魚を捕る女

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魚を捕る女

 俺が家の窓から外を見た時、空には大きな魚が浮いていた。かと思うと、もっと上から一人の女が落ちて来て、その魚に銛を突き刺した。

 衝撃的な絵面だった。

 空飛ぶ魚は黄緑色の血?体液を吹き出し、女はその自分よりデカい魚を縄で縛った。

 女は縛り終わると、魚を引っ張って何処かへ向かおうと、顔を上げた。その時だった。俺は、女と目があった。

 俺と女は数秒間見つめ合っていたが、やがて女は人差し指を口に当て、黙っていろ、という意味の合図をした。俺は、とりあえず女に向かって、黙っている、の意味で頷いてみせた。女はそれを見ると、満足げに笑い、空気を蹴って上空はるか遠いところへ行ってしまった。俺はあとから窓の外に身を乗り出して上空を見たけれど、女も魚も姿が見えなくなってしまっていた。

 それから数日後のことだった。

 女は、また現れた。今度は、もっと大きな魚を捕えていた。俺は、女にすごいじゃないかという意味の拍手をしてみせた。女は、嬉しそうに、しかし照れくさそうに笑いながら、また今回も人差し指を口に当てて、合図をした。そしてまた前回と同じように空中を蹴っていなくなった。

 次に女を見たのは、雨の日のことだった。女は例のように、デカい魚を捕えようとしていた。今度の魚は鯨のような異様なデカさだった。地上にいる人間たちが気づかないのが不思議だった。

 魚は、大きな口を開けて、女を飲み込んだ。

 俺はすぐに窓を開けて、

「おい!」

と叫んだ。

 女は魚の中でまだ生きているかもしれない。

 俺は一か八か、空中に向かって足を伸ばしてみた。すると、どうだろう。足が着く感触があるではないか。俺は手近に合ったカッターナイフを手に、魚の元へと駆け出した。

「おい!生きてるか!生きてるなら、返事しろ!」

 俺は女に声をかけ、のろまでデカい魚の口をこじ開けようとした。しかし、口は重くて一向に動かない。

 そのうち魚が動き出した。

 俺は、魚にくっついたまま、見知らぬ何処かへと上空に連れ去られてしまった。


 そのうち、俺は魚の上で寝てしまったらしい。目を覚ましたら、そこに女がいた。女は

「やっと起きたね」

と言って、ニィッと笑った。

 そこはどこかの洞窟だった。

「どうして生きて…?」

俺がそう言うと、

「あれは、一つの漁だよ。餌のふりして腹のなかに入り、魚が巣に帰ったところを、腹の中から一突きして、脱出するんだ。この魚はでか過ぎて、あんた達の世界からこっちの世界には運べないんでね。まさか、あんたまでくっついてくるとは思ってなかったけど」

「こっちの世界?」

「私たちは、人間界に逃げた魚を捕える仕事をしているのさ」

 女は、自信ありげにそう言った。

「魚は、本来私たちの世界にいるものだ。だけど最近、そっちの世界に逃げ出して、バランスを崩している。私はそれを元に戻し、かつ、漁をしているんだ」

「へえ…」

「ところであんた、どうする。人間界に帰るなら、急いだ方がいいよ。入り口が閉じ始めているから」

「…俺、帰りたくないな」

口から勝手に言葉が出た。

 そう、俺は帰りたくない。

 帰っても、毎日同じような大学の授業に出て、同じようなもの食って、寝るだけだ。

「それじゃ、あんた、しばらくこっちにいるんだね。なんだか、表情からいって、心を病んでいるようだから。」

と女は言った。

「私、タキ。あんたは?」

「俺は仁。よろしく」

 俺たちはその日はもう夜遅かったので、腹を裂かれた魚のそばで、毛布を出して雑魚寝をした。生臭い匂いがしたけれど、いつもよりぐっすりと眠れた。


 次の日から俺は忙しく働くことになった。俺は遠い国からの商人で、タキと一緒に仕事をしているということになった。タキは、魚を売りさばく名人で、どんな人にもいい額で売りつけることができた。そして、みんなに心から気に入られていた。

 その世界はエアという名の世界で、自然の多い美しい世界だった。そしていつだって空に魚が泳いでいた。そのせいで空全体がざわめいて見えるほどだった。エアの空では俺も含めてみんなが飛ぶことができた。だからエアの空から魚を捕る人もいたけど、タキはそんなことは決してしなかった。

