マフラーの君の空

加藤ゆたか

マフラーの君の空

 冬の空は薄いけど高い。

 中学二年生の中山エージは体育の授業のグラウンドで空高くサッカーボールを蹴り上げた。サッカーゴール近くまで飛んでいったそのボールは待ち構えていたクラスメートのケータに拾われ、そのままゴールに蹴り込まれた。ゴールキーパー役の男子は足でボールを止めようとしたが届かず、ボールはゴールネットを揺らす。これで三点目だ。エージとケータはサッカー部でコンビを組んでいる。

「よっしゃ!」

 ケータがボールの行方を気にしながらエージのところまで走ってきて右手の手のひらをかざす。エージはケータとすれ違いざまにパシッとその手のひらを叩く。今度はケータがボールを奪う番でエージがゴール前でボールを待つ番だ。

 ケータがパスをカットしてサッとボールを取るとドリブルでエージの方に引き返してきた。エージが合図を送るとケータがエージにパスを渡す。エージはボールを受け取って、目の前にいた男子一人をドリブルで抜くとゴールに向けてシュートを打った。再びボールはゴールネットに突き刺さった。

 キャーッとグラウンドの隅でエージたちの様子を見ていた女子たちが声を上げた。エージがちらりとそちらを見ると、その女子たちは自分たちの球技の種目そっちのけでワイワイと楽しそうにエージの方を見て盛り上がっている。

 隣のクラスの女子たちだ……、正直名前も知らないんだよな、とエージは思った。

「エージー、モテるねえ。」

 ケータがからかうように言う。

「やめろよ。興味ない。」

 いや、エージだって本当は女子たちにキャーキャー言われるのは悪い気はしない。でも自分と関わりがあるもののようには思えなかった。エージは女子から付き合ってほしいと告白を受けたこともあった。しかしその時はまだよくわからないと断った。ケータはというと同じクラスの西野さんと付き合い始めたらしい。それを聞いた時、羨ましいようなそうでもないような感じだった。女子と付き合うなんて想像もつかないとエージは思った。

 ……恋を知らないわけではないけれど。


 授業の時間が終わる。エージたちはサッカーボールを片付けて教室に戻った。走り回ったおかげで体がポカポカしている。午後の授業だるいな。早く部活の時間になるといい。

 この季節、放課後のサッカー部の部活が終わるころにはすっかり日が落ちる。いつもの走り込みからパス練習など基礎の練習をやった後に今日の部活はチームに分かれての練習試合があった。

 いつものようにエージはケータとコンビでボールを取りに行く。しかし学校の授業のようにはうまくいかない。クラスの友だち相手とはわけが違う。サッカー部の仲間たちはみんな上手くて練習量も相当多い。クラスではサッカーが上手いと注目されるエージでも、レギュラーになれたのは夏で先輩たちが引退したからだ。うっかりすればあっという間に後輩に追い抜かれる。それでも今日のエージは一点ゴールを決めることができた。

 練習試合の後、監督がチームのみんなそれぞれにダメ出しをする。

「中山、お前の課題はドリブルだ。もっとボールをキープする練習をしろ。」


 エージはボールのキープ力を上げるためにはどうすればいいかと考えながら帰路についた。エージの家の方へ一緒に帰る友だちはサッカー部にはいない。練習の帰りはいつも一人だ。家に帰ったらユーチューブでドリブル講座の動画でも見てみるかな、そういや今日はジャンプの発売日だっけ、もう家にあるだろうか? そんなことを考えながらエージがコンビニの前をボケーッと通り過ぎた時だった。

「お、久しぶり!」

 エージは急に肩を叩かれて声を掛けられたので驚いた。振り返ると白いマフラーを首に巻いた女の子がエージを見ていた。背はエージよりも少し低い。着ているのは近くの女子校の制服だと気付いた。エージがビックリした顔で女の子を見返すと女の子はニヤーっと笑った。

