後編

 不思議なのは、その猫の人形の嫌な視線が、喫茶店にいる時ではなくとも四六時中感じるようになったことだ。

 

 通学中も、授業中も、居間でテレビを見ている時も。遊具のない公園の木立の陰から、教室の後ろから、テレビ台の隙間から、が覗いているような気がしてならなかった。

 どこに逃げても追いかけてくる。心が落ち着かない。何度後ろを振り返ったことか。しかし、どこにも猫の人形はいない。当たり前だ。は喫茶店に飾られているはずなのだから。こんな田舎町には似合わないほど瀟洒で、可愛らしい西洋人形に囲まれた喫茶店に。

 牧野ヒロはフランス人のクオーターだ。色白の肌に、ほんのり青い瞳。そんな彼女をクラスメイトたちは「猫みたい」だとしばしば囃し立てた。それは日本では特異な外見のせいでなく、内気で根暗な性格の例えだと彼女は知っていた。彼女は自分に自信が持てなかったのだ。フランスの血。外見が他とは違うだけで、いつだって大きな期待を求められてきた。輝かしい目で見つめてくる。その耐え難いプレッシャーのせいでこんな性格になったのだの、彼女は思っていた。

 それでなくとも、昔からヒロは猫が嫌いだった。あの鳴き声を聞くと、内臓や皮膚のすぐ裏の神経がまるで鋭い爪で引っかかれているような心地になってしまう。今では猫を見ただけで身震いしてしまうのだ。


 そんな彼女がやっと見つけた自分の居場所。フランスの血をひく自分は、こんな田舎臭い町にはふさわしくないとまで考え始めていた。可愛らしい西洋人形たちに囲まれ、美味しい珈琲を飲みながら、マスターである老婆と高尚で愉快な会話をする。まさに彼女の心の拠り所。

 なのに、たった1体の人形――それも猫がモチーフの!――が彼女の理想郷を蝕み始めてしまったのだ。


 事件が起こったのは、文化祭を翌日に控えた放課後のことだった。は前日の最終仕上げにかかるために、クラスメイトたち全員が下校時間ギリギリまで教室に残って作業をしていた時。


 感じる。あの視線が。あの猫の人形に見られている。


「何してるの!?」


 クラスメイトのその声でヒロは我に返った。


「え?」

「血が出てるよ!」


 クラスメイトの指差す先――ヒロは布切りハサミで、自分の親指を切りつけていたのだった。

 銀の刃に滴る紅の鮮血。ヒロは慌ててハサミを放り投げた。ぽたり、ぽたりと、血が教室の床に落ちる。


 どうして? 

 ようやく痛みが襲いはじめてきた。「大丈夫?」と声をかけてくれるクラスメイトもいたが、ヒロはそれどころじゃなかった。


 なぜ? どうして? なぜ貴方はそんなにも私を見つめるの?


 異変に気付いた他のクラスメイトたちもヒロを囲む。多くの視線を浴びてもはっきりと分かった。の視線を。あのぎらりと光る大きな瞳が私を見ている!


 ヒロは逃げるように教室を出た。スクールバッグも置いたまま、血が溢れないよう必死に親指の傷を押さえながら一目散に走る。



 いつもの喫茶店にはいつものように老婆ひとりだけだった。そして、いつもの場所にあの猫の人形はちゃんと置いてあった。


 老婆はヒロの親指の傷に止血用ガーゼを当てて、淡々と包帯を巻いてくれた。「どうしたの?」のひと言もなく、まるですべてを分かっているかのようでもあった。包帯を巻き終え救急箱を片付けると、コーヒーを一杯淹れてくれた。


「サービスです。ミルクはいかがいたしましょうか?」

「……いらないです」


 気分は最悪だった。学校から走ってきたせいもあるけれど、心は全く落ち着いてくれない。心の拠り所であるこの店にくればなんとかなる。そんな一心で駆けつけたのに、熱いくらいのコーヒーを飲んでも奥歯の震えは止まらなかった。


「ずっと感じるんです」ヒロが猫の人形に顔を向ける「あの猫の人形の視線を」


 ゴーンゴーンと、時計が鳴る。

 瀟洒な喫茶店の店内には今日も柔らかなオレンジ色の灯りが落ちていた。コーヒーの香りもする。無垢の木のカウンターの手触りも滑らかだ。そして、店内に飾られた西洋人形パペットたち。金髪、白髪、赤髪に、青や緑の瞳。いつも優しく微笑んでいる彼女たちが、今はヒソヒソとヒロ自身を嘲笑っているかのように思えてならなかった。


「いつの日か、心の拠り所の話をさせていただいたことを覚えていらっしゃいますか?」

「はい」ヒロはコクンと頷く「それは人間の心にいる悪魔の、居心地の良い場所のことですよね?」

「さようでございます。実は、その話には続きがございます」


 老婆はカウンターを出ると、ゆっくりと猫の人形の前まで行った。


「悪魔が心の拠り所にどっぷりと浸かってしまいますとね、たいそう危険なのでございます」

「なにが? 何が危険なんですか?」

「悪魔は心の拠り所にしがみつくのですよ。そこが心地よければ良いほど強い意志で。決して離れぬ、と」

「私は……私は別に、離れようとはしていません」


 猫の人形のせいでこの喫茶店が嫌いになった? ううん、そんなはずはない!


