Episode10:海底散策ツアー

 ビアンカの視界の中で次第に空がフェードアウトしていき、代わりに海の水に覆われていく。海に潜っているのと完全に同じ感覚だ。なのに服も身体も全く濡れていない。そして水中に入ったというのに浮力を感じず、相変わらず彼女の足は海底の地面・・・・・を踏み続けていた。


「……なるほど。これは確かに奇妙な感覚だな」


 同じ感覚を抱いたらしいアダムも横で呟いている。ビアンカは無意識に彼の大きな身体に取り縋りつつ、おっかなびっくりという感じで海の中を歩いていく・・・・・。彼等が歩くのに合わせて海の水が押しのけられて、冥蛇の作る『スペース』も彼等と共に移動する。目に見えない透明の壁に覆われた状態で海の中を進んでいるのと同じようなものだ。何とも不可思議な体験であった。


 しかし進むごとに地面は下に向かって降っていき、比例するように海面から降り注ぐ日の光が弱まって視界が暗くなっていく。既に頭上も完全に海水で覆われている。このままでは何も見えなくなりそうだ。海がもたらす闇はビアンカに本能的な恐怖を抱かせる。


「……おい。少し灯りを点けたいが構わないか? このままだとビアンカが精神的にきつそうだ」


 密着していた事で彼女の様子にいち早く気付いたアダムが提案する。リキョウも頷いた。


「そうですね。もう充分な深さまで潜りましたから、そろそろ大丈夫でしょう。ああ、問題ありませんよ。私の方でちゃんと視界を確保する術はありますので」


 アダムが自身に備わった何らかの機構によって照明を点けようとするのを止める。ちゃんと調和した灯りでないと美しくないし、アダムの照明は恐らくこういう状況で使う事を想定していないだろうから、海の生き物を刺激したりしてファイアー島にいる連中に感づかれるリスクも高まる。


 リキョウが合図を送ると、彼の身体に巻き付いている冥蛇の青い鱗がぼんやりと発光・・し始めた。青白い光は『スペース』とその周辺の範囲を淡く照らし出した。



「……!」


 それは何とも幻想的な光であった。ビアンカは思わずその光を通して見る周囲の光景に目を奪われていた。


「綺麗……」


 無意識に呟く。冥蛇の青白い光は『透明の壁』で隔てられた海の水を透過し、スキューバダイビング程度では中々見る事が出来ない海底からの景色を映し出してくれる。


 キラキラと青く輝く海の中を魚の群れが泳いで通り過ぎていく。思ったより色々な種類の魚がいたが、当然ビアンカには名前の分からないものばかりだった。烏賊のような頭足類の姿も見られる。


 海底の地面にも色んな動物がいて、蟹のような甲殻類もいれば地を這うような魚もいた。緯度の高い地域だからかウミヘビやウミガメのような爬虫類系の姿は見られなかった。また勿論種類の判別は付かないが大小様々な海草が生えていて、潮流によってゆらゆらと揺れている様も幻想的に映った。


 冥蛇の作る『スペース』は外部の生き物を通さないようで、たまに接近してきた魚などが透明な壁に当たったかのように向きを変えたりしていた。



「如何ですか、ミス・ビアンカ? この辺りの深さまでくると一般のスキューバダイビングでは到達が難しいので、中々見られる景色ではありませんからね」


「え、ええ……ええ、本当にそうね。凄い……」


 リキョウの言葉にも彼女は海の光景から目を離さずに答えた。当初の恐れや不安はどこへやら、通常ではまず体験できない特別ツアー・・・・・のアトラクションにすっかり魅了されていた。


「……俺一人ならサハラ砂漠の真ん中でもエベレストの頂上でも難なく行けるのだが、他者に影響を及ぼす事が出来んのが歯がゆいな」


 アダムがそんなビアンカの姿を見て、少し面白くなさそうな様子で小さく呟く。透明化などもそうだが、彼の力は彼個人にしか作用しないものが殆どなので、このようにビアンカに超常体験をプレゼントするというような事はできない。それが面白くないようだ。


 しかし当のビアンカは幻想的に照らし出された海中の様子に心を奪われていて、、アダムの小さな呟きは聞こえていなかった。まあアダム自身も聞かせるつもりで呟いた訳ではないので、それに関しては何とも思わなかったようだ。



 最初はおっかなびっくりだったビアンカも徐々に海底を歩く・・事に慣れてきて、地上を歩いているのと殆ど変わらないペースで進めるようになってきた。それでもファイアー島は近いとはいえ徒歩ではそれなりに距離があるので、1時間以上は海底を歩き通しとなった。


 不可思議な海底探検も景色がそれほど変わり映えしない事もあって流石に飽きを感じ始めた頃、先導役のリキョウが斜め上の方向を指差した。


「さあ、着きましたよ。これがファイアー島の地底部分・・・・に当たる山ですね」


「……!」


 当たり前というかビアンカの前に聳えているのは島ではなく、海底から突き出ている大きな山であった。島というのは海に浮かぶ浮島ではなく、このように突き出た隆起の海上部分・・・・を島と呼んでいるのだという当たり前の事実をビアンカは再認識した。