 その女の子が誰だかすぐにわかった。でも何を言ったらいいのかわからず言葉が出ない。

「ユカちゃん。」

 エージはやっとそれだけ言えた。

「そうだよ、忘れちゃってた? っていうか、声変わりしたねぇ!」

「あ、うん。忘れてないよ。」

 エージは声変わりを指摘されて少し恥ずかしくなった。ユカちゃんと会ったのは二年ぶりくらいかもしれない。

「久しぶり。」

「久しぶり。エージくん、大きくなったよね。私より背高くなってるじゃん。学校の帰り?」

「うん。ユカちゃんは?」

「私も部活の帰り。」

「そうなんだ。って、それ買い食いじゃないの?」

 エージはユカが持っているコンビニの袋を指さした。

「これからそのまま塾に行くんだよ。いつも晩ご飯はここで買ってるの。」

「へえ。」

「懐かしいなと思ったんだ。ちょっと時間ある? いつもの公園行こうよ。」

 ユカはエージを連れてすぐそこの道の角を曲がる。その突き当たりには公園があった。小さい頃、近所の子供たちがよく集まって遊んでいた公園だ。

 ユカちゃんはよくここで遊んでくれたっけ……。


 ユカはエージの一歳年上で近所に住んでいて、幼稚園が一緒だった。小学校に上がってからもエージが近所の同年代の友だちたちと公園で遊んでいる時に一緒に遊んだ。ユカの家に遊びに行ったことも何度かある。しかし、ユカが受験勉強で忙しくなってから次第に疎遠になった。ユカが学区の中学校ではなくて女子校に合格してそちらに進学してからは、ほとんど顔を見る機会も無くなっていた。

「いつもは塾に行って食べるんだけどね。今日はここで食べていく。」

 ユカは公園のベンチに腰掛けた。隣のスペースを空けてくれているので、エージも隣に座れということだとわかった。

 この公園でみんなでドッジボールをやった楽しい記憶がエージの脳裏によみがえる。だいたいいつも同い年の子供たちで遊んでいたけど、時たま年上のユカちゃんも混じっていた。ユカちゃんと遊べる時はとても嬉しかった。ユカちゃんは年上だから一人だけ強くて、僕らはボコボコにされたっけ。あのニヤーっと笑うところは小さい頃から変わっていない。

 ユカはおにぎりをほおばりながら言った。

「昔さ、ここで二人でサッカーやったよね。憶えてる?」

「憶えてるよ。」

 エージが大切に仕舞っていたその記憶は今でも鮮やかに思い出された。


 エージはその時まだ小学四年生だった。エージは学校で開催されているサッカー教室に入り立てで、とにかくサッカーが上手くなりたくてサッカー教室の休みの日にも練習をしようと思っていた。近所にあるこの公園ではその日遊具の方に数人の親子がいるくらいだったので、広場ではサッカーの練習ができるくらいの十分な広さが確保できた。エージは地面に相手チームに見立てた目印を置いて、ボールを転がしながら何度もドリブルの練習をした。

 いつもの近所の友だちたちはその日は公園に遊びに来なかった。

「つまんねえ。」

 エージはしばらく一人で練習していたがあまり上達を実感できず、すっかりドリブルの練習に飽きてボールを抱えてベンチに座ってしまった。

「あれ、エージくん、今日は一人なの?」

 声を聞いて顔を上げるとユカがエージを見下ろしていた。まだこの頃はユカの方がエージよりも少し背が高かった。

「ユカちゃん!」

 エージは馴染みの顔に会えて嬉しくなった。

「一緒にサッカーやらない?」

「サッカーか。いいよ、遊ぼうか!」

 ユカはニヤーっと笑った。あの日の空は青かったと思う。


「あ、ごめん! また全然違う!」

 ユカがエージに向けてボールを蹴るとボールはエージのいる方向とは全く違う方向に飛んでいった。それをエージが慌てて追いかけて蹴り返す。そのボールをユカが足で止めて蹴るとまた全然違う方向にボールは飛んでいく。

「なんでそっち蹴っちゃうのさ!」

 ユカが蹴るボールに振り回されるエージだったが、その時間はエージにとって今までにないくらい楽しい時間だった。走らされるエージを見てユカが大きく笑う。ユカの太陽のような笑顔が眩しい。

