鬱蒼とした庭
婭麟
第1話
其処の家には、鬱蒼とした木々が在った。
その木々は、妻の曾祖父だか曾曾祖父だか……が、まだ開発されなかったこの辺りの森林から、勝手に持ち帰って来て植えた木々だそうだ。
今ではそんな事をしようものなら、犯罪になりかねない所業だが、昔は其れが許されていたというから不思議だ。
この
男が妻の家に婿養子では無いが、マスオさん状態で家に入ったのは、結婚して直ぐの事だった。
妻は早くに父を亡くし、母娘二人で懸命に生きて来た。
その母娘が妻の祖母が死んだ為、祖父一人となった此の家に同居し、義母は父の介護をし最後を看取った。
結婚した時にはもはや義母は独り切りとなる筈であったが、男は此の家に同居する事としたのだ。
男は気の優しい処はあるものの、結婚には向いていないタイプだった。
とにかく自己中で勝手な処があり、偏屈で頑固な性分だったが、それはまだ若い頃には吐出する事が少なく、仕事に専念していれば、それは働き者の気の優しい男と職場の人間の評価も良かった。
だから同じ職場にちょっと時を経て入社した妻は、その男の優しい処だけを見て結婚してしまったのだ。
一年……二年……三年……と女だけの家の中で、男はかなり勝手気儘に暮らして行った。
五年程経って子供が誕生すると、義母と妻の関心は子供へと注がれ、男への関心が薄らいだ。
するとちょっと寂しさを感じたと同様に、それ以上の開放感を味わった。
婿養子では無いものの、やはり家に入った婿である。妻の母の義母には遠慮があったし、義母は一人娘の妻しか子供がいないから、婿であっても男の子供を得た様に男を大事にしてくれたのだ。がそれは勝手な処のある男には、煩わしい物でしか無かったからだ。
その義母の関心が全て孫に向けられ、窮屈に感じられ始めていた男に、開放感を与えたのだ。
そんな義母が子供が小学校に上がると、グズグズと体調を壊し暫く妻の介護を受けて亡くなった。
婿という遠慮の枷が無くなった男は、徐々にその勝手極まり無い性格を現していく………。ワンマン、亭主関白……昭和の時代の父親像として擬えられる様な、卓袱台をひっくり返す様に、気に喰わなければ妻が作った食事をテーブルの上からはたき落し、時には妻や妻を庇う様な態度を取る子供にも手を挙げた。
すると或る時妻が
「別れたい。出て行って欲しい」
と予期せぬ事を言った。
男は妻が決して子供の為に、別れ話を出して来るとは思っていなかったからだ。
子供の頃に父親を亡くしている妻は、子供にとっての父親の存在とは、どれ程大事な物であるかを知っているから、決して子供から父親を奪うことはをしないと、たかを括っていたからだ。
……冗談じゃない……
此の家は、妻の祖父が建て替えた家で、古くてそんなに広い家ではないが、都心からも交通の便は良く、駅にも近い住宅地の中でも一等地だ。
それに家賃は払わなくていいし、妻には遺産が転がり込んでいるから、義母が生きていた時同様に、男が給料の全てを丸ごと妻に手渡さずとも、一定の困らぬ程度に渡しておけば、後の足りない分は妻がどうにか遣り繰りをする。
……そうやって男は、義母と妻に甘やかされて暮らして来た。
祖父の遺産があった義母は、長年妻を育てながら勤めて得た年金も有り、掌中の珠である妻と同居してくれた男に甘かった。
家計の半分以上は、義母が助けてくれていたのだ。
だから男の元には小遣いという金が、他の家庭持ちの男達より多く残った。無論賞与等もかなりピン撥ねして妻に渡したとしても、妻は文句も言わなかった。
……こんな美味しい家から、出て行けるわけが無い……
此処を出れば家賃がかかる。光熱費に食事代に……引っ越し代に家具や諸々……。
……俺の小遣いが、残らないだろう……
男は顔を歪めて、フィっと妻から視線を逸らしてだんまりを決め込んだ。
そんなに甘やかされ自由になる金を持たされれば、男はその金を有り難く大事に貯め、妻子の為に家を建て替える事もできただろう。だがそうする事をしないから、自己中で身勝手だけの男なのだ。
………だから妻に、出て行けと、言われるのだ。男が建て替えていれば、その家は男の家なのだから……。
大学の頃から一人暮らしをして、バイトはちょっとはしたものの、親の仕送りで覚えたギャンブル癖が、結婚をし子供を得ても男は抜けなかった。
