聖女になりたくない貴女と私

小声早田

第1話

暑さも落ち着き、秋の色が濃くなってきたある日のうららかな昼下がり……

 私はアスファルトが敷かれた歩道を全力疾走していた。


「先方との約束に遅れるぞ! 走れ、今西!」

「もう走ってます!」


 前を走る上司を恨めしい気持ちで追いかける。

 足には自信があるけれど、こちらは大量の資料を持たされているのだ。

 入社して六年、それなりに実力も自信もついたと自負しているが、前を行く上司は、入社時の教育係りだったこともあってか、いつまでたっても頭があがらない。

 シングルマザーで青い目の子供を女手一つで育てている。出会った時から肝っ玉の太い人だった。

 いつだったか……、酒の席で部長が、子供の父親についてなどというデリカシーの欠片もない質問をしたときだって、冗談で受け流していたっけ。

 鋼鉄の女。そう噂される上司を私は密かに尊敬している。


「全力で走れ!」

「とっくに全力です!」

「遅い! もっとはやく!」


 ごくたまに、無茶振りを要求される点以外は……


 それは突然だった。

 視界が歪み、前を走る上司の背中が霞む。かと思えばアルファルトを踏みしめたはずの足の裏から、妙に頼りない感触が返ってきた。まるでスポンジの上にでも着地したかのようだ。

 ああ、目眩か。そういえば最近寝不足だった。そう理解した体から力が抜け、転倒すると覚悟した。ところが、唐突に意識がクリアになった。

 力が戻り、意識がはっきりする。


(助かった……え?)


 下を向いた目に入るのは当然見慣れたアスファルト。……のはずだったのに、目に飛び込んできたのは見慣れぬ石の床。さらにはその上に走るいく筋もの白い光。

「なんだこれ……」と呟きながら顔をあげると、目の前には古めかしい衣装に身を包んだ人々がずらりと並んでいた。

 時期を失したハロウィン会場にでも紛れ込んでしまった、と思うには余りにも彼らの出で立ちは手が込んでいた。ローブを羽織った白髪の老人が持った杖はやたら年季が入っているし、体格の良い騎士風の男が腰に下げた剣はいかにも使い込まれている。


(これ、あれだ。異世界召喚とかいうやつだ)


 すぐさまそうぴんとくるくらいには、その手の物語が好きだった。

 本当にあるんだ。すごー。へー。まじでー…………まじで!?

 一瞬感心しかけたが、すぐさま混乱に支配された。


(なにこれ、なにこれ、なんだこれ!? 魔王を倒せとか、魔王になれとか、役立たず扱いされて捨てられるとか、ひたすら死んでやりなおすとか、やれっての? ってか私の荷物どこいった?)


 両手いっぱいに抱えていた資料がない。

 呆然と眼前の人々を眺める。

 眼前の人々もなぜか、呆気にとられた様子でこちらを見つめていた。

 そんな彼らの中央に立つ、黒髪に碧眼で豪奢な服を着たいかにも王子様な風貌の青年が指差してぽつりと呟く。


「せ、聖女……が……二人?」


(聖女? そっち系か! これ、あれだ。巻き込まれ召喚ってやつだ)