「ここからは登り坂になりますが、幸いというかファイアー島はそれほど急激な隆起で出来た島ではないようです」


 隆起が出来る際の衝撃が速く強いほど勾配の急な高い隆起が出来るのは自然の摂理だが、このファイアー島を形作っている隆起はリキョウの言う通りそこまで急勾配ではなかった。


 徐々に浅瀬に向かって昇っていく一行。時刻は既に夕刻を回っていて、海面に近付いて行ってもそれほど空が明るくない事にビアンカは気付いた。



「さて、もうここまで来れば照明は必要ないでしょう。相手方に気付かれるリスクもありますので灯りは消しますよ」


 島の海岸部分に近付いた所でリキョウが冥蛇の発光を消した。そして地形を選びながら慎重に島に上陸・・する。上陸に選んだ場所は、あのセルゲイという男が乗ってきたヨットが停泊している場所だった。


 ヨットに身を隠せるのと、どうも悪魔の結界が働いているらしく、見つかりにくい条件が揃っていたからだ。加えて奴等が拠点としている施設の入り口にも程近い。理想的な場所だ。


 海を歩いて渡ってきたというのに、一切服を濡らさずに島に上陸したビアンカ達。彼女は数時間ぶりの地表の空気と頭上に広がる空にホッと息を吐いた。やはり人間は地上にいる事が自然・・だ。そう実感した。



「……しかしロシア人共もカバールの連中と繋がりがあったとはな。中国とも協力関係にあるらしいし、本当に節操がない奴等だな。やはりこの国の安寧の為には絶対に排除しなくてはならん連中のようだ」


 ヨットの周囲を覆う『結界』の魔力にアダムが顔を顰める。『結界』は悪魔特有の力なので、カバールとロシア人達が何らかの取引をしているのは確定だろう。そしてそれだけでなく……


「あの……マチルダだっけ? あのCIAの女もロシア人達と一緒にいたのよね?」


 その情報をもたらしたリキョウに確認すると彼は首肯した。


「ええ、今もあの中にいるようですね。この国の防諜と諜報を担うはずのCIAがよりにもよってSVRと手を組んでいるとは、全く世も末ですね。彼等にとってはロシアや中国のような外国勢力よりも、自国の首長のはずのウォーカー大統領や国民党の方が『敵』であるようです」


「SVRって?」


 皮肉気に口の端を歪めるリキョウに尋ねる。それにはアダムが答えてくれた。


「SVRというと一般には解りにくいかもな。要は旧ソ連におけるKGBをイメージしてくれればいい。あれから名前が変わっただけで、やっている事はほぼ同じだからな」


「……! KGBと……」


 なるほど、確かにKGBと言われるとイメージしやすいかもしれない。ロシアにおけるCIAのような対外諜報組織という訳だ。それが本来不俱戴天の敵といえるCIAと手を組んでいるというのは確かに奇妙な話であると言えた。



「しかしそのマチルダ女史は彼等があの基地に連れてきている【ナンバー・ゼロ】という被験体に興味があるようですね。まさかつい先だって話題に上っていた例の被験体がこの場にいるというのには驚きましたが」


 リキョウの言葉にはビアンカも同意だ。遠いロシアにいてどうにも出来ないと思っていた対象が、すぐ近く手の届くところにいる。可能であるならその被験体も救出・・してやりたかった。


「でも……どんな顔や姿なのか分からなかったのよね?」


 ビアンカが確認するとリキョウも少し厳しい顔になって頷く。


「ええ、残念ながら。奴等がその被験体がいると思しき部屋の扉を開けた瞬間、虹鱗との接続・・が途絶えてしまいました。まるで何か強い力によってジャミング・・・・・されたかのように」


「俺のセンサーも同様だ。急に奴等の会話が拾えなくなった。唐突に切れたのでバレた訳ではないと思うが。その虹鱗という仙獣と同じで、何らかの力の影響によって機能を狂わされたと見るべきだろうな」


「…………」


 その被験体がいる部屋の扉を開けた瞬間となると、やはりその力とやらはその被験体の物と考えるのが妥当か。といっても本人が意図してというよりは、無意識の力の影響であるようだが。



 虹鱗の事が心配になるビアンカだったが、位置情報は相変わらず分かるようで、一時的に精神の接続が切れただけで合流・・すれば恐らく元通りになるとの事であった。


「それにまあ仙獣は主人である私の『気』によって構成されているので、私が無事なら『気』さえあればいくらでも復元できるので、万が一の事があっても心配はいりませんよ」


 リキョウが苦笑しながらそう説明してくれてようやく安心できるビアンカであった。

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