「あくまで、均衡を正すことが私の仕事なんだ」

 タキが真面目な顔でそう言ったことがある。

「だったら、魚を捕らなくても、連れ帰ってくるだけで、お金をもらえそうなもんだけれどな」

と俺がいうと、

「それはない。世界の均衡について理解している人はわずかだし、私のようなよそ者はただでさえみんなに煙たがられているんだ。だから…」

「よそ者?」

 タキはしまった、という顔をして口をつぐんだ。

「とにかく、ものなくして金は得られないってことだよ」

 タキはそういうと、立って何処かへ行ってしまった。


 俺が仕事をし始めて五日くらいした時のことだった。

「こっちに来ても似たようなもんだろ?」

 タキが俺にそう言った。

「どういうこと?」

「こっちに来ても毎日毎日忙しくて、辛くないかってきいてるんだよ」

 タキは俺の顔を見ながらそう言った。

「いや、こっちの方が面白いよ。生きてるって感じがしてさ。まあ、いつかは帰るつもりだけど…」

 俺はタキと村から村へ歩きながらそう言った。心から言ったことだった。

「ふうん、羨ましいね。私なんていつだって生死を感じながらしか生きられないってのに」 

 タキがそう言ったので、俺はそれからはあまり人間界の暮らしのことは話さないようにしようと思った。


 ある日のことだった。夜遅く野宿している時のことだった。俺が寝付けないで焚き火の火を見つめている時、タキが何か寝言を言った。

 俺は、彼女が何を言っているのか聞き取ろうとした。彼女の顔をのぞいて見て、俺は、腰が抜けるほど驚いた。

 涙を流していたのである。あの彼女が。そして、言っていた言葉はこうだった。

「帰りたい」


 俺は次の日からそれとなく彼女の故郷や出身なんかを探ろうとした。本人から様子を探ったり、商人達からきいたりした。しかし、彼女の情報はどこからも掴めなかった。

 そんなある日、俺はとうとう彼女のルーツを突き止めた。

 出身は、おそらく東京。なぜなら、ある日彼女の落とした持ち物の中に、東京限定の古いバッジが入っていたからだ。俺も持っていたから一目でわかった。

「それ、なんだよ」

俺はきいてみた。

彼女は、

「人間界でちょっと拾っただけだよ」

とだけいうと、すぐそれをしまった。

「お前、本当はエアの人間じゃないんだろ」

俺はそう言った。すると彼女は

「悪いかい?私は、あんたと一緒さ。帰りたくないからエアにいるのさ。何より、帰れないのさ。あっちに帰る場所もないし」

と言った。俺は、

「お前、本当は帰りたいはずだよ」

と言った。

「あんたは帰りたくなったんだろ。私は違う。人間界なんて空気も人もやたら汚くて、居られやしないよ。帰りたかったら、あんたは帰りな。私はいやだ。仕事以外、行かない」

「じゃあ、次の仕事の時はいつだ?」

「…次、空にデカい穴が空いた時だ」

「穴?」

「穴だ。空にデカい穴があく。そこを通って魚は行き来する。私はそこを狙う」

「じゃあ、その時お前は結果的に仕事で人間界に来ることになる。その時まで、もうちょっとよく考えてみろよ」

 俺はそういうと、その日はもう話すのをやめて、その場を去った。


 空に穴が開いたのは、その二日後のことだった。

 俺たちは一緒に、空を飛んで穴をくぐり人間界へ行った。穴はとても大きくて、俺たちなんか簡単に飲み込んだ。

「こんな風に、異世界間を移動するんだな」

 俺は、ふらっとそんなことを言ったが、タキは何も喋らなかった。俺がタキに人間界に帰れと言ってからずっと必要最小限しか口をきかなくなっていた。

 俺たちは無言のまま人間界に来た魚を探していたが、途中で、俺はタキにきいた。

「今更だが、ちょっと聞きたいことがある。」

「なんだ?」

「どうして、俺だけ、魚やお前が見えたんだ?人間界の人は普通見えないんだろ。それに、今こうして空を歩けるのは、なんでだ?」

「今更、そんなこと聞くのか」

 タキは、笑いながら言った。

「それはね、あんたにエアの人の血が入っているからだよ。今まで私や魚が見えなくて、最近見えるようになった理由は知らないけど」

「それじゃ、お前も人間界の人の血が入っているから、異世界感を行き来できるということでも、いいんだな?」

俺は、タキにきいた。

「そうだよ」

「じゃあ、俺たちは混血仲間ということになる」

「まあ、そうだね」

「タキ、俺、言い過ぎたかもしれない、お前はエアで充実した生活をして居るから、人間界になんか帰らなくていいのかもしれない。それに、無理に帰れという権利は俺にはない。何があったか知らないから。」

