第112話 こいつには未来がある

「うわ、何だ!?」

 俺がその腕を掴んだ瞬間、三峯が暗闇の中で我に返ったように叫んだのが解った。

「おい! 大丈夫か!?」

 そう俺が叫び返しながら、思い切り腕を引っ張る。すると、ぱきぱきと何かが砕けるような音も響いて、目の前に小さな光の爆発も起こる。

 その光は本当に一瞬だけで終わり、また俺の周りは暗闇に呑み込まれた。

「アキラか!? お前、どこに……」

 掴んでいたはずの三峯の手はいつの間にか離れてしまっている。だから、俺の近くには誰もいない。それなのに、三峯は俺の存在に気づいたようで声を上げたものの――。


 三峯の声が遠くなる。


「っていうか、さっきのは幻覚……?」

 そんな声を最後に、三峯の気配が消えた。

 消えたというより、どこかに――元の場所に戻った? この暗闇から抜け出せたんだろうか。

 僅かな不安はあるものの、何となく安堵しているのも間違いじゃない。


 そして、俺はもう一度歩きだそうとして、まだ別の気配があることにも気づかされる。


 ――ミカエルじゃないな、とぼんやりと考える。

 何だかよく解らないが、あの邪神とやらがここに閉じ込めたのは『殺せない存在』、つまりマチルダ・シティのユーザーだと思う。凛さんを攻撃して、殺せなかったのを理解したんだろう。だから、こういう手段に出た。


 ってことは、まだ感じる気配はジャックのものだろうか。


 俺は勘が告げるままに、暗闇を歩きだした。多分、こっちだ、と誰かが頭の中で囁く。

 そして、声が聞こえた。


「よかった、元気そうで」

 そう暗闇の中で響いたのは、聞き覚えのない男性の声だ。まだ若い感じで、多分俺と同年代だろうと思える気安さと――どこかぎこちない感じがあった。

「ああ、まだ運がよかった方なんだと思う」

 そう応えたのはジャックの声だ。明るくて、どこか飄々としているのにそれは上辺だけだと解る。

「入院中だってのにパソコンで遊んでんのかよ。ゲーム?」

「ああ、腕は動くから」

「そうか」


 入院中。病院。

 どうやら、ジャックがそうらしい。パソコンでゲーム、ということはマチルダ・シティ・オンラインか、と予想はつく。


「あの、これ、お見舞いなんだけど」

 そこに、新たな声も響いた。可愛らしい女の子の声だった。

「おー、ありがと。俺、プリン好きだ」

「うん、だと思って」

 女の子が少しだけ笑う。でもやっぱり、どこか――重苦しい空気が流れている。


「あー、でさ。お前を轢いた奴、見つかったん?」

 最初に聞こえた男の声が思い切ったように訊くと、ジャックが少しだけ言葉に詰まったように息を呑んだ。でも、苦笑しながら静かに応える。

「いや、まだ。警察が探してくれてると思う。ほら、日本の警察は優秀だからさ」

「ああ、だよな。さっさと捕まえてもらって、治療費をもらわなきゃ……だろ?」

「……ああ」

「その、さ。本当に、なのか」

「ん?」

「足……動かないのか。車椅子の生活になんのか?」

「あー、そうだな」

 ジャックが穏やかに笑っている気配が伝わる。でもそれは、誰が聞いても痛々しいものだったと思う。

「脊髄損傷って言われたから。リハビリでどこまで……って感じだろうけど、多分、奇跡でも起きない限りは難しいんじゃないかって思ってる。でも、下半身だけで済んでよかったんだ。運が悪ければ、こうやってパソコンも使えないし?」

 冗談めかした口調。

 でも、空回りしている感じ。


 ――脊髄損傷。下半身で済んで?

 俺はいつの間にか暗闇の中で歩みをとめ、彼らの会話に耳を澄ませていた。


「そうか。早く退院できればいいな」

 男はそう言って笑う。ジャックを気遣うような声音を演じている。そう、演技に似たものを感じる。


「あのね」

 そこで、女の子が思い切ったように口を開く。「これ、合鍵、返しておくから」


 ――合鍵?


