Episode8:ロシアの工作員

 彼……セルゲイ・レオーノフはイザベラから必要な情報を抜き取った後、そのままキンケイドパークのクック湾に面した海岸部分まで歩いていく。その海岸沿いの目立たない場所に無造作に1台のヨットが停泊していた。


 いくら多少目立たない場所とは言っても、こんな所に持ち主不明のヨットが停泊していたら誰かしらの目や不審を引きそうなものだが、その心配はカバールの悪魔共・・・・・・・・と契約する事で解消してあった。


 奴等が得意とする結界の能力で、この場所は誰にも見咎められる事のない彼等専用のドックと化していた。


「魔術、か。このような力は我々・・にもない。忌々しいが便利なのは間違いないな」


 彼は独り言を漏らすと、身軽な動作でヨットに乗り込んだ。そして彼等が現在仮拠点としているファイアー島に向かって舵を切った。クック湾内に浮かぶ小島だが、本土からそれほど離れておらず一応アンカレジの市域に属している。


 かつては林業などで僅かに居住者がいたが現在はほぼ無人島となっており、島全体が州立公園となっていて管理施設などがあるだけだった。彼等が使っている『ゲストハウス』はその管理施設の地下にあった。


 セルゲイは内心で嘲笑した。イザベラは彼等のアジトの目と鼻の先にいながら、それに気付かず彼等の言いなりになっているのだ。



 やがてファイアー島の沿岸に到着したセルゲイは、やはり同じように悪魔の結界によって作られた『秘密のドック』にヨットを停泊させて、島に上陸する。アジトがある建物のすぐ側だ。


 施設に入ると数名の『管理員』が出迎えた。当然全員が同志・・だ。彼等はセルゲイの顔を見ると余計な事は言わずに頷いて、普段は秘匿されている地下への扉を開ける。セルゲイは彼等に頷きだけ返して、無言で地下への階段を降りていく。


 階段の先にも扉があり、彼は自分の持っている鍵を使って扉を開ける。その先には殺風景なコンクリートの内装ながら地上部分の施設とは比較にならない、かなり面積のある空間が広がっていた。


 そこは一種の指令室・・・であり、今回の任務で必要な様々な機器、外部の工作員たちや本国との連絡機器などが所狭しと並んでいて、それぞれの機器の前では他の同志達が忙しく動き回っている。


 セルゲイは別の同志に彼が今の外出・・で見聞した情報を伝えて、レポートを作成させておく。まだこちらの詳細を掴んでいないとはいえ、ウォーカー大統領直属の犬どもが動き出したという事実は留意すべき問題である。


 今まで以上に慎重に事を運ぶ必要があるだろう。とはいえ今回の任務における工作の8割、いや9割方は既に完了しているので、後は極力余計な注意を引かないようにしつつ、脅迫しているターゲットの連中がトチ狂って妙な事をしでかさない様に監視しておくだけだ。


 しかし何事もそうだが、後もう少しで終わる、成功間近という時が最も注意しなければならないタイミングなのだ。気の緩みや任務達成の興奮などで思わぬ失敗や見落としをする事がある。SVR(ロシア対外情報局)のエージェントとして、彼もこれまで幾度も経験してきた状況だ。こういう時こそ気を引き締め直さなければならない。



「……アレ・・を使う事もないとは思うが、念の為後で確認しておくか」


 彼は呟くと目的の場所に向かって歩いていく。途中で『ゲストルーム』の様子も確認しておく。そこはいくつもの簡易的な檻が並んだスペースであり、その中に今回の任務で誘拐してきたアラスカ州議員の家族たちが収容されていた。


 彼等はセルゲイの姿を見て怯えた視線を向けるものの、煩わしく騒ぎ立てる者はいなかった。騒がしいものが嫌いな彼が調教・・してやった成果が出ているようだ。といっても彼や同志達の『力』を目の前で披露してやっただけだが。


「変わりはないか?」


「ああ。あのマリッサとかいう女だけはまだ煩いが、それ以外は特に変わりはない」


 セルゲイの確認に見張り役の同志が頷く。丁度彼が会ってきたばかりのあのイザベラ上院議長の娘だ。やたらと気位が高く驕慢で黙らせるのには一苦労だ。だが不必要に拷問して傷つけたり殺したりする気は無かったので、とりあえず放置しておくしかない。


 それは慈悲や憐憫でそうしているのではなく、下手に殺したりしてしまうと失う物のなくなった議員達が反旗を翻したりしかねない。一度は解放しても再び誘拐される危険が常にあると彼等に意識させる事で、その後の反抗も封じる事ができるのだ。本当に必要があってその相手を排除する場合以外は、相手には常に弱点・・を抱えたままでいさせておくのは彼等の常道であった。



 同志の労をねぎらってから、セルゲイは目的の部屋に向かう。そこは一種の独房・・のような部屋だった。『ゲスト』達を収容しているのとは訳が違う、分厚い扉で施錠された奥まった場所にあるスペース。だがこの日はその扉の前に既に何人かの先客・・がいる様子だった。