否……義母に甘やかされて暮らしていたから、男はここまで妻と夫婦として暮らせて来れたのだ。子供の父親として世間では、〝優しいお父さん〟として認識されているのだ。……でなければ、この男の自己中な身勝手な性分は、妻や子供の為に小遣いを削り、大好きなギャンブルをせずに、齷齪と働く毎日を我慢できずにいただろう。
妻と子供に当たり散らして、DVなどの名を貰いサッサと離婚されていた。だが義母が勝手のできる金を手元に残る様にしてくれ、ギャンブル等好き勝手をさせてくれていたので、男はそれなりにちょっと我儘で頑固な夫という地位を与えられていたのだ。だがその義母が亡くなり、家の中で己が天下となった以上、その性格があからさまに表に出て来るのは当然の事だ。
どんどん我儘となりどんどん自己中となり、とうとう支配欲迄現れ始めてしまった。
そんな勝手横暴がきく、この家を出て行ける筈が無い……。
男は妻がその事を口にすると、暫く大人しく穏やかに相手をした。
だがそれは長くは続かず、直ぐに夫婦は口喧嘩となった。
こんな夫婦関係が続けば、夫婦仲は冷めていく……。
妻は本気で、別れたがっている。
子供の養育費……とか言った処で、男がして来た事は無いに等しい。たぶんこんな状況だから、妻は完全に男を当てにしていないだろう……。それでも子供を育てられる当てがあって言っているのか、それとも……。
そんな状況が続いた頃、妻がとうとう仕事を見つけて働きに出た。
子供も小学校の高学年になり、一応の事は自分でできる様になっている。それでも妻は子供の為に、そんなに長くは家を空けない仕事を選んでいるが、先々完全に働ける所だ。
妻が先を見越している事は理解したが、男は妻と子供と別れる気は無い。
だが今の自分を変える気も無い。
此の家に入ってずっと、男はそれで通って来たし、これからもそれで通ると思っていた。
……自分は此処の、跡取り息子の父親なのだ……
ザワザワザワザワ……ザワザワザワザワ……
なんだか最近庭が騒がしい。
こんなにザワザワと、庭の木々が揺れている筈はない。
だって此の家に入って少しずつ、男は妻や義母を唆して、あの鬱蒼とウザい程だった木々を伐採させていた。
大きく太い紅梅に白梅。
とても色好く橙色になるのに、酸っぱい蜜柑に金柑。
海棠の木に金木犀、椿にカルミヤの木。
こんな小さな庭に、よくもこんなに植えた物だと思う程の木々……。
それらを伐採して駐車場を作り、ストレス発散で車を休みの日に乗り回している。
もはや大して残っていない木々が、こんなに夜中にザワザワザワザワと音を立てている筈は無い………。
そのザワザワが始まったのは……
……そうだ確か門に掛かる松を、伐れと言った時からだ……
妻は烈火の如く怒りを現し、男はそのまま黙ったが、日を変えて再度言ったのだ。その日の夜中からずっと、ザワザワザワザワと庭が揺れている。
「そろそろ事を起こそうではないか……」
ザワザワと木々が揺れる中で、微かに聞こえてくる声に、男の神経が集中する。
「……だが大事な子はまだ小さいぞ……」
「なに、男は見え坊だからな、多額の保険に入っている」
「お?そうか?……ならば、子を育てるには問題は無いか?」
「……否、あれが居れば、これから掛かる子の教育費迄食い散らしかねん……早いがよかろう……」
男は物騒な囁きに、鳥肌を立てた。
男は最近会社にやって来る保険の女子社員が、自分に好意を持っている事を察して、それこそ見栄を張ってかなり大きな保険に入ったのだ。ただ彼女の心象を良くして、上手くすれば……の下心も多分にあるのも本当だ。
翌朝男はとても不機嫌に家を出た……と言った処で、ここの処妻とは会話は全く無いし、小学校の高学年ともなれば、息子も大して話しをする事も無い。
互いに不機嫌なのか何時もの事なのかすら、解らないままだろう……。
男はそれでもずっと、昨夜の会話が気になった。
ザワザワザワザワと庭が揺れ、それも真夜中の事だ、家の中で寝ている男が解る程の会話を外でするだろうか?それもうちの庭で……。
否、庭の外の道路でしていたのか?
否々、あれ程ザワザワザワザワとしていたのだ、庭の外の道路で男達が立ち話をしていたにしては、いくら人通りも無く閑散としている夜中でも、あれ程判然と聞こえて来るのは……。第一男にあれ程判然聞こえて来るのならば、他の家にはもっと聞こえているだろうし、あんな物騒な事を大きな声で語り合う筈も無い。ならばあれは………?
男は夢だったのだろうかと思った……夢?毎夜ザワザワと、木々が揺れる夢を見ているのか……?