「物理的なことだけじゃないのです。精神的にもでございます。厄介なのは、悪魔は心の拠り所を理想郷に変えてしまうこと。一点の曇りのない青空を晴れとして、少しでも雲が1つでも生まれると、それは曇りだと見誤ってしまうのです」


 老婆は咳払いをひとつした。照明の陰で顔が隠れている老婆の姿は、まさに魔女だった。


「鬼ごっこのたとえ話もしましたよね? 鬼ごっこが何よりも好きな小学生の男の子で、鬼ごっこをしている時が至福の時間だと。しかし、例えば雨が降ってきました。もちろん教室や廊下でもできますが、校舎内で走ることを先生から禁止されている。普通の子どもならば、鬼ごっこはすんなりとあきらめて、室内で出来る遊びをします。トランプとかお絵描きとか。でもその男の子の悪魔はそれをゆるしません。極端な話ではございますが、心の聖域にどっぷり浸ってしまいますとね、それを汚すものを排除するように考えるのです。だからその男の子は、雨に濡れようが風に吹かれようが火の粉で全身を焼かれようが、グラウンドに出て必ず鬼ごっこをするという選択をするのでございます」


 ヒロには老婆の言葉が分からなかった。いや、今までの話もそうだったではないだろうか。この喫茶店の雰囲気に、老婆の話の上澄みだけですべてを理解したと思いこんでいただけなのかもしれない。瀟洒で、可愛らしい西洋人形に囲まれたこの喫茶店に、無理やり自分の居場所を確保するために。


「せっかく築いた理想郷に、ほんの些細な異物が入っただけで、悪魔は牙をむくのでございます。そうしてむさぼりはじめるのです。現実を。自分自身でさえも」


 ヒロは傷ついた親指を見た。白い包帯にうっすらと赤い血が滲んでいた。


「どうすれば良いのですか?」

「解決方法などいくらでもございます。それこそ人間の――悪魔の数だけ」


 老婆は、猫の人形の頭を優しく撫でてやっていた。


「あなたの悪魔は何がしたいのでございますか?」


 老婆は笑った。笑ってこっちを見た。猫の人形とも目があった。とたん、その猫の人形が「にゃあ」と鳴いてみせた!


 不快な、神経を剃刀かみそりで削られるようなあの嫌な猫撫で声。


 声に倣ってか、なんと他の人形たちも次々に「にゃあにゃあ」と鳴き始めたではないか。


 ヒロは必死に耳を塞いだ。両手で頭を抱えて縮こまった。それでも人形たちは鳴き続ける。にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ――力の限り、頭がひしゃげるほど強く耳を押さえても鳴き声は聞こえてくる。


 たまらなくなって、ヒロは店を飛び出した。あたりはすっかり暗くなったが、家はすぐ近くだ。すると、家の玄関口にはクラスメイトたちが数人いた。教室に置きっぱなしにしていたカバンを持ってきてくれていたのだった。


「ヒロ!」


 彼女たちもこちらに気がついて声を掛けてきた。中には涙を浮かべている生徒もいた。


「心配したんだよ。急に教室を出ていっちゃうし、家にもまだ帰ってきてないって言うし」

「うん、ごめん」ヒロはそう言ってカバンを受け取った。


 猫の声はさすがに止んでいた。代わりに裏山から秋の虫の音が聞こえてくる。

 

「ヒロも、魔女に食べられたかと思った」


 え?


「ほら、噂になってるじゃん。1ヶ月も前から行方不明になってる隣のクラスのXXって子。まだ見つかってなくて、きっと魔女に食べられちゃったって」

「違うよ。魔女は食べないで人形に改造しちゃうんだよ」


 人形?


 夏休みを空けてから登校しなくなった女子生徒XX。当初は単なる不登校か家出くらいだと軽視されていたが、今では全国区のニュースにも取り上げられるほどになった。行方も理由は未だに不明。だから噂好きの女子高生たちは好き勝手に尾ビレを装飾していたのだった。


「でも、魔女だの改造だの、そんなことある分けないよね」とクラスメイトたちは笑ってみせた。


「明日の文化祭、ヒロもちゃんと来るよね?」

「うん」


 安堵したクラスメイトたちは「本当にちゃんと来てよ!」ともう一度だけ付け足すと、大きく手を振りながら帰っていった。


 母親には準備中に間違って指を切ってしまったとだけ言い訳をして、夕食もほどほどに、ヒロは自室に入った。


 単なる噂話だ。魔女も人形も改造もある分けない。そう自分に言い聞かせる。はてな? どうしてそんなことを言い聞かせる理由わけがあるのか。もう猫の声は聞こえないはずなのに、ヒロの心には小さなかさぶたのようなナニカが


 そして、そのナニカは突然やってくる――部屋の電気をつけるとヒロは「あ!」と驚いた。全身に鳥肌がたつ。なんと、壁に貼った西洋人形たちの絵がすべて猫の人形の顔になっているではないか!