 瞬時にそうぴんとくるくらいには、その手のサイトを見ていた。

 しかも確実に巻き込まれた方である。

 こちとらしがないアラサーである。夢も希望も節度を守れる。

 きっと隣に、くっそかわいい女子高生がいるんだ。そう半ば確信して、視線を目の前の人々からずらして隣に向けた。

 石の床にしゃがみこんだ人物が着ていたのは、黒いスーツ。肌色のストッキングは無残に穴があき引き攣れている。


「えーっと、聖女?」


 思わずそう尋ねてしまったのは、隣にいたのが女子高生ではなくて、疲れた顔の社会人だったから……


「え?」


 私がいることに気付いていなかったのだろう。

 びくりと肩を揺らして此方をみた女性は私を見て目を見張る。


「こちらの方々が聖女を召喚したそうなんですが……」

「い、やいやいやいや違います! 私そんなんじゃありません」


 間髪入れずに返ってきた答えは、思いの外力強かった。

 聖女ってなんですか? ではなく、この答え。同好の士だと悟った瞬間である。

 きっぱりと否定した女性はしかしすぐに、思案顔になった。


「い、いや、えっと、たぶん、違う……と思います。いきなりで何が何だが。えっと、違うとは思うんですけど、正直わかりかねます。はい、今の時点では判別できかねます」


 顎に手をやり、ぶつぶつと随分曖昧に言葉をつなげると、立ち上がり王子らしき人物に向き直る。


「あああああのですね! ひとまず、いくつか確認したいのですが、よろしいでしょうか?」


 混乱からか女性の声は震えに震えていた。


「あ、ああ。もちろんだとも」


 王子らしき人物が若干気圧され気味に頷く。


「あ、あなた方は聖女と呼ばれる人物に用があって召喚をおこなった?」

「そうだ。今この国は危機に瀕している」

「し、しかし我々二人が現れてしまい、どちらが本物かわからない?」

「その通り。これまで召喚に応じてこの世界に参られた聖女は様々だった。体格、目の色、文化も多種多様。我々の常識からかけ離れた聖女もいた。だがどの聖女も深い慈悲の心と素晴らしい力で我々を救ってくれた。ああ、名乗りが遅れて申し訳ない。私はコレストロ国62代君主シュクリム。貴女の名を伺っても?」


 気圧され気味だった王子らしき人物……もとい王様は見事に立て直し、紳士的な笑みを浮かべる。若くてもさすがは一国の君主といったところだろうか。

 混乱の極地にありながらも気丈に質問を繰り返していた女性が、口を閉じて私を見た。

 ――名乗っても大丈夫だと思う?

 視線の意味をそうとらえて、私は頷いて立ち上がる。

 名前で縛られたり、名前を取られて湯場で働かされたり、なんてことを危惧したのだろう。

 私は懐に手を入れると名刺ケースを取り出し、素早く一枚抜いてシュクリム王に差し出した。


「ご丁寧にありがとうございます。私、第二営業部、イマイと申します。こちら私の身分を証明するものになっております。世界が危機に瀕しておられるとのこと、さぞかしお辛い状況にあられるのでしょう」

