第105話 幕間24 ジョゼット

「不安だわ」

 そう眉根を寄せて唇を噛んだのは、わたしの従妹であり聖女の一人でもあるスザンヌでした。血がつながっているためか、彼女の顔立ちはわたしと少し似ています。波打つ金色の髪の毛は、わたしよりもずっと女性らしいと思います。それに、わたしより……胸が豊か。ちょっと悔しい。

「何が不安なの?」

 わたしがこんな風に気安く砕けた口調で話せるのも、彼女だけ。他にもこの神殿に聖女はいますが、やっぱり礼儀正しいことを求められてしまうので、交わす言葉もそれなりに控えめになってしまうというか。

「だって、ジョゼットは明日から浄化の旅でしょう?」

「そうね」

 そう頷きながら、わたしはそっと窓の外に目をやりました。ここはわたしの部屋で、質素なベッドと机と椅子だけがあります。わたしは椅子に座って、スザンヌはベッドに腰かけて肩を落としていました。

 スザンヌもわたしと同じように窓の外を見ると、すっかり暗闇に覆われて何も見えない裏庭を見つめることになります。

 そう、暗闇。

 フォルシウスの街の喧騒もその暗闇に呑まれてしまって、聞こえてくるのは虫の鳴き声くらい。


 それと、最近聞こえるようになった……何かの呻き声。


「また、聞こえるわよね」

「そうね」

 怯えたように肩を震わせるスザンヌに視線を戻し、わたしはそっと頷きます。すると、彼女は深いため息をこぼしました。

「聖騎士団のみんなも、一緒に行ってしまうのでしょう? そうしたら神殿の警備は手薄になるじゃない?」

「騎士様の全員が浄化の旅に行くわけじゃないわ。大丈夫よ」

「でも」

「……そうね」


 ――不安は消せないわよね。


 わたしも小さくため息をつくのです。


 わたしがこの神殿にきたのは、物心ついた時のことでした。フォルシウスよりもずっと遠い、小さな村で暮らしていたわたしたちを、若い神官様が迎えにきたのです。

 ――聖なる魔力を持つ、選ばれし子よ。

 そう、神官様はわたしに言って手を差し伸べました。


 その神官様いわく、聖女というのは血筋も関係しているんだとか。昔、この地に降り立った聖女様の血を受け継いだ人間で、聖なる魔力の強い者が選ばれるのだと聞きました。

 そしてどうやら、わたしの祖先にその血を受け継いだ人がいるらしく、従妹と一緒にこの神殿にやってきたのです。これから一生、神に身を捧げる者として。


 幼い頃は、この素晴らしい名誉に心を躍らせたものでした。この世界を救う選ばれた人間、そう思っていたから従妹と仲良く頑張ってきたつもりです。


 でも最近、悩むことも増えてきました。

 いえ、浄化の旅は素晴らしい任務だと解っています。この世界の穢れを払う、重要な仕事。自分の持てる魔力を余すことなく使い、この世界に平和をもたらす。大変ではありますが、それに不満を抱いたことなど一度もありません。


 それなのに。


 どうも最近、神殿の中の空気が昔と比べて違う気がしてならないのです。


「あの声は……神殿長様は『神様が苦しんでいる声なのだ』と言うけれど」

 スザンヌがとても小さな声でそう囁きました。

 いくらここがわたしの部屋だとはいえ、『神の家』の一部なのです。誰が聞いているのかわかりません。もしかしたら神様がわたしたちの会話に耳を澄ませていることだってあり得ます。神様を否定するようなことを言ってしまえば、神罰が下る可能性もあるのですから。

「神殿長様がおっしゃるのなら、そうなのでしょう」

 わたしはそう言いましたけれども。

 本当のところは、疑ってもいたのです。


 ――神殿長様は、何か隠している。


 あの苦痛の声がどこから聞こえてくるのか、何となく解っています。でも、聞こえないふり、何も気づかないふりをしていた方がいい。

 そう頭のどこかが告げているからこそ、疑いを声に出してはいけない。


「でも……気にならない?」

 スザンヌが少しだけ白くなった顔色で、泣きそうな表情で、そう言うものだから慌ててしまいました。つい、わたしは椅子から立ち上がり、彼女の横に腰を下ろします。肩が触れ合うと、わたしが思っていた以上に彼女の震えが伝わってきました。

