ル・フィフルへようこそ

江山菰

ル・フィフルへようこそ

 今、私はレストラン、ル・フィフルにいる。


 私の父は、私も、私の母のことも、奴隷くらいに思っていた。私が中学に上がる頃に父は女と行方をくらまし、後日、差出人のない封書で記入済みの離婚届が送られてきた。

 離婚が成立して、五年。

 母はパートから正社員になった後も、在宅の仕事も掛け持ちして働きに働いた。私は母に強く勧められて大学へ進学した。奨学金は成績上位者だけなので、成績を落とさないように苦慮しながらアルバイトをしている。 


 ところで、母が最近ちょっと変なのだ。


 ちょっときれいになった。なんだか、若く華やいで見える。今までになくこぎれいな格好で仕事に行くようになった。

 恋人でもできたんだろうか。私はカマをかけてみることにした。

「母さん、クリスマスイブのことなんだけど、友達のとこでお泊りパーティやろうって誘われててさ。行こうかなって思うんだ」

「えっ? 友達って?」

「まゆだよ。ほら、鈴木まゆ。知ってるでしょ? うちにも遊びに来たじゃん。ゆきやまなも来るんだよ」

 もちろん、友人一同に根回し済みだ。母は顔ぶれを思い出して安堵したようだった。

「ああ、あの子たちね」

「いつも誘ってくれるのにバイトばっかで断ってるからたまにはいいでしょ? 私にも友達づきあいってもんがあるんだから」

「でも……」

「母さんもさ、たまにはぱーっとオールで羽伸ばして来たら?」

 母は複雑そうな顔をしながら、ちょっと頬を紅くした。


 イブ当日、私は「楽しんでくるよ」と家を出た。

 うちのアパートが見えるコンビニから見張る。しばらくすると母がおしゃれをして出てきた。私はその後を尾けていく。駅まで来ると、お相手さんがもう待っていた。初老の男性で、なかなかダンディで優しそうに見える。母は少女のように小走りで近寄っていく。あの働きづめの母が、恋をしてるんだなあとしみじみした。

 二人はタクシーに乗り込んだ。私も慌ててタクシーを拾い、二人を追った。


 そして、隠れ家的高級レストラン、ル・フィフルに至るわけだ。


 入り口で「ご予約は?」と訊ねられた。そりゃそうだ、店内は身なりのいいカップルや家族連れでいっぱいだ。でも予約なんかしているわけがない。

「あの……あそこにいるカップルの身内なんですが、あの近くに空いている席があったらお願いします」

 完全に場違いなカジュアルな服装で、私は、さっき男性と母が入っていったVIP感溢れるセミプライベートルームを指差した。

「ご家族様とご相席ということでしょうか? お客様に確認して参りますのでお名前を……」 

「いえ、相席ではないんです、ただ、近くで観察したいっていうか……」

 切れ者という感じのメートル・ド・テルが、訝しそうな顔をしてもう一度名前を尋ねてきた。

「失礼でございますが、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか」

「あ、えっと、鉾石碧ほこいしみどりです」

「鉾石様ですね」

 彼は微笑んだ。

「お席をお一人様分お支度いたします。どうぞこちらへ」

 ごとごとと急ごしらえで一名分のテーブルをセットしてくれた。ここなら母とお相手さんがよく見える。彼はワインリストとメニューを優雅に差し出した。

「お料理は本日はクリスマスのスペシャルコースのみとなっております。お飲み物はこちらからお選びくださいませ」

 私はメニューを開いてみてびくっとした。値段が書いていない。

「あの、これ、お値段が……」

「どうぞお気になさいませんように」

 こんな店に足を踏み入れたのは初めてで、私はこういうものかと思ってしまった。

 大丈夫、財布の中には、バイト先からもらったばかりの二万円がある。

 ペリエとコース料理が運ばれてきた。

 食べながら、私は母たちの様子をずっと窺っていた。

 母は明るくて楽しそうで、幸せそうだった。お相手さんも、終始優しい目をしていて、母を大切に思っているのがわかった。

 私はとても安心した。安心したから、ちゃんと料理が味わえた。どれもきれいで宝石のようで、夢みたいにおいしかった。


 母とお相手さんは、食後のコーヒーを飲んでゆっくり話し込んでいる。

 お相手さんから小さな箱が母に渡された。中に入っていたのは指輪だ。母は指輪をはめた自分の手を見て、寂しそうな顔をした。母の手はいつも荒れている。きれいな指輪と不釣り合いだったのだろう。するとお相手さんは母の手を優しく自分の手で包み込み、緊張した真剣な顔で何か言った。

 聞こえなかったが想像はつく。

 母は困った顔をして、泣きそうで、でも嬉しそうだった。こんな顔、見たことない。

 今日はきっとお泊りだろう、と私は思った。お泊りでなかったら母を小一時間問い詰めたい。

 自分の親の情事について嫌悪する人もいるが、私は母が幸せならそれでいい。今までずっと独りだったのだから。


 私はコースをみんな平らげたあと、母に見つからないようにそっと店の出口に向かった。

 あるテーブルの横を通り抜けたとき、私と同じコースを食べていたカップルがテーブルでギャルソンから伝票を受け取っていて、ちらりと額面が見えた。

 お一人様につき、三万六千円。二人で、ワインまで入れると六桁。

 私は、血の気がすーっと足元まで引いていくのを感じた。

 二万あれば大丈夫だと思ったのに、何だこの値段。気にするな、なんて言っといてひどい、ひどすぎる。

 入口に飾られた大きなクリスマスツリーの脇でおろおろしていると、先ほどのメートル・ド・テルがきびきびとやって来た。

「鉾石様、どうなさいましたか」

「あ、あの……お支払いなんですけど、ちょっと手持ちが少なくて……あの、今からATMに行って……」

 彼は私の言葉を遮った。

「どうぞお気になさいませんように、と申し上げましたでしょう?」

「はい?」

私事わたくしごとでございますが、ただいま当店のオーナーは、店内にて意中の女性にプロポーズの最中でございます」

「え? それって?」

 彼はわたしを無視して続ける。

「そしてその女性のお嬢様が、心配してご来店くださったということで、初めましてのごあいさつ代わりにわたくしからご馳走させていただきました」

「それは、どういうことですか」

 彼は微笑んだ。

「あなたのお母様が、これからわたくしの母になってくださいましたら、あなたはわたくしの妹ですから、わたくしも兄としての気構えをお見せせねばと思いまして」

 まだ訳が分からない私に、彼はあのセミプライベートルームを視線で示してから頭を深々と下げた。

「あれは、わたくしの父です。母を亡くして十二年、一人で頑張ってきた姿をわたくしは見て参りました。どうか、よろしくお願いいたします」


          ――了 

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