「イマ…イ……嬢? これが身分を……。なるほど」


 王子は鷹揚にうなずいて名刺を受け取る。


「ふむ、描かれているのはあなた方の世界の文字か?」

「さすがご慧眼。あ、貴女にも一枚、どうぞお受け取りください」


 そう言って隣の女性にも名刺を差し出す。

 彼女が眉を寄せたのは一瞬だった。すぐに意図を理解してくれたようだ。


「わ、わた、私はシステム課。ヤシマです。ふつつか者ですがよろしくお願いいたします!」


 大声で名乗り頭を下げる。何故か私に向かって。しかもなんだふつつか者って……


「……ええ、よろしくお願いします」


 ヤシマさんは私が想像しているよりも遥かに混乱の渦中にあるらしい。


「ヤシマ嬢」


 シュクリム王は自身の存在をアピールするように、ヤシマさんに声をかけた。苦笑気味だが気を悪くした様子はない。案外いいやつなのかもしれないと期待が生まれる。


「そしてイマイ嬢。このような事態は初めてだが、あなた方のうちどちらかが、我が国を救う聖女であることは間違いない。しかし……」


 シュクリム王は笑みを浮かべて言った。


「まずは、場所を変えようか。この先の話は暖かい部屋でお茶でも飲みながらにしよう」



 王の宣言によって、速やかに移動にうつる。

 シュクリム王を先頭に、杖を持った白ひげの老人、ブラウンの髪の腹のでた中年の男。それから私たちと続く。脇を固めるのは金髪の兵士が三人と銀髪の兵士が二人。

 どうやら先ほどの場所は地下にあったらしい。長い階段を上がり、平坦な廊下にでる。

 日本は昼すぎだったが、こちらでは夜だった。吹きさらしの廊下を月明かりが照らしなんとも幻想的な光景だ。遠くにはいくつも篝火が見える。

 薄い月明かりと篝火の明かりだけでは、はっきりと見えないが、かなり大きな規模の城壁内であることはわかった。


「それほど、困窮してない?」


 ぼそっと隣から呟き声が聞こえた。


「みたいですね」


 小さな声で返答すると、ヤシマさんは「あ……」と自分の口元を抑えた。声に出した自覚がなかったようだ。


「すすすすみません」


 なぜあやまる。


「いえ、余裕があるのなら、いいことですよね。きっと」


 食事と清潔な寝床は是非とも確保したい。


「そ……うでしょうか。やっ、あの、あのですね、余裕があるのなら自分たちでなんとかしようと思うんですよ。未知数な異世界人に頼るのってリスク管理が難しいんじゃないかなと。ほ、ほら、今までの聖女は文化も多種多様だって言ってましたよね。異なる価値観が入れば余計な軋轢を招きかねないし。なんというか、シュクリム王はわりと常識的ぽい? あ、この常識というのは私の感覚でなわけなんですけど、でも、やっぱり王様だし、異世界だし、召喚なんてしちゃうし、んー、でも私が王なら余裕があるうちに手を打つ? かな。いやでも」


 考えを口にしているうちに思考がこんがらがっていったのだろう様子が分かりすぎるほど分かる。


「ヤシマさん」


 少々強めに名を呼ぶ。


「落ち着いて」

「す、すすすみません」


 諭すように言えば、ヤシマさんは恥ずかしそうに目を伏せた。


「あの……なんというか、違う目的があったりなんかしたらいやだな、と思いまして……」

「違う目的、ですか?」

「たぶん、考えすぎだとは思うのですが……ただ……髪が……や、やっぱり、なんでもないです」


(髪?)


 彼女の髪は肩で切りそろえられている。ところどころ跳ねており、お世辞にも綺麗にセットされているとは言い難い。

 私の髪は先日切ったばかり。思っていたより、短かくなってしまった髪をひっぱる。ごく普通だ。

 首を捻って考えてみるがさっぱりわからない。

 正直、かなり気になったが質さなかった。他の人に聞かれるのは得策ではないだろう。たとえ彼女の考えすぎだとしても。

 吹きさらしの廊下から、屋内に入り、階段を上がりまた長い廊下を歩く。それからまた階段……を繰り返し、4階の一室に案内された。

 落ち着いた色合いの調度品でまとめられている。暖炉に火は入っていないが、十分に暖かい。

 中央に置かれた重厚感のある机を挟んで右手にシュクリム王と中年の男が。左手にヤシマさんと私が着席する。扉の前には金髪の兵士が二人。白ひげの老人はいつのまにか姿を消していた。

 到着が知らされていたのか、すぐにお茶が運ばれてきた。

 シュクリム王はどうぞ、と促すと自身もお茶を口に含む。

 ヤシマさんと私はどちからからともなく頷きあって、シュクリム王にならった。


「さて、どこから話したものか……」


 茶器を置き、シュクリム王は口を開く。


「まずは手短に要点を」

「さ、最初からお願いします」


 前者が私、後者がヤシマさんだ。「すみませんすみません」となぜか謝るヤシマさんに、また「落ち着いて」と声をかける。


「あいわかった。最初から手短に要点を話そう」


 そんな私たちを見て、くっくっと笑ったシュクリム王曰く−−


「現在この世界が抱えている問題は、自然生成され大気に満ちる魔力とかいう力の過剰供給であり、聖女はそれを中和することができる。また聖女はこの世界に存在するだけで用をなす。しかし民心を健やかなるものにするために、週に一度、衆目のもと神事を執り行う。またお披露目や、各種儀式、政事などの用件でも出席が求められる場合もある。中和は150日〜350日程度で終わり、聖女は元の世界に帰ることができる。これらはおよそ12年周期で行われてきたものである、と」