 どうして? 誰が? いつの間に?

 混乱が渦を巻く。頭の中に大波が押し寄せる。そんな混沌が溢れる中で、今度はそれら絵が、にゃあにゃあといっせいに鳴き始めたのだ。


 おかしくなった。壊れた――


 真っ白か真っ黒か。訳も分からず、ヒロは無我夢中ですべての絵を剥がしてゴミ箱にほうり捨てた。鳴き声は止まったが、強い視線はずっと感じる。


 どうすれば良い? どうすれば、またあの居心地の良い店に行けるの?


 ドアがノックされた。「どうしたの? 入るよ」と母親の声――しかし、入ってきたのは母親ではなく、猫の顔をしたナニカだった。


 ついにヒロは自宅までも飛び出した。また逃げてしまった。とうとう自分の頭がおかしくなったのだと、星いっぱいの夜空を見上げながら彼女は笑った。


 心が掻きむしられる。

 体の奥底で、悪魔が叫んでいる。

 熱い――内蔵が、神経が、精神が焼かれる!


 あの喫茶店しか、もう残されていない。私の心の拠り所。でも、あそこには猫の人形がいる! 無理だ! むりむり、ぜったいにむり!


 稲刈りを終えた田んぼは寂しく、静かな夜だった。畦道に架かる小さな踏切の音だけが鳴った。


 ふと、視線を感じた。遮断棒の先に、それはいた。


 目が合った。。例の猫の人形が、踏切の向こう側に立っていた。あれだ。いつも感じる視線のあるじだ。


 電車が通り過ぎた。猫の人形は見えない糸に繰られているかのように背中を向けると闇夜にむかって歩き始めた。ヒロは遮断棒が上がりきるのを待たずに後を追いかけた。


 なぜ追いかけるのか、ヒロも分からなかった。ただ無我夢中で猫の人形を追いかけた。だが、いくら走っても追いつかない。息を切らして全速力で走るヒロをあざ笑うかのように、猫の人形は優雅に、行方も分からず闇の奥へと歩き続ける。


 やがて、ヒロたちが通う高校に到着した。校舎の所々には明日の文化祭用の垂れ幕が下がっている。しかし、その色香は全くなく、だたただ夜の漆黒に溶けていた。


 猫の人形は校舎の中へと入っていった。ヒロも校門を乗り越えて後を追う。廊下を渡り、階段を登る。誰もいないはずなのに、扉の鍵はすべて開いていた。そうして、猫の人形は「2‐D」の教室に入った。入口には「鏡迷宮」と書かれた看板が立ててある。


 暗闇の迷宮には青白い月明かりだけ。その光が四方八方の鏡に反射していた。フランス人のクオーターであるヒロが上にも下にも右にも左にも写る。見たくもない顔。容姿が違うだけで必要以上の期待を浴びせられる。そのせいで根暗な性格へと矯正された呪うべき顔だ。そんな自分自身と対峙しながら、ヒロは迷宮の奥へと進む。猫の人形は何処へ。どこにもいない。ゴールもない。


 鼓動が高鳴る。ヒロは喫茶店のことを思い浮かべていた。こんな田舎町には似つかわしくない瀟洒しょうしゃな喫茶店。そこには可愛らしい西洋人形がたくさん飾られていた。金髪、白髪、赤髪に青や緑の瞳。1体として同じものはなくそれぞれが個性を持っていた。なのに彼女たちはその喫茶店に馴染み、受け入れられていた。まるでここが私たちの居場所であるかのように、満足気に微笑んでいた。


 そうだ、居場所だ。

 ヒロはふと足を止めた。そして思い出した。あの喫茶店は私の居場所でもある。フランス人のクオーターである私が居るべき理想郷。聖域サンクチュアリ


 行き止まりかしら? 目の前には大きな鏡があった。月明かりに照らされた彼女自身が、猫の顔となって写っていた。


 心の拠り所。心に棲む悪魔が静かに眠る場所。そこが穢され、蝕まれ、ヒロの心の悪魔が癇癪を起こした。


――あなたの悪魔は何がしたいのでございますか?


 老婆の言葉がリフレインする。鏡に写る猫の顔のヒロがうっすらと笑った。


「わかった。そうすれば良かったんだね」


 再び、ヒロは歩き始めた。迷宮を抜け、学校を出て、静寂な畦道を進んでいく。ときたまスキップも混じえながら、目指すはあの喫茶店。何にも代えがたい心の拠り所。


「やっとわかったよ。どうすればよいのか」


 たとえどんなことをしてでも、心地よく収まる私の聖域へ。

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