「今度は僕からボールを取ってみてよ。」

 ユカのところまでボールを転がして、足で軽くユカの方にボールを蹴り出す。ユカがボールを取ろうと足を延ばすとエージはボールを自分の足下に戻して取られないようにする。今度はユカがエージの足下のボールを追いかけて右や左に振り回される。ユカは長いスカートで動きづらそうだ。

「取れないよー!」

「そりゃ、簡単に取られちゃ困るよ。」

 エージは得意気に言う。

「んー!」

 ユカが急にエージの体に手を伸ばしたかと思うと脇を思い切りくすぐった。

「わー、ちょっとファール!」

 エージから離れたボールをユカがすかさず追いかけて取る。

「はぁはぁ、勝った!」

「ズルいって!」

 ユカが公園の時計を見た。こうやって遊んで一時間くらい経っているだろうか。

「ごめん、私そろそろ帰らなきゃ。家族で出かける時間だから。」

「どこ行くの?」

「お祖母ちゃんち。」

「そうなんだ。」

「うん、また遊ぼうね。」

「うん。」

 手を振ってくれるユカにエージも手を振り返した。エージはまた一人公園に取り残された。エージの心はぽっかりと穴が空いたように寂しい気持ちになっていた。ユカに、僕も一緒に行ってもいい? って言いたくなっている自分にビックリした。もっとユカちゃんと遊んでいたかった……。今まで友だちと遊んだ時にはこんな風に感じたことは一度もなかった。

 その後ユカは受験勉強が忙しくなりエージたちとは公園で遊ばなくなった。この時の『ユカともっと遊びたかった』という気持ちは、公園にユカがいないことにガッカリする度にエージの中で思い出された。


 あれが初恋だったと今ならわかる。


「まだみんなと遊ぶことある?」

 ユカは晩ご飯のおにぎりを食べ終わると公園の時計で時間を確認して、エージの方を向いて聞いた。

「いや、クラス違ったりして部活も違うし、もう全然だよ。」

「そうだよね。もう昔とは違うよね。学校は楽しい?」

「まあまあかな。部活は楽しいけど勉強は難しいよ。来年受験だから頑張ってるけど。」

「部活はサッカー?」

「うん。」

「得意だもんね。」

「ユカちゃんはどう?」

「私は中高一貫だからさ。部活は美術部。」

「へえ。絵描くんだ。」

「そうだよ。」

 今度見せてよ、とエージは言えなかった。

 さっきからずっと見てるユカの表情は、あのグラウンドでエージを見ていた同級生の女子たちとは違う。エージと話しながら昔のように屈託無く笑うユカは昔と変わらないユカのように思われて、今ユカに初恋の人という感傷を持って接している自分が後ろめたい気持ちになった。

「時間大丈夫なの?」

 エージはつい聞いてしまった。自分が本当はこの時間が終わってほしくないと思っていることに気付いているのに。

「もう少し大丈夫だけど……。」

と答えたユカが、エージの顔を見て言った。

「エージくん、今あの時と同じ顔してるよ。体が大きくなって声も変わっちゃってちょっとドキドキしてたけど、やっぱり変わってないなって思った。」

 ユカがエージを見て微笑む。そのユカの顔がエージには急に大人びたように見えてドキッとした。昔と変わらないあのニヤーっとした笑い方とは違う。不意を突かれてエージの顔が熱を帯びる。

「それじゃ、そろそろ私行くね。」

 ユカが立ち上がる。月明かりに照らされたユカのマフラーが白く光って見える。

「あのさ、今日、ユカちゃんと話せて楽しかった。」

「うん。私も楽しかったと思う。」

 エージは自分の鼓動が早くなっていくのが分かった。胸が締め付けられる。今のこれはあの時の初恋の続きじゃない。新しい恋だ。またユカちゃんを好きになったのだとエージは今はっきりと認識した。それなら同じことを二度と繰り返さない。

「待ってユカちゃん。連絡先、交換しよう。」

「うん、いいよ。……塾終わったらメッセージ送るね。」


 次の日曜日晴れたなら、きっと空は青くて雲ひとつない。

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