屋を出た。

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