 シュクリム王の話には召喚にまつわる神話やらなにやら壮大なストーリーが絡んでいたが、必要性を感じなかったので省いた。ちなみに文字が違うのに、言葉が通じるのは神のご加護だそうだ。


「そのとおりだイマイ嬢。我々は聖女を神の御使と思っている。安楽の時を過ごせるよう尽力しよう」


(その御使に、あんたはタメ口だけどね)


「あ……の、聖女じゃなかったほうはどうなるんですか? すぐに帰してもらえるとか?」


 ヤシマさんがおずおずと手を上げて発言する。


「実のところ私たちに聖女を見分けるすべはない。ゆえにすぐにどちらかを帰すことはできない」


 だが、と王は言葉を続ける。


「聖女はこの世界に体が馴染むと、大気中の魔力を視認できるようになる。さすれば聖女自身は己がそうであると自認するだろう」

「つ、つつつまり聖女……がどちらかはっきりすれば、帰していただける……と」


 ちらり、とヤシマさんが私を見る。その瞳は色々な感情に塗れて見えた。罪悪感や懇願、期待、羨望、そんなものが混じった色だと気付いたのは、私が彼女に同じ気持ちを抱いたからかもしれない。


「そうだ。帰りたいと願うあなた方の気持ちはよくわかる。しかし先ほども言ったように我々は聖女を神の御使として大切に扱ってきた。この世界を愛し残った聖女もいる。どうか我々を救ってほしい」


 そう言う王に、私もヤシマさんも何も返すことができなかった。

 室内に沈黙が落ちる。

 そう言えば、王様の隣にいる男、一言も喋らないな……と思いお茶を飲むふりをして様子を伺って気付いた。彼がじっと観察するような目を私たちに向けていることに。

 その鋭い眼光にぞっとした。

 なぜだか、急にヤシマさんがさっき言いかけたことが気になりだす。


「あ、の、だ、大事なお話の途中に申し訳ありませんが、休ませていただけないでしょうか。少し疲れてしまって」


 どうにかしてヤシマさんと二人きりになれないだろうか。そう考えていると、ヤシマさんがため息とともにそう言った。

 演技ではなく本当に辛そうだ。


「ああ、そうだった。召喚には倦怠感を伴うことがあると聞いている。お疲れだろう。ゆっくりやすむとよい。それぞれ部屋に案内させよう」

「待ってください!」


 立ち上がりかけた王をヤシマさんが引き止める。

 その声があまりに必死なのに驚いた。


「わ、私たちを同室にしてはいだだけませんか。きゅ、急にこんなことになって、お、落ち着かなくて。私はソファでも床でもどこでも眠れますので! 本当です。慣れてますから!」


 次は色んな意味で驚いた……

 ヤシマさん、勤め先超ブラックじゃない?

 シュクリム王が私を見る。


「私は構いませんが……」

「ではそのように手配しよう」



 こうして私たちは同室で過ごすことになった。

 案内されたのは二階の一室。中に入って、まずその豪華さに二人揃ってぽかんと口をあける。

 華美すぎにならないギリギリの範囲に煌びやかな調度品の数々。興味のない私でも思わず溜息が漏れる。好きな人にはたまらないだろう。

 入ってすぐは応接間のような居間のような、ソファーと机が置かれた部屋。続き扉の向こうには馬鹿でかいベッドが鎮座する寝室。さらにその奥には私の日本の部屋よりも大きい湯殿がある。

 寝室に備え付けられたクローゼットの中にはシルクのような素材のゆったりとしたデザインの服がずらりと並んでいた。まったく同じ服がずらりである。ただし大きさが違う。大きいものではゆうに丈も身幅も2メートルを超え、反対に小さなものの丈は100センチちょっとしかない。