「そうだね」

タキは、のんびりとそう言った。

「でも、俺はお前が本当はこっちに帰りたがってるんじゃないかと思ってる」

「なんでそういうんだい?」

タキが、怪訝そうにきいた。

「寝言でそう言ってたから」

「寝言?私が?」

タキは、驚き、戸惑った顔をした。

「本当だよ、タキ。だから、せめて一日だけでもいいから、こっちの世界を見ていってくれないか。一回、俺と一緒にデートする気で…って言ったら嫌だよな、冗談です。でも、本当に、人間界のいいところ見せたいから…俺と一緒に地上を見てくれないか?」

俺は必死でそう言った。タキは少し沈黙した後、

「仕事があるけど、そこまで言われちゃ、仕方ないな」

と言った。

「やった!」

俺は、ガッツポーズをした。


 俺たちは、空を飛べるのをいいことに、東京を空から満喫した。東京スカイツリーも、東京タワーも、空の上から見ることができた。(俺たちが空を飛んでいる姿は、人々には見えなかった)

「楽しい?」

「ああ」

 俺がそう聞くと、タキは落ち着いた表情で返す。でも、本当に楽しんでいるだろうか、俺は不安になった。

 俺は、東京のあちこち飛んで紹介しまくった。でも、届かない。エアの世界はもっと自然がいっぱいあったし、美しかった…。


 数時間経ったところで、俺は言った。

「全然楽しくないだろ、ごめんな、引きずり回して」

「いや、案外、面白かったよ」

 空気に腰をかけながら、タキが言った。

「でも、こんなんじゃまだ、こっちに帰る気には…」

「ならないよ。ずっと。私はやっぱり、エアの人間だ。」

タキはきっぱりと言った。

「でも、今日一日見て回って、変わったこともある」

 タキは、改まった口調で言った。

「私はね、東京の人間である親に捨てられたんだ。エアの人に保護されたからよかったが、以来、東京の人間は嫌いだった。でもね、今になって、こんな風に私を見つけて、ここまでして東京中連れ回す人に、出会った。あんたは、いい奴だ。はっきり言っちゃ、好きだ。変な意味じゃないよ。人間としてって意味だ。こんな風に、人間界の人を好きになる日が来るとは思わなかった。これは、私にとって大きなことだ。でも、私は人間界には住まない。」

「うん」

俺は頷いた。

「それは、東京が嫌いだからとか、そんな理由じゃない。仲間もいるし、均衡を保つという誇り高い仕事もある、そんなエアの世界が好きだからだ。」

「うん」

「だから、私は行くよ。そろそろ魚捕らないと、あっちに帰れない。今日は、楽しかったよ。今までもだ。ありがとう」

タキは俺の目を見てそう言った。

「うん、俺も、楽しかった」

言いながら、俺の目からは涙が止まらなくなっていた。

「あんた、なんで泣いているんだい?」

「俺、あんたに何もできなかった。色々良くしてもらったのに、何も…」

「何言ってるんだよ…私、今全部言ったろ?感謝してるのはこちらだって。永遠の別れってわけじゃないし。私、これからも魚捕りに来るから、ね?」

タキは俺の頭に手を置いて、慰めようとした。

「うん、何回でも魚とりに来てくれ。後、困った時は俺を頼ってくれ。俺、助けに行くから」

「ありがとう、私もあんたの窮地には駆けつけるよ」

タキは、そこまでいうと、行ってしまいそうになった。俺は、その瞬間急いで、

「俺は、変な意味で好きだから!」

と叫んだ。

 タキは、俺に背を向けると、本当に行ってしまった。魚を捕りに、何処かへ。

 しかし、俺は見ているのだ。今まで、俺が「デート」と言った時と、ついさっきの計二回、彼女の顔がカッと赤くなるのを。

「やっぱ今日のはデートだから!」

 俺は小さくなっていくタキの背中に、大きく叫んだ。聞こえたかな。


 それからは、つまらない日々が始まった。俺は、無断欠席ということで、学校に怒られた。一人暮らしだから離れて暮らしている親にも連絡しろって怒られた。つまらないけれど、俺の日常。俺の大切な世界の、日常。今までだったらこんな風には感じられなかっただろう。今では、そう感じることができていた。それもこれも、タキのおかげだと思った。


 ある日、家のドアベルが鳴った。

 なんだろう、宅配なんて頼んだかな、と思いながら俺は出た。

 すると目の前には、タキがいた。

「タキ!」

「二回目のデートを、誘われに来た」

 タキは、やっぱり真っ赤になりながら、それでも笑って、そう言った。

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