第120話 幕間27 エルゼ
マントにくるんで抱き上げたシャンタルの身体は酷く頼りなく、細く、軽かった。
筋力も弱っているのだろう、伸ばした手足は皮膚の下の骨が浮かび上がっているだろうことが解る。
どうして。
妹が何をした? こんな酷い目に遭うようなことがあっていいのか?
つい、強く抱きしめてしまうとシャンタルが苦しそうに息を吐くのが解って慌てて手を緩める。壊れてしまいそうな、なんて表現、妹に使うことになるとは思ってもみなかった。
男勝りで、俺のことですら蹴り飛ばしながらギルドの依頼を片づけていた妹は……もう帰ってこないのだろうか。
「俺はエリゼ。お前の兄。覚えてる?」
そう囁いても、シャンタルは小動物か何かのように首を傾げるだけ。
「シャンタル。お前の名前はシャンタル。言ってみろ」
そう言っても、妹は微かに唇を動かしただけで吐き出されるのは息だけなのだ。記憶を失っているだけ? 本当にそうか?
「もう、どこもつらくないか? 痛みは?」
続けて訊く。
困ったような笑顔が返ってきた。
――理解している? 俺の言葉を? いや、それとも俺の感情が解るのだろうか。心配していることが伝わっている? だから困惑している?
それならまだ可能性はあるだろうか。時間をかければ元に戻る。いや、元に戻らなくても、普通の生活が送れるまでになるだろうか。そんな小さな希望。吹けば飛んでしまうような、軽い希望。
シャンタルは首を傾げたまま、俺の頬に触れる。その後で、そっと辺りを見回す。
辺りは騒然としている。
「避難した住人はどうしましょうか? もう安全だとみなしても?」
神殿の崩れた門の辺りから、声をかけてくる若い男性がいる。シャンタルがそちらを見つめているので、俺も顔を向ける。
そこにいたのは、いかにもギルドの関係者と言わんばかりの革の鎧に腰から剣を下げているという格好の男性だ。
その声に気づいた王宮騎士団の一人が、国王陛下に確認をしている。陛下がそれに頷いて、次々に指示を出していく姿は何とも心強い感じがした。
俺が彼らの様子を見つめていると、陛下が一瞬だけこちらを見る。それから、神殿の瓦礫の山に視線を投げた後、近くにいた王宮騎士団に何か言った。
「念のため、聖女に浄化してもらった方がよかろう」
気づけば陛下が俺たちの前に立ち、シャンタルを痛ましげに見つめていた。そして、すぐに近くにいた聖女様のうちの一人を呼んだ。
そして、俺にしがみついて離れようとしないシャンタルに向かって、聖魔力を使ってくれたのだった。
白く輝く光が、舞い踊るように俺たちの周りを取り囲む。
その浄化というものがどれほどシャンタルに効果があるのか解らない。
でも、ほっと息を吐く妹の顔色は少しだけよくなった。聖女様もシャンタルに色々と話しかけてくれて、俺に向かっても「いつでも神殿にきてください」と言ってくれた。
「神殿は崩れてしまいましたが、宿舎は無事です。しばらくはそちらで祈りを捧げることになりそうですね」
寂し気に笑った聖女様を見て、陛下が小さなため息をこぼした。
確かに、気が遠くなるほどの惨状が目の前にある。
「復旧を急がせよう。今回の不祥事は、神殿の地位を限りなく落としただろうが、人間に信仰が必要なのは解っている。何とかせねばなるまい」
陛下はそう言うとすぐに踵を返し、ただ途方に暮れている聖騎士たちの方へ足を向けた。
「喫茶店に戻ります?」
俺がシャンタルを連れて神殿の外に出ようと歩き始めると、背後からアキラという少女が声をかけてきた。
彼女の周りには、今回、一緒に戦ってくれた面々が揃っている。サクラという背の高い男性、猫の獣人、魔物の仲間としか思えない、骸骨の身体を持った男。そして、人間なのか神の使いなのか解らない、ティールームの店長。
この国の王子殿下とその側近と思われる男性はこの場にはいない。陛下と一緒に神殿の中庭や建物を見回っているようだ。
他にも獣人がいたはずだが、もうすでに神殿の敷地内にはいない。
「俺たちも一度、帰ります。一緒に行きましょう」
アキラが続けてそう言って、そっと俺の腕の中を覗き込んできた。
俺が黙っているからだろう、どことなく重々しい雰囲気だった。