「メリニコフ司令」


 そのうちの1人は今回の作戦の司令を任されている責任者で、セルゲイの上司にあたるザハール・メリニコフであった。メリニコフは彼の声に振り向いた。


「おお、セルゲイか。戻っていたのか。早かったな。首尾はどうだった?」


「特に大きな問題はありませんでしたが、大統領府のエージェントが動き出しているようです。……そちら・・・の情報通りに」


 セルゲイはメリニコフから他の先客・・・・に視線を移した。そこには護衛のように2人の軍人を侍らせている1人の美女・・・・・がいた。



「私の言った通りでしょう? これで少しは信用してもらえるかしら、レオーノフ班長?」



 その女……アメリカ中央情報局のエージェント、マチルダ・フロックハートは彼の方を見て艶然と微笑んだ。セルゲイは露骨に舌打ちしてマチルダから目を逸らした。


「アメリカ人……ましてやCIAなど信用できる訳がない。我々SVRとお前達CIAは本来不俱戴天の敵と言っていい存在のはずだ。ましてや我々の任務はこのアメリカの害になる工作。CIAは本来それを妨害するのが仕事であろう。言え、何を企んでいる?」


「あらあら、嫌われたものねぇ? アメリカ人の私が何を言ってもあなたは信用しないのでしょう? だから頭の中・・・まで覗かせてあげたというのに、それでもまだ信用できないと言うの? あなたは私を丸裸にして私の全てを覗き込んだ。もう私達は家族以上の……一心同体のような物じゃない? そんな私をまだ疑ってるなんて悲しいわ」 


 わざとらしくしな・・を作ってそんな事をのたまうマチルダ。セルゲイの渋面が増々ひどくなる。


 そう。当然だがこの女がCIAを名乗って協力・・を申し出てきた時、彼等はこの女を徹底的に調べ上げた。その調査を担当したのがセルゲイであった。彼の卓越したテレパス能力・・・・・・を買われての事であった。


 結果この女が本物のCIAエージェントであり、CIAは反国民党、反ウォーカー大統領の急先鋒であり、ウォーカー大統領の勢力を弱める為に今回のロシアの工作に協力を申し出ているのだと確信が出来たのだ。


 セルゲイはこの『力』を身に着けて以来、あらゆる人間の秘密を暴いてきた。彼の前では全ての隠し事は白日の下にさらけ出された。その能力はSVRに新設されたESP部隊・・・・・『トリグラフ』の中でも随一であり、ミハイロフ大統領からも直接賛辞を賜った事があるほどだ。


 その彼が徹底的にマチルダを調べ上げた結果、シロ・・という結論に至ったのだ。だが彼は自分自身の能力で調べ上げたにも関わらず、どうしてもこの女を完全に信用する事ができなかった。それはテレパス能力とは関係ない、彼自身の直感のようなものであった。



「まあセルゲイ、そう彼女を毛嫌いするな。CIAと内通できる事のメリットは計り知れない程に大きい。彼女から得た情報をお前が精査してそれを本国に伝えるだけで、我々の大手柄は確実だ」


 司令のメリニコフが取り成す。セルゲイは小さく舌打ちした。メリニコフはマチルダの待つ情報と、それだけでなく彼女の美貌にも目が眩んでいるのは明らかだ。仮にもSVRに所属する諜報員としてあるまじき体たらくだ。だがスパイとはいえ意思と感情を持った人間には違いない。女性に縁のない人生を送ってきたメリニコフを篭絡・・する事は、この妖艶な美女にとっては赤子の手を捻るようなものだったに違いない。


 上手い事メリニコフに取り入ったマチルダはこの場所にも当たり前のように出入り出来るようになっており、セルゲイの直感だけで排斥するのは難しい状態になっていた。



「それで……この女がここにいる理由は? まさかアレ・・を見せるおつもりですか?」


 セルゲイが信じがたい思いでメリニコフに確認すると彼は当然のように首肯した。


「別に構わんだろう。既にアレの力は解析され尽くして研究対象・・・・としての役目は終わっている。だからこそ大統領も今回の任務にアレを随行させて、何か不測の事態があった時の捨て駒・・・に使うよう指示されたのだからな」


「……あなた達『トリグラフ』を生み出す元となった始原の人物。人工ではない天然の超能力者……。興味がないと言えば嘘になるわね」


 マチルダが素直に認める。恐らく彼女の方からメリニコフに見せて欲しいと頼んだのだろう。セルゲイは深く溜息を吐いた。


 メリニコフはまるで交際している女性に自分の買ったプレゼントを見せる時の男のような表情で頷くと、目の前の分厚い扉に鍵を挿し入れた。


「さあ、それではお見せしよう。これが我等『トリグラフ』の産みの親……【ナンバー・ゼロ】だ」


 そして彼等の前で鉄の扉がゆっくりと開かれていった……


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