「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。一番つらいのは、わたしじゃないって解ってるのに。こんな時に……本当にごめんなさい」

 その声は弱々しく、今にも泣きだしそうな声音に変わっていく。くすん、くすん、という鼻を鳴らす音も聞こえたけれど、どこか――これも演技じみていた。

「ごめん、こいつを責めないでやってくれ。こいつも苦しんでたんだ」

「……どういうことだよ」

 ジャックの声が少しずつ冷えていく。

「お前が事故にあって、こいつ、すごく落ち込んでて。お前の力になれそうにないって。自分が無力で厭になるって悩んでたんだ。で、俺はこいつをできるだけ力づけようと思って一緒にいてやって」


「浮気したのか」

「違っ……」

「やめろよ! 責めるなら俺の方だろ!?」

「俺が事故に遭って、傷ついたから? 誰が傷ついたって?」

「お前のことを心配してたんだよ! こいつ、本当に弱いやつだから! ずっと泣いてたんだ!」

「へー」

「何だよ、へー、って! お前、言い方ってもんがあるだろ!?」

「言い方? 言い方か? じゃあ、何て言えばいい? 新しい男に乗り換え完了、おめでとうってか?」

「おい!」

「ひどいよ……。わたし、本当に悩んで……」

 女の子のぐすぐすと鼻を鳴らす音が大きくなるけれど。

 やっぱり、どこか微妙な響きも同時にあったのだ。


「これから一生、歩けなくなるだろう俺よりも、その女の方が可哀そうだって言うんだな。そういう奴らだとは思わなかったよ。はいはい、おめでとう。好きにすれば?」

「おい!」

「やめて、わたしが悪いの!」


 それはわざとらしい修羅場の演出だった。テレビドラマでも見られないような、下手な演技の恋人同士の一幕。


「お前だって、こいつのことが好きだったんだろ? だったら、自由にしてやれよ! 可哀そうだと思わないのか!?」

「何が?」

「俺たちはまだ若いんだよ! お前が車椅子生活になったのは同情する。でも、それに巻き込まないでやってくれよ! お前の介護でこれからの人生を潰すとか、あり得ないだろ!? こいつには未来があるんだ!」

「介護させようなんて考えてない」

「考えていなくても、必然的にそうなるだろって言ってんだよ! どうせ、お前はもう歩けないんだ!」


 唐突に、俺は暗闇の中に手を伸ばした。

 もし手が届くなら、この男、ぶん殴ってやる!

 そう思ったのに、俺の手は空を切った。


「……解った、別れる。これでいいんだろ」

 ジャックがくぐもった声で言うと、あからさまにそれを聞いた男がほっとしたように「よかった」と息を吐く。

「ごめんなさい、わたし」

「いいから、もう帰れよ」

「そんな」

「もうくんなよ。もう昔の男である俺の顔なんて見たくないだろ?」

「そんな言い方、ひどい……」

「いいから、帰れ」


 俺は何とかジャックの腕を探そうと手を伸ばす。

 さっき、三峯の腕を掴んだみたいに、同じようにすればいい。


 暗闇が、さらに闇に呑み込まれていくような気がして不安だった。

 多分、完全に呑み込まれてしまったら駄目なんだと本能が教えてくれている。何とかジャックをこっちの世界に戻さないと。


「帰れよ、帰れよ」

 ジャックの声が壊れたレコードのように繰り返される。呪詛に似た響きがどんどん強くなる。


「何でだよ。何で俺だったんだ。どうして事故なんか。どうして」


「あいつには未来がある? じゃあ、俺には未来がないのか」


「歩けなくなったら終わりなのか。付き合う価値もないのか」


「どうして」


「お前ら」


「事故に遭ったのがお前らだったら。同じように言えんのかよ」


「お前らが死ねば」


 ぞわぞわとした感覚が足元に広がっていく。まるで、底なし沼のように、大きな口がそこに開いたような、ぞっとするような気配。

 駄目だ、ジャック。

 吞まれたら終わりだ。


「そう、死ねば」


 ――頑張れ、俺の幸運値。


 俺はやっとの思いで、暗闇の中、ジャックの冷え切った腕を掴んだ。三峯とは違って、何の反応もなかった。ただ、何の抵抗もなく俺に引きずられ、ぱきぱきと何かが割れる音がして、足元に広がっていた暗闇が薄くなった。


「ジャック」

 俺は言う。「あんな馬鹿な奴らの言葉なんか、忘れろ。因果応報ってやつ、きっとあるから。大丈夫だから。あんな奴らよりずっと、ジャックの方が幸せな未来があるって決まってる。絶対だ、絶対にそうなるべきなんだ」

「俺は」

 ジャックの声が茫洋と暗闇の中に広がった。

 相変わらず、辺りは暗い。

 でも、すぐに光が目の前で弾けて――その暗闇は光に駆逐されていった。

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