その夜中もザワザワザワザワと、庭は木々が揺れていた。
男は堪り兼ねて身を起こすと、二階の部屋の窓と雨戸を開けた。
ガタガタと大きく音を立てて、雨戸が開いた。
だがその外は、余りに静かに暗闇が広がっている。
木なんか全く揺れていないし、それこそ誰も居なくて静かな物だ……。
男は隣の家の雨戸を見つめて、気兼ねをしながらできるだけ音を落として雨戸を閉めた。
ザワザワザワザワ……ザワザワザワザワ……
男が雨戸を閉め、窓を閉めた途端に騒めき出した。
ザワザワザワザワ………ザワザワザワザワ………
「早くしよう……」
「早くしよう……」
男は恐ろしくなって、大慌てでベットに入って、布団に潜り込んで目を閉じた。
その年の夏は、驚く程に暑かった。
とにかく各地で、最高気温を観測する程だった。
庭の残っている木々が元気をなくし、枯れていく物もあった。
門の所の松の木も、夏が過ぎる頃には半分葉を枯らし、男が邪魔に思っていた部分の枝が枯れ落ちていた。
庭の木々が苦しんでいるのか、あのザワザワはこの頃には全くなくなっていて、男も只の夢……疲れていたのだと思う様になっていた。
男がすっかり忘れてしまった頃、この庭の木の中で唯一男が大事に思う柿の木が、それは驚く程に実をつけて重そうにその枝を垂らした。
こんなに暑くて、他の木々が弱り枯れて行ったにも関わらず、過去にない程にたわわに実を付けているのだ。
此処の柿は、実に美味い実をつける。
この辺のスーパーで買って来る柿なんて、食える物じゃない程に美味かった。だから男は、この柿の木だけは大事にしていた。
鬱蒼として、この柿の木を邪魔する木々は、一番最初に切り倒していた程だ。
「少し鳥達に、残してやる物よ」
妻は何時もの様に、小言を言う。
最近口にする事は、男のする事を否定する事ばかりだ。
だから男も
「俺にたてをつくな」
と言い放つから
「だったら出て行ってよ」
という事になる。
そんな些細な事ばかりが、溜まり溜まって行っている。
「とにかくあの一番上のは、残して置いて……」
見上げると一番上のヤツは、一番見栄えが良くて色もいい。
それにおかしな事に、そんな上物を烏が突いていない。
烏というヤツは、美味そうに実を付けると、人間様より先に喰い散らかすからタチが悪い。
何時も口惜し思いをしているが、やはり実は取り頃迄木に置いておいた方が美味いのだ。烏と競って早めに収穫して、地で熟させた事があったがイマイチだった。だから口惜しいが、木で食べ頃迄待っていると、烏に先を越されてしまうのだ。
バキバキと実を取って行く内に、上の一番のヤツが二階からも、脚立の上からも取れない事に気がついた。
……クソ、また烏にか?……
男は悔しくなって、ちょっと柿の木の枝に手を掛けた。
柿の木は、意外と脆くて折れ易いが
……意外とイケるかもしれない。 第一此処から落ちたとした処で、大した事にはならないだろう……
男は、柿の木の枝を手にして思った。
グッと枝に体重を乗せて背を伸ばし、その先にある実に指を伸ばす。
……も少しも少し……
男は指先の、真っ赤な柿の実に夢中になった。
バキバキ。
……!!!!!……
男は柿の実を手にして体を大きく揺らし、反転する様に青い空を見つめて地に落ちた。
……えっ?……
上手く身体を動かす事も無く、そのまま青い空を見上げて仰向けに倒れている。
……背中が痛い……
当然だ、しこたま背中を打ったのだ。
……そうじゃない……
男は背中の下からドクドクと、血が流れ出るのを感じた。それも物凄く堰を切った様に……。
「良くやった」
「よくやった」
ザワザワザワザワと、庭の木々が揺れて囁き合っている。
……こんなに木々が、鬱蒼としていただろうか……
と思う程の木々が、男を見下して誉め合っている。
ドクドクドクドクと、流れでる背中の箇所は無数にある。
男が散々切らせた木々が、まるで針の様に切り株を尖らせて、落ちて来る男の背を貫いたからだ。
「新参者の癖に……」
「お前より我らの方が、此処に古くから在るのだ」
「お前が在ては、ろくな事にはならぬ……」
男は失くなる意識の最後に、木々の囁きを聞いた。
異変を察した妻は、慌てて救急車を呼んだ。
男は病院に運ばれる途中で、息を引き取った。
死因は只打ち所が悪かった……そう医者に告げられただけだった。
鬱蒼とした庭 婭麟 @a-rin
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