やさしき月の列車旅
七条ミル
一、旅立ちの駅
「なあ、ルナ、本当にお前、今日行っちまうのか?」
マスターは私の目をじっと見て、そう言った。
「うん」
私も、マスターの目を、しっかりと見る。
「決めたことだから」
三年間働いた田舎の喫茶店は、しんと静まりかえっていた。
――ルナ、お前にはね、私との血の繋がりはないんだ。
そう教えられたのは十三歳になる誕生日だった。
納得できたか、と聞かれたら、納得はしていないんだと思う。だから、私はこの目で本当の両親を見たいと思った。おばあちゃんには感謝しているからこそ、両親に会いたいと思ったのだ。
おばあちゃんは私に、私を引き取ったときに一緒に渡されたという手紙を見せてくれた。そこには、やれ仕事しかできないだの、お金がないだのと書いてあった。
そして手紙の最後には、両親の名前――マルス、テラ――と、住んでいる街の名前が書いてあった。
ここからだと国の対極に当たるその街に行くための汽車の切符は、おばあちゃんには、ましてや私に買えるはずもなかった。ただでさえ、汽車の運賃は高い。
だから、私は十三歳の誕生日の、その次の日からこのカフェで働き始めたのだ。旅費を稼いで、両親に会いに行くために。
もう、三年が経った。やっと、両親が居るというその街へ行けるだけの旅費を確保できた。
だから、私は行く。私は、これから自分を生んでくれた両親に会いに行く。
マスターは、悲しそうな顔をしていた。目尻には涙を浮かべて、それでも無理やりに、笑顔を作ろうとしているらしい。
「なあ、ルナよ、お前はウチの看板娘なんだよ」
そんな顔をされたら、私まで悲しくなってしまう。
「だからよ、きっと帰って来いよ」
「もちろん。きっと、ここにまた帰ってくる」
今生の別れでは、決してない。
毎日フライパンを振るマスターの硬い手を、私はぎゅっと握った。
「ありがとうございました」
頭を下げると、伸ばしていた髪が顔を隠してくれた。私は、マスターに顔を見られないようにゆっくりと振り返り、そうして長く働いた店を出た。
ゆっくりと茶色い土を蹴って歩く。幾度となく通ったこの道も暫く見れないんだと思うと、また泣きたくなってしまう。道端の草木でさえも、私にとっては思い出の一部なのだ。
でも、悲しいから泣いているんじゃないんだと思う。別れではないから。私は必ず帰ってくるから。
そう考えたら、少しは気も楽になった。涙を拭いて、少しだけ色の濃くなった地面を蹴って誤魔化す。それから、振り切るように私は駅に向かって走り出した。もう荷物はまとめてある。長距離列車の切符も買った。あとは、駅に行って乗るだけだ。
景色をみんな目に焼き付けて駅まで歩くと、改札のところにはおばあちゃんが立っていた。
「ルナ、忘れ物は無いね」
持ち物は、もう何度も確認した。だから、大丈夫だ。
「あたしも入場券を買ったから、中まで送るよ」
「ありがとう」
駅員さんに切符を見せる。駅員さんは少し驚いたような顔をしてから、私を通してくれた。
寂れた田舎の駅だけれど、この駅は広い。それは多分、国の端にあって車庫などが併設されているから、とか、色々と理由があるのだろうけれど、それは私は知らない。ただ、列車も入らないホームも沢山あって、だだっ広い。その沢山あるうちの真ん中に近いホームに目的の列車は止まっていた。他に列車が居ないのだから、見間違うはずもない。
おばあちゃんとゆっくり階段を上って、そのプラットホームに降りる。
列車の先頭では、黒い蒸気機関車が白い煙を上げていた。
「この列車は――」
「知ってるの? おばあちゃん」
「ああ、知っているとも。ルナを引き取ったときのことが思い出されるわ」
おばあちゃんはそれから少しブツブツと独り言を言って、空を見上げた。
「運命の悪戯かもしれんの」
「なにそれ」
「きっと、いずれわかること。あたしの口からは言わないよ」
それっきり、おばあちゃんは口を開かなかった。
私は機関車の後ろにある三等車に乗った。一号車の、前から三列目、進行方向右側。特に理由はないのだけれど、ここに座るのが好いような気がしたから。
窓を開けて、おばあちゃんの顔をもう一度しっかりと見た。
「気を付けていくんだよ」
おばあちゃんは、最後にそう言った。それから、機関車の方に歩いて行ってしまった。
「五番線ウトピア行の長距離列車発車しま――」
駅員さんの声は汽笛で掻き消されてしまう。少し揺れて、列車はゆっくりと動き始めた。
「またね、おばあちゃん」
私は、窓から乗り出しておばあちゃんに手を振った。でも、おばあちゃんはすぐに見えないくらい小さくなってしまった。
駅を発ってから五分くらいすると、客車の前の方から青い制服に身を包んだ車掌さんがゆっくりと歩いてきた。腕には車掌という文字の書かれた白い腕章と、制服と同じ色の帽子を頭に載せている。どことなく作ったような笑みを浮かべて、車掌さんは私の前で止まった。
「ご利用頂きましてありがとうございます。検札にご協力ください」
ポケットの中から切符を取り出して車掌さんに渡す。
「失礼します。…………は?」
「何か、問題でもありましたか……?」
車掌は随分と驚いたような顔をしていた。
「こ、このウトピアまでって、本当ですか?」
「え? はい。ウトピアまで乗るつもりです」
問いに私がそう答えると、車掌さんはもっと驚いたような顔をした。さっきの張り付けた笑みはもうどこにもない。
「えーっとですね、その、では、あの、これから長い付き合いになりますので、よろしくお願いします。車掌です」
「でも、列車の車掌さんって、交代なさるんじゃないんですか?」
私は勝手にそういうものだと思っていた。ちゃんと列車のことについて調べたわけではないのだけれど。
「普通の短距離列車はそうなのですが、長距離列車の場合は乗務員が始発から終点まで一緒なんです。なんと申しますか、この列車専属の乗務員と申しますか、うーん、ながーい間一緒に旅をすることになります」
「そうなんですね。ルナと申します、よろしくお願いします」
これから終点までずっと案内してくれる車掌さんに、私は頭を下げた。
「乗り通しのお客様を担当するのは、ワタクシ実は初めてでして」
「そうなんですか?」
「ええ。機関士の方は、昔に一度だけあるらしいんですが。いやでもあれはお客様なのかな、でも――」
国の端から端まで移動する列車を乗り通す客は、どうやら少ないらしい。
「しかし、ウトピアに行ってどうしようと言うのです? 名前とは裏腹、あそこは酷いところだと聞きますが――あ、いや、失礼、お客様のことを詮索するようなマネはしてはいけないのでした。では、私は他のお客様のところに行ってまいりますので、何か御座いましたらいつでもお声をおかけください」
車掌さんは、では、と言って走っていってしまった。爽やかな人なのかと思ったけれど、せっかちなところもあるらしい。それか、時間に厳しい鉄道だから、私のところで時間を使ってはいけないのかも。
そうかと思えば、車掌さんは数分となく戻ってきた。
「すっかり言うのを忘れてました! この列車、先頭この車両から一号車、四号車までが客車になります。トイレは二号車、四号車は食堂車になっておりますので是非ご利用ください。それから、その後ろには貨車が付いております。お客様のお荷物を保管するほか、食堂車で使う野菜、そしてお客様にもご自由に使っていただける備品などご用意しておりますので、何かご入用の際はお申しつけください」
車掌さんは、ばーっと、全部喋った。
「あ、そうだ、お茶なんてどうです?」
「わ、私だけサービスを受けるのはなんというか」
他の人に申し訳ない。
「いや、他の人も何も、この列車には今ルナさんしか乗っていないというか、はい」
「は?」
「いやあの、他の方も何も、お客様はルナさんだけです」
車掌さんは、顔をしかめた。
「めちゃくちゃ暇なんです」
「お茶、頂いてもいいですか?」
車掌さんが淹れたお茶は、結構美味しかった。
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