楽譜がなくなった教科書
ハル
前編
まだ昼で太陽が惜しげもなく指している中、通常気にならないが今は耳障りなカラスが鳴いていた。それが自分を更に馬鹿にしているように聞こえるのは、自分がそれほどに落ち込んでいるからだろうかと、大浦康太(おおうら こうた)は今日のことを思い浮かべて思った。
今日は職員会議で給食を食べて掃除をしたら帰宅という康太にとっては気分が上がる日だった。しかし、それが急降下したのは、掃除前のお昼休みに明日行われるリコーダーテストの練習のために音楽室で練習をしていた時だった。元々、音楽でも図工でも全く面白さが分からずつまらない康太にとって、その提案はよろしくなかった。音楽はどんな曲を聴いても眠り歌にしか聴こえず、図工はどんな絵や作品を見ても本物を知っていると心は揺り動かされなかったからだった。逆に運動の方は結果がはっきりしているし、敵を倒してステップアップするようなゲーム感覚が面白く、康太にとってはそちらの方が自分に合っていた。しかし、担任の言うことは従わざるを得ないので、渋々練習に入った、までは良かった。音符も満足に読めずリズム感もなく、最後にはリコーダーの指で何がなるのかも覚えきれていないので、弾けるはずもなかった。
そこに、歓声が上がった。そちらを見れば、「良太君、すごいね。」「上手。」と、クラスメイトに囲まれて褒められ穏やかに笑う双子の弟で同じ顔をした良太(りょうた)がいた。
「双子でも全然違うんだな。康太は弾けてないしな。」
その集団の1人が発した言葉にイラっとしたが、いつものことだと流そうとした。しかし、それに否を言ったのは囲まれている良太の方だった。
「そんなことを言わないで欲しい。僕はピアノを習っているから弾けるだけだ。康太は他のことでは僕なんかよりずっとすごいよ。」
少しきつい声だったのに、驚いた。それはクラスメイトも同じで、穏やかな少年という印象だったので、そんなに感情を出すとは思っていなかったのだろう。失言をしたクラスメイトの1人は気まずくなり、小さく謝った。集団から抜けてきた良太はそれらを分けて出てきて康太の方に手を差し伸べてきた。
「一緒に練習しよう。練習したら康太だって弾けるようになるよ。」
と、言った。そんな彼の笑みに何だかやるせない気持ちにさせられた。双子で同じ顔でも弟の彼に庇われ、しかし、近くで尻込みしている先ほどの彼の言ったことは正しいのでいい返すことも見返すことも絶対にできないことが分かっていた。そして、それに打ちのめされる自分は惨めで、これ以上そうなりたくなくて、その手を思いっきり叩き落とした。
「ほっとけよ。俺のことなんか。芸術なんか俺には分からねえよ。」
そう言ってリコーダーを持って音楽から走り去った。その間、一切良太の顔を見ることはできなかった。彼と面と向かうことだけは、涙が流れそうな情けない顔をしているので絶対に彼に見られたくなくてできなかった。それから、掃除をして最後にホームルームまでクラスはよそよそしい雰囲気だったが、そんなことを気にしてか担任はさっさと済ませた。放課後になった瞬間、教室を飛び出していつもの帰り道を歩いた。足取りは重く何てこともない教室から校門まで走っただけで息切れがして、体さえも大きな漬け物石を担いでいるかのように重かった。
そうして、足取りも重いまま、しかし、こういう時に限って家というのは近く感じるのだった。家が目の端に捉えられるまでの距離に来た時、足を止めず逃げるようにして一本前の交差点で曲がった。全く自分の足で歩いたことのない道だったが、そんなことは気にも留めなかった。とりあえず、家から良太から、そしてクラスメイトから逃げられるなら何でも良かった。お店ではなく古い家が立ち並ぶ道を進んで行くと、どこからか音が流れてきた。その音は今まで聴いてきたものとは少し違う気がして興味を惹かれた。近くなった音が良太の発表会で連れられて行って聴いたことがあるので、ピアノの音だと分かっても、あれ?と首を傾げるしかなかった。良太たちが弾いていた眠り歌にしか聴こえないそれとは違って自然と体が動くような不思議な感じがしたからだった。理由も分からず心が赴くままにそれにつられて走り、着いた先には木造の大きく立派な門構えで大河ドラマに出てきそうな武家屋敷だった。
「うわー、すげー。」
思わず出た言葉はその大きさに雰囲気に圧倒されたからだった。まだピアノの音は止まず、音がまた変わった。まるで、次々と変わって自由に遊んでいるように聴こえた。その時、門の小さい扉の方から両親ぐらいの年齢で襟のついた黒い洋服を着た男性が出てきた。
「恐れ入りますが、どちら様でしょうか?当家に用事でも?」
と聞かれたので、慌てて首を横に振り、頭を下げた。
「すみません。何でもないんですけど、音が聴こえて、それにつられて来たら着いたんです。別に怪しい者じゃないです。だから。」
言葉に詰まると、男性の笑う声が聞こえて顔を上げた。男性は穏やかに微笑みかけていた眼鏡を指で上げた。
「そうでしたか。別に怪しいとは思っておりませんよ。どこか迷子のような顔をなさっておられましたので、迷子なら道を教えようと思い伺ったのです。」
「どうして、そんな風に思ったのですか?先ほど出てきたばかりなのに。」
なるべく丁寧に尋ねると、男性は門の上の方を指さした。
「あそこのカメラで映像が見えますから。警備の方が知らせてくれましたので、私どもが窺いにまいりました。」
「そうなんですか。」
「ですが、そういうことなら、もっと近くでお聴きになりませんか?」
「え?」
帰ろうと続けようとしたが、男性は意外な提案をしてきた康太は固まった。
「その方がお嬢様も嬉しいでしょうから。」
「“お嬢様”?」
「はい。あ、ちょうど終わったようですね。」
その時、音が鳴らなくなったのをみて、男性が言い、それに遅れて康太も気づいた。
「ピアノを演奏していたのは当家の旦那様の長女、木山灯様(きやま あかり)とおっしゃいます。」
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