中編③
それから、リコーダーテストのための特訓が始まった。灯ちゃんが伴奏のためにピアノの前に移動し、康太はランドセルから取り出したリコーダーを持って彼女の横に立った。
「じゃあ、康太君の実力を知りたいから私の伴奏に沿って弾いてみて。普通の速さで弾くから。弾けなくても問題ないからね。」
「はい。」
そうして、伴奏が始まり震える手でリコーダーに息を吹いた。しかし、彼の音楽スキルは下の下もいいところで、リコーダーの音も満足に鳴らせないのだった。それでも、隣に座る耳障りな音が近くでなっているのにもかかわらず、楽しそうに灯ちゃんは演奏を止めなかった。
「うん。予想以上に酷いわ。」
と、最後まで伴奏を弾き終えた彼女は楽しそうに言った。その態度と口調が憐れみでも馬鹿にしたようでもなく、本当に心から楽しんでいる言葉だった。だから、普通なら心が痛む言葉を吐かれているのに、全くそうならなかった。ただし、傷つかないというだけで落ち込みはした。
「ごめん。」
「ううん。とても独特な音色だった。リコーダーがお酒に酔って踊っていたみたいだった。音痴でフラフラで、そして、お調子者って感じ。」
想像したのか、彼女は噴出して笑っていた。その表現と彼女の笑いにつられ、暗い気持ちが吹き飛び康太も大声で大口を開けて笑ってしまった。
「何だよ。その表現。」
笑いが止まらずお腹を抱えた。自分の音をそんな風に言われたことがなく、決められた音以外はすべて馬鹿にされていた。担任でさえも康太の音色に苦笑を漏らし、笑いをこらえているようだった。だから、そんな風に言った彼女が面白くて、今まで自分が悩んできたことが馬鹿なように思えた。
「でも、その通りでしょ。お酒に酔うとみんな音痴になるもの。」
「そうかもしれないけど、その表現はない。」
やっと、ひとしきり笑った2人は収まり冷静になった。
「でも、そのままだと音痴のままのリコーダーになってしまうから、普通のリコーダーにしてあげましょう。」
「普通のリコーダーに?」
「そう。康太君、そんなに力まないで、例えるなら熱い食べ物を冷ますように息を吹きかけてみて。」
「冷ますように。」
康太は助言の通りに優しくリコーダーを大好きなカレーだと思って、息を吹きかけてみた。すると、先ほどまでの高い音ではなく低い音が鳴った。それには自分自身も驚いて、灯ちゃんの方を見た。
「普通のリコーダーになったわ。さっきまでの音痴が嘘のよう。」
まだ、先ほどの表現を引っ張る彼女は嬉しそうに言った。それ以上に、康太は自分が初めて楽器を今まで聞いてきた音のように出せたことに嬉しさと達成感を感じた。
「ほら、康太君。まだ、この一曲が弾けたわけじゃないんだから、続きをしましょう。」
「うん。」
彼女に促され、まずはドから一オクターブ上のレまでの音階を順に出すところから始まった。それから、階段を上って、すぐ下がっての繰り返しを三往復した時にはすでに手がだらけていた。
「もう、無理です。」
リコーダーを口に咥えてぶら下げた状態にして手の疲れが飛ぶように願って手を上下に振った。
「康太君、飽きた?」
と、ニコリと笑みを浮かべピアノに向かっていた顔を上げてこちらを見た灯ちゃんは言った。その言葉は半ば図星でもあるので、それに苦い顔が出ていた。すると、彼女はやっぱりと言うかのように笑った。
「そうだと思った。康太君はこういう単調な練習嫌いだろうなって。」
「いや、そういうわけじゃ。」
言い訳をしようにも的を射ているので、それ以上に言葉が続かなかった。そんな困った康太を見て彼女はおかしそうに笑った。
「大丈夫。分かっていたから。でも、三往復できたし、音も酔った状態になっていなかったから、カントリーロード練習に移る?」
「お願いします。」
彼女の言葉がたとえ悪魔のささやきのような甘美な誘いに聞こえていても、それに乗らない康太ではなかった。
「じゃあ、夕飯は四時間後になるけど大丈夫?」
彼女の続いた言葉に即答できなかった。やっぱりと、先ほど耳が捉えて心が察したものは間違いではなかったと思い、瞬時に時計の方を見て、現在夕方四時で夕飯が四時間だから夜八時、という計算とお腹の具合を鑑みて、ゆっくりと恐る恐る頷いた。その一連の流れを見ていた彼女と浩さんはおかしそうに笑った。
「分かったわ。では、始めましょう。」
と、彼女は言った。
しかし、ここで問題なのは康太には楽譜を読むこともできないことだった。音楽の教科書の楽譜ページを開いて楽譜置きにおいて見ていても、全くどの音なのかわからなかった。
「もしかして、康太君は楽譜を読むことが苦手?」
「全く読めません。」
「分かったわ。じゃあ、楽譜は要らないわね。」
