愚かしい愛し方を

高戸優

第1話

「ーー後悔は、ないか?」


無遠慮な質問を投げかけられた卓人は顔を上げた。

月が登る今の空とは対照的な、鮮やかな水色の瞳をゆっくりと数回瞬かせる。


白と茶を基調とした、シンプルながらもアンティーク染みた家具の多いこの店には静かなジャズが流れていた。そんな自分の領域での出来事に向き合うため、丁寧に拭いていたソーサーを水切りかごに戻しながら、ウェイター服に身を包んでいる卓人はカウンター越しにいる男へ視線を動かす。


アシメントリーな黒い髪、鮮やかな金色の瞳。カウンターから見える範囲の衣服は赤と黒でまとめ上げている男だった。歪な稲妻のように走った右頬の傷は、全身のタトゥーと相まって人を寄せつけずとも不思議と惹きつける材料と化している。ただ、冬も深まってきた今日の気温に合わせて、彼の特徴とも言える蜘蛛のタトゥー達は長袖の下に潜んでしまっていたが。


男は特に長いもみあげと蜘蛛の巣ピアスを弄りながらじっと見つめている。その目力に気圧され軽く息を飲んだ卓人は、誤魔化す様に食器拭きを畳みつつ


「えっと……エレノアさん。何がでしょう?」


「……いま?」


「今?」


聞き返しと同時に頷いた蜘蛛男ーーエレノアの表情には何の悪戯も浮かんでおらず、ただ静かに真面目に答えを待つ姿勢しか感じ取れない。一瞬でも揶揄いと疑ったのが恥ずかしいと、アルコール消毒と水で荒れてきた指先で頬を掻きつつ


「うん……後悔? ないと思いますけれど」


「Really? Tell me if you really think……Ah……あー……ほんと、に?」


突然飛び込んできた英語に、そういえばこの人は外国語圏の人だと思い出す。突然の質問とはいえ、そんな当たり前の情報が飛んでしまうなんてどれだけ動揺していたんだろうか。


よくよく聞けば彼から紡がれる日本語はどこか拙い。そこに勝手に親近感を抱きながら、卓人はほんの少し口元を緩ませながらもはっきりと


「はい。ないです」


「Si? Per quanto tempo continuerà……ゔぇ……どれだけ続けるつもり……です」


「どれだけ……ですか」


時々飛び出る外国語に過剰に反応しては気分を害してしまうかもと、腕を組みながら何ともない風を装った。頭はしっかりと回しながら、その質問に誠意ある答えを考える。


そんな卓人の視界の隅で、エレノアが違う店員を手招きで呼び寄せていた。店員が近寄ってきてからメニュー表を二人の間に立て、何かを指してからピースサインをして見せる。「Due?」「Si.」と、慣れた様子で飛び交う別言語を聞いていると違う国に来た気がしてしまうが、ここは日本で卓人の築いた喫茶店だ。


確認するように手元の簡易テーブルを撫でる。木製部分からシンクの金属部分に移動すれば、当たり前ながら冷たさが指先から伝ってきた。しばらく指先を留め、我慢が効かなくなり離したタイミングに合わせて答える。


「……私が生きている限り、ですかね」


「……生きてる、かぎり」


メニューから顔を上げたエレノアの視線が卓人を強く射抜いた。猫のように気ままでいてライオンの様に力強い瞳は、喧嘩すらまともにしたことない卓人には刺激的すぎるものがある。緩やかに視線を男二人の中間地点へ逸らせば、ちょうど見える位置でエレノアの黒手袋に包まれた手が促す様に卓人へ差し出されていた。


俯いた視界の左側では先程の店員がカップを二つ準備していた。昔卓人が教え込んだ紅茶の淹れ方を慣れた手つきで行う姿はとても様になっている。エレノアが口笛を吹くのを聞き思わず顔を上げれば、その強い目はいつの間にかかの店員の手つきへ釘付けだった。ほんの少し解けた緊張につられるように顔を綻ばせ


「きっと……ううん、絶対来ると思うんです。此処がもう駄目だって時は。それは店員の誰かが辞める時かもしれない、客足が遠のく時かもしれない。……でも私は、辞められないと思うので」


「……つらくても?」


「ええ。……辛い苦しい、絶対思いますけれど、そもそも此処を始めたのは私の我儘です。うん……此処はもう私だけのものじゃないですが……始まりが僕だっていうのなら」


思わず飛び出した昔の一人称に笑ってしまう。直そうとする思考からあえて逸らし、そのままの勢いで

「終わり方だって、終わる時だって、僕の我儘で決めさせてもらいます。だから、僕が生きている限り続けます」


言いながら、思う。きっといつか此処で辞めておけばという時が現れるだろう。全盛期のうちに畳んで、いい思い出の最高潮で終えて、いい雰囲気でしめることもできるだろう。

それでも、だとしても。


「ーー『愛しましょう、いつまでも。愛したい気持ちがあるのに、途中で辞めるのは貴方の人生で最大の罪です。』まあこれ、受け売りなんですけれども」


「……そー」


静かに聞いていたエレノアはそんな間延びした相槌をひとつ打った。卓人が視線を戻すと、呆れや飽きなどなく至極真面目に聞いていたことが見て取れる。


そういえば、この人、話すのは拙いのに聞き上手だーー。そんな今更な疑問を抱いていると、例の店員がお話中失礼しますとエレノアの前に注文品を並べ始めた。ありがとう、と笑うエレノアは二つ置かれたティーカップの一つを、ソーサーごと卓人の目の前へ差し出してくる。受取人の目がメガネの奥で丸くなるのが面白かったのか、エレノアは小さく声を出して笑った。それに対抗する様に、卓人は目を閉じてから咳払いを一つ。


「……これは?」


「俺からあなたへ。いい話をいただいた、ましたから」


好きが淹れた紅茶の方がおいしい、でしょ? と笑う顔は悪戯を思いついた子どものよう。あなたのもおいしいけど、そんな拙いフォローに思わず笑いながらカップを自身の方へ寄せる。ありがとうございますと返す中、エレノアは、いーえと笑い


「俺以外に、バカ……がいると思う。心強い」


その言葉にそういえば、と思い出す。確かこの人も社長だった。だからこの質問なのか、彼も何か悩んでいるのか、だとしたらカフェのマスターとしては聞き手に回るべきだったのでは……そんな今更な疑問を抱えた卓人の口を突いたのは


「……エレノアさんも、続けるんですか?」


単純な質問ひとつ。受けたエレノアは目を瞬かせ、笑いながら襟元をいじった。動きに合わせ室内灯を乱反射するピンバッジを愛おしそうに撫でながら


「Si.Finché questa vita continua anche se sposo l'inferno.」


言い直すことなく、暇を持て余していた五本指を自らのティーカップに絡め持ち上げる。まるでパーティーでワイングラスを扱うかのように高らかに掲げつつ、悪戯を思いついた子どものような笑顔を浮かべると


「えっとーーバカ二人の旅路に? 合ってる?」


「合ってますよ」


釣られる様に卓人も自身のティーカップを持ち上げ、笑う。


最愛の人の為でもあれば自分の為でもあるこれからへ。棘が刺さろうが傷だらけになろうが、血を流そうが歩き続けるしかない、雁字搦めになった愛に溺れる自分と目の前の男への敬意を持って。


他言語を有する男達は、あえて無言でカップを合わせる。高い音がジャズに乗って空中に広がった。


そんな閉店間際の喫茶店の名は、ノスタルジアという。

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愚かしい愛し方を 高戸優 @meroon1226

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