 だから、そっとその肩を抱き寄せます。

「大丈夫よ、きっと」

 そうわたしは彼女の耳元で囁きますが、スザンヌは俯いて首を横に振りました。

「また、巫女の一人が消えたらしいのよ」

「スージー」

 幼い頃によく使っていた愛称を呼ぶと、喜ぶことをわたしは知っていました。もちろん、その呼び方は行儀が悪いと言われているから神官様たちの前で使うのは駄目だけれど。

 でも。

 いつもだったら愛称で呼ぶと微笑んでくれるのに、今は違う。

 彼女はさらに小さな声で続けました。

「……逃げたいって思うこと、ない? わたし、何となく思うの。とても危険なことが近づいてきてるって」


 ――思います。


 駄目だと解っていても、ここから逃げ出したいと思うことが。

 今のわたしたちには絶対に敵わないであろう脅威が近づいてきていることが、解ってしまう。

 そしてそれは、神殿の中にある。


「いなくなった巫女たちはどこに行ったのかしら。神官様たちも、他の巫女たちも何も言わないけど、きっと」

「スージー」

「あの地下に」


 わたしが慌てて彼女の白い手を握った瞬間でした。

 また、遠くから悲鳴が聞こえてきました。か細くて、そして苦痛に満ちた声。

 他の聖女たちは『きっと街から聞こえてきているのよ』なんて言いますが、彼女たちだって疑っているはずなのです。そんな遠くから聞こえてなどいないことを。


「……たまに、あの声に呼ばれている気がするの」

 スザンヌは窓の外を怯えたように見ながら言います。「もしかしたら、消えた巫女たちって『呼ばれた』んじゃないかしら」

「待って」

「もしかしたら、わたしだって」

「待って、待って」

 わたしは思わず、彼女の肩に回していた腕を放し、スザンヌの前に移動しました。床に膝をついて、しっかりして、と彼女の肩をゆすります。それなのに、どこか彼女の目の焦点が合っていないものだから不安になりました。


 どうしようか。

 わたしは一瞬だけ悩んだ後、彼女を下から見上げて言うのです。

「ねえ、明日の浄化の旅、スージーが行く?」

「え?」

「ごめんね、急にこんなことを言って。でも、スージーはあの声を聞いて不安になってるのは間違いないと思うの。だから、一度神殿から離れた方が気分転換になるんじゃないかしら。もちろん、聖魔力を大幅に使うからスージーは大変だと思うわよ? 旅の間は馬車の移動だし、まともに休める時間もなくなるって聞くけど、それでも……ここにいるよりいいかもしれない」

「浄化の旅……わたしが?」

「そう。どうかしら」


 わたしがそう言って微笑むと、ゆっくりと彼女の目に輝きが戻ってきました。それを見てしまうと、わたしの提案が間違っていないことに気づかされます。

 スザンヌはわたしより一歳年上ですが、とても繊細な女の子です。優しくて、そして怖がり。こんな状態の彼女を神殿に残していったら、わたしはきっと旅の間中、ずっと不安になるでしょう。

 それくらいだったら、彼女に変わってもらう。

 旅の間は聖騎士様たちが彼女を守ってくれるはずだから、危険などないはず。


「でも、大丈夫かしら。急にこんなこと」

 スーザンは少しだけ期待に満ちた目で、でも罪悪感に揺れる輝きをそこに浮かべて言いました。だから、わたしは彼女を安心させるために頷きます。

「大丈夫よ。わたしが体調不良で動けない、とか、そのせいで聖魔力が不安定、とか言っておけば、神官様たちも納得するでしょう?」

「そう、そうよね?」

 やっとそこで微笑んで見せた彼女でしたが――。


 また、遠くから聞こえてくる悲鳴。


 そして、スザンヌが身体を強張らせて窓の外を見つめました。でもその横顔は、笑みがすっかり消えた上に、どこか茫洋としたものが浮かんでいました。

「……やっぱり、呼ばれてる気がするわ」

 ふらりと立ち上がった彼女は、わたしの部屋から出て行こうとするのです。もうすぐ、消灯の時間。他の聖女たちも、神官様や巫女たちも、眠りにつく時間です。

 だから、廊下に出るとそこにも暗闇が広がる時間帯。


「待って」

 わたしは彼女の腕を掴んで引き留めました。

 それなのに、怖がりでいつもだったらベッドに潜り込んで出てこなくなるだろう彼女は――わたしの手を振り払って、ふらふらと廊下を歩いていきます。


 そう、『あの』階段の方へ。

 神殿長様と、限られた人間しか足を踏み入れてはいけないと言われている、地下の方へ。


 駄目だ。

 ここで引き留めることができなかったら、きっと彼女は消えてしまう。

 行方不明になってしまう。

 そう、他の巫女たちのように。


 だから、わたしは彼女のことを力の限り背後から抱きしめました。

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