彼女は急に音楽の教科書を持ってその楽譜が書いてある部分だけをきれいに破り取ったのだった。その行動に呆気にとられたのは康太だけでなく、浩さんも同じだった。瞬時に彼は破り取られた紙を拾い上げ、
「お嬢様、なんということをなさるのですか。」
と、悲鳴のように言った。
「ああ、もうここまできれいに取られていてはテープでも歪になってしまいます。人様の物なのに、なんといことを。大浦様に謝罪なさいませ。」
破り取られた紙と教科書を持って慌てていた。彼のあまりの慌てようが今までの落ち着いた大人という印象を覆した。しかし、彼女は平然としており、
「いいじゃないの。楽譜があった方が康太君は楽しめないから、破り捨てたまでよ。楽しめないと意味がないじゃない。」
「それもそうですが。お嬢様がおっしゃりたいことはわかりましたが、その場合、普通に大浦様に教科書をしまってもらうだけでよろしかったのでは?わざわざ、教科書から破ることはなかったのはないですか?」
「浩さん、そうすると康太君がずっと苦手な印象を根深く持つ楽譜を持ち歩くことになるじゃない。そうしたら、彼はずっとリコーダーがうまくならないわ。」
「お嬢様。」
それ以上、浩さんは何も言わず、教科書と破られた楽譜のページを持ってどこかへ行ってしまった。その流れをぼうっと眺めていた康太はそのページが教科書から離れたことにどこか安堵した。そんな自分が分からず、でも、なんだか笑いが込み上げた。
「どうしたの?康太君。怒ってもいいのに。」
急に全く笑うような状況でもないはずの場面で笑い出す康太を見て灯ちゃんは不思議そうにした。
「ううん、怒ることはないよ。今までだって、音楽の教科書は放り投げたりしていたから。あの教科書結構ボロボロだから。」
「そういえば、所々が破れたり紙が剥がれかけたりしていたわね。」
「そう。でも、灯ちゃんみたいに思いっきり破けはしなかったんだ。でも、君が破いてくれた瞬間、安心したんだ。なんでかは分からないけど。だから、ありがとう。ページが無くなったままでも、戻っていてもどちらでも大丈夫。」
「そうなの?」
「うん。大丈夫なんだ。」
灯ちゃんが確認するように言うので、それに大きく頷いた。それに安心したのか彼女も笑みを浮かべた。
「でも、楽譜がないのにどうやって練習するの?」
「大丈夫。私が弾けるから。最初は音を口に出して歌うの。」
「音を口に出して歌う?」
「そう。さっき弾いたドレミファで歌うの。」
「へえ。」
相槌を打ちながらもイメージができない康太に、灯ちゃんが椅子から立って康太の前に立ち、
「私の後に続けてみて。」
と言った。それから、彼女は手拍子をして、本当にカントリーロードをドレミファで歌い始めた。
「ソラシー、シラソラー。はい、康太君。」
急に振られて、同じように手拍子をしながら歌った。最初は気恥ずかしくなったが、彼女は楽しそうに歌うので、それにつられて楽しくなり、声が大きく出た。そして、最後には彼女の伴奏に合わせて歌い終わった。すると、妙な達成感があり、そして、楽しいと思い二人で拍手をした。
「ブラボー。」
と、彼女は言った。いつの間にか康太は音を鳴らして何でも楽しそうに笑みを浮かべてやりきる彼女に引っ張られて、つまらない、よくわからないと思っていた声を出して歌うことが楽しいと思えた。まるで、彼女の魔法にかかったようで、気分は高揚していた。
「それじゃ、今言ったみたいに今度はリコーダーで弾いてみよう。」
「うん。」
そして、そのまま同じように今度は口ではなくリコーダーで音を鳴らした。すると、不思議なことに、彼女の伴奏からずれることなく、お酒に酔うことなくリコーダーが出せる音で最後まで弾けた。手拍子の代わりに足踏みをしながら。
「ブラボー。」
と、彼女は大きな、大きな拍手をした。彼女にしたら簡単な曲のはずなのに、彼女はまるで名曲を弾いたように大げさに喜んでくれていた。そんな風に喜んでくれる彼女に康太は嬉しくならないわけがなく、満面な笑みになった。
それから、本当に八時まで練習をした後に、ちょうど彼女の両親も帰って来たようで、彼らは見ず知らずの康太を快く受け入れて、彼女の兄であるという人も同じようで、そうして、彼女たちと夕飯を食べてから、用意された客間で眠った。康太の両親にはすでに連絡がされているので心配ないことが伝えられていたので、明日はここから学校に通うことになった。知らない天井、知らない部屋、初めての布団や枕なのに、康太はいつも以上に落ち着いて眠れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます