36話 進軍
眠れないまま朝が来た。心なしか空気がざわついているような気がするのは気のせいだろうか。私はまだ暗い部屋でだまって着替えて外に出た。
しん、とした庭先の木々の向こうから、微かに人が移動するような音が聞こえてくる。出兵に向けてみな慌ただしく動いているのだろう。
「真白様!」
一人で庭に立つ私を見つけたクラリスが駆け寄ってきた。
「……ひどい顔してますよ。中に入ってください」
「うん、やっぱり眠れなくて」
いつまでもここにいても仕方ない。私はクラリスについて部屋に戻った。
「とりあえずお茶を……昨夜もあまりお召し上がりになりませんでしたもの」
「ありがとう……」
本当に食欲は無かったけれどクラリスの気遣いを無駄にはできない。私はたっぷりのクリームとお砂糖の入ったお茶を口にした。ぼんやりとしたままそれを飲み干すと、クラリスは私を呼んだ。
「真白様、こちらへ」
「いいわよ、化粧なんて」
鏡台の前に立つクラリスに私がそう答えると、クラリスは首を振った。
「いいえ。クマがひどいですし血色もありません。いいんですか、そんな顔でフレデリック殿下をお送りしてはいけませんよ」
「……私は……」
「真白様が良くても殿下は心配されます。そういう方です」
「そうね。そうよね」
私が頷くと、クラリスは微笑んで私のクマをおしろいで隠して、頬紅をはいた。
「討伐に向かう騎士団は笑顔で送る! 『見守る会』の大原則です」
ポン、クラリスが私を元気づけるように肩を叩いた。わざとおどけた風に振る舞う彼女だってきっと不安なのだ。めそめそするのはよそう。私はそう思った。
「ありがとうクラリス。それじゃ私……みんなを送ってくる」
「ええ」
私は家を飛び出した。何度も通った教練場への道。私はふと立ち止まった。そして辞典を手にする。
「リベリオ!」
『なんだ』
「バレリアンの精油を出して。それからパッションフラワーとカモミールのハーブティーも」
『わかった』
光のともに目の前にごろごろと精油の瓶が転がった。それをカバンに詰め込んで私は騎士団の元に向かう。
「ザールさん!」
「真白さん……ずいぶん早いですね」
「ちょっと忘れ物しましたので。ザールさん、これも遠征に持っていって下さい」
「これは……?」
私はザールさんにバレリアンの精油を渡した。バレリアンは不安や緊張に効くハーブだ。
「これは……私のいた世界で過去、兵士の緊張緩和に使われたハーブです。匂いがきついので遠征中はハーブティに加えてください」
「……わかりました」
「では早速みんなの分を作らなきゃ!」
私は大きな寸胴を出してハーブティを作りはじめた。
「みなさーん」
「真白さん!」
「みんながばっちり訓練の成果を出せるようなハーブティをブレンドしたので、どうか飲んでいってください」
ザールさんとえっちらおっちら運んだ鍋から、私は兵士さんにバレリアン入りのハーブティを配った。
「一緒に行けなくてごめんなさい」
「いえ、危ないですから真白さんがここにいた方が我々は安心です」
「魔物なんてあっという間に蹴散らしてやりますから!」
兵士さん達は口々にそう言って、ハーブティを口にした。
「俺にもくれ」
「はい、ブライアンさん」
私はブライアンさんには蜂蜜を加えてハーブティを渡した。
「……切り込み隊長は俺だ。殿下に活躍の場はあたえない」
「ブライアンさんも気を付けなきゃ駄目ですよ」
にっと笑ったブライアンさんに、私はつい小言を言ってしまう。
「はいはい」
「まったくもう……」
呆れてため息をついた時だった。振り返るとそこにはフレデリック殿下が黙ったまま立っていた。
「俺にももらえるか」
「……もちろんです」
ハーブティをカップに注ぐその動きはどうしてもギクシャクしてしまう。
「ちょっと癖ある味ですけど」
「……ありがとう」
「早く帰ってきてくださいよ。……待ってますから」
「ああ」
殿下は一気にハーブティを飲み干して、空のカップを私に渡した。
「真白、帰ったら……また食事でも」
「そうですね。実はオハラ家から私の国の調味料を譲ってもらったので、今度はもっと色々ご馳走できます」
「そうか、それは楽しみだ」
殿下はにこっと笑って手を振ると私から離れていった。
「さて! ものども整列だ!」
「はい!」
ブライアンさんのかけ声で騎士団が整列をはじめる。ずらりと並んだ兵士を前にフレデリック殿下が壇上に上がった。
「いいか、今回の魔物は以前の邪竜に匹敵するほどの大型との報告がある! しかし諸君は選ばれし戦士だ! 日頃の鍛錬を発揮する良き機会と思え!」
「はっ!」
「現場は湿地で足元が悪い。そこだけ留意せよ。それでは全軍、西方に向けて進軍する! 王国騎士団の強さを見せつけてやれ!」
「ははっ!」
よく通る大きな声でフレデリック殿下が全軍の出立を指揮すると、騎士団はまるで一個の大きな生き物のように動き出した。
「みんなーっ! がんばって!」
私は彼らが王城を出るまで、その後を追って大声で応援し続けた。
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