歩きながらロクサーヌが待っているだろう店を目指していると、フォルシウスの街の住人が次々と自分の家に帰っていく光景も見られた。誰もが近くを歩く人たちに声をかけ、口々に今夜の騒ぎのことを話している。
きっと、落ち着くまでは時間がかかるだろう。
でも、脅威は去った……のだろう。おそらくは。
「薬、調合出来たら試してください」
俺の隣を歩いていたアキラが、心配そうな声音で言う。彼女の視線はシャンタルに向けられたままで、その眉間にも皺が寄っている。
でも、ニヤリと笑って俺を見上げて続けた。
「これでも、ギルドの薬師さんより役に立ちますよ?」
――確かにそうだろう。
この子がいなければ、きっと……今夜の戦いもかなりの犠牲が出ただろうから。
「……頼む」
俺は改めてそう言った時、目の前から軽い足音が響いた。
「エリゼ!」
そう言って駆け寄ってきたのは、ティールームで待っていたはずのロクサーヌだ。彼女は俺の隣にいるアキラに気づくと、妙に怖気づいたように顔を顰めた後、すぐにほっとしたように微笑んだ。
「無事でよかった。大丈夫?」
「……ああ」
ティールームまでの遠くない道のり。
歩きながら、何があったのか簡単にロクサーヌに説明する。そして、俺が抱えている女性が妹のシャンタルだと知ると――そして、しばらくが療養が必要だと知ると苦し気に笑った。
何か言いたいことがあるらしいのに言えない、そんな空気をしばらく漂わせた後、彼女はこっそり俺たちの前を歩く面々に聞こえないよう、小声で言った。
「あなたと一緒に活動したいし、あなたの妹さんの看病とか手伝えたらいいな、って思うけど」
「いや、そんなことは手伝ってもらわなくても」
これは元々、俺の問題なのだ。それなのに、ギルドで活動する仲間に手伝わせるつもりはない。
俺は慌ててその言葉を遮ろうとしたが、ロクサーヌは俯いて首を横に振った。
「ううん、違うの。わたし、フォルシウスを出て行こうと思って」
「え?」
それはあまりにも予想外すぎて、俺は眉を顰めながらロクサーヌに視線を戻す。
「だからその前に、あなたに挨拶だけはしておきたかった」
「何故、いきなり?」
俺の声が大きかったのだろう、ロクサーヌが慌てたように俺の腕を掴んだ。そして、唇の前で人差し指を立てて苦笑した。
「ごめんね。わたし、ちょっと色々問題を起こしてて……ええと、夜逃げ? みたいな?」
「夜逃げ!?」
「いや、だから声が」
ロクサーヌが怯えたように肩を震わせるのを見て、俺は慌てて口を閉じた。
そこに、前方から声が飛んできた。
「俺たちのことを気にしてるなら、別にいいよ」
アキラが足をとめてこちらを振り返っている。そしてロクサーヌが俺の背後に逃げるように身を隠した。
そんなロクサーヌを見て、アキラは頭を掻きながら何か言葉を探していた。そして「あ」と手を叩いて笑う。
「ほら、エルゼはギルドで活動して金を稼がなきゃいけないだろ? 妹さんを看病する人間が必要だと思うし、その場合、女の子の方がいいじゃん」
確かに、そうだ。
俺がずっとシャンタルの傍についていられればいいんだが、そうはいかない。
だから、俺はロクサーヌの方を振り返って頼み込むことにした。夜逃げというからには、何かに追われているのかもしれない。でも、俺なら守ってやれると思う。
……ふと、何故こんなにロクサーヌのことが気になるのか、という疑問が芽生えたが。
それは考えるのは後回しにした。
ロクサーヌはしばらくアキラの方を見たまま固まっていたが、困惑したように首を傾げた。
「……いいの?」
彼女はそう不思議そうに言った後、俺を見上げた。「わたしにも手伝えることはある?」
「もちろん。むしろ、いてくれないと困る」
「そう」
そんな会話をしてから、俺たちはティールームの扉を開ける。
それからはしばらく、忙しい日々が始まった。フォルシウスの神殿の復旧も急速に進められ、街に平穏らしき空気が戻ってくるまで多少の時間はかかったけれども。
シャンタルが自分の足で歩けるようになり、言葉を発するようになるのは――俺が考えているよりもずっと早く。
アキラが新しく調合したという薬を持って、自慢げに笑いながら俺たちの前に姿を見せるのも、随分と早かったのだった。
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