 寝巻きらしく、お好きなものをどうぞ、と言われ、手頃なサイズを手に取った。

 部屋のひと通りの説明を終えると、就寝前のお茶を用意するとかで侍女っぽい女性たちが姿を消す。


「わ、わた、わたし、床で寝ますから!」


 二人きになるなり、ヤシマさんはそう高らかに宣言した。


「いや、何言ってるんですか。私が向こうのソファで寝ますよ」

「そそそんなわけにはいきません」

「いきませんっていわれても、こっちだって、はいどうぞとは言えませんよ」


 ムキになるヤシマさんの顔色はさっきよりも悪い。そんな状態の彼女を床で寝かせて自分はベッドで熟睡できるほどいい性格はしていないつもりだ。

「でも」「しかし」「だって」と延々と続きそうな押し問答にうんざりした私は投げやりに言った。


「もう、二人でベッドを使いませんか。この広さですから大丈夫でしょう」

「イマイさんがよろしければ!」


 ……もう何も言うまい。

 交代で風呂に入り、運ばれてきた香草茶を飲んでベッドに入るころには、ヤシマさんは半分夢の世界の住人になっていた。

 目を擦りながら重たそうに瞼を押し上げている。


「す、すすみません。同じ部屋にしていただいて。どうしても、ふ、二人で話がしたくてですね……」

「いえいえ、私も二人きりで話したいと思っていましたので」


 そう言うとヤシマさんはほっとした表情をみせる。


「ど、どこまでこの世界の人の言うことを、信じていいと思われますか?」

「どこまで、と言うと、聖女の力のことや、150日から350日で帰してもらえるって点ですか?」

「そ、うです」


 ヤシマさんは頷く。

 それから言いづらそうに顔を伏せた。


「あ、あと……聖女じゃないほうがどうなるか……も」


 ハッとした。利用価値のある聖女と違い、巻き込まれたほうは用無しである。こっそり始末されかねないのではないかと危惧していたのか。


「……本当に……帰して…くれるんでしょうか」


 あ、体が前後に揺れてる。もう限界かもしれない。

 寝かせてあげたい。がどうしても彼女が言いかけていたことと、中年の男の視線が気になっていた私は、ヤシマさんの細い肩を揺すった。


「ヤシマさん、髪の話なんですが」

「かみ?」

「違う目的があったら嫌だって言っていたでしょう? あれはどういう意味なんですか?」

「ああ、それは……兵士の方達は明るい髪色だったのに……王様たちの髪の色は暗いなって……」


 言われて思い返す。

 確かに兵士の髪は金や銀で、王は黒髪、中年の男は茶色い髪色だった。


「それが?」

「くらい……いろ……どこから……」


 それだけ言って力尽きたヤシマさんに掛け布団をかけながら、私は背筋に冷たいものが走るのを自覚した。


『体格、目の色、文化も多種多様』


 そうシュクリム王が言ったとき、妙な物言いをするなと思ったのだ。


「……当分、同室のほうがよさそう」


 誰に言うともなく呟くと、ベッドの端で横になった。



 疲れていたのか、驚くほど熟睡した。

 おかげで翌朝の目覚めはすっきりだ。

 ヤシマさんは既に起きて、着替えも済ませていた。白と黒の衣装は修道女を連想させる。


「お、おはようございます。あの、イマイさん、これ着替えだそうです」


 そう言って手渡されたのは、予想通りヤシマさんと同じ白と黒の服だった。

 ものすごく着たくないが、しかたない。しぶしぶ袖を通す。

 一流ホテルと比べても遜色のない朝食をとり終えたころ、シュクリム王が姿を見せた。


「おはよう。気分はどうかな? ああ、昨日より余程いい」


 シュクリム王の言葉通り、ヤシマさんの顔色は改善していた。目の下にあった隈も薄くなっている。

 私はヤシマさんを背に隠すように一歩前に出た。彼女の鋭さには驚かされる。が交渉には向かないだろう。


「おはようございます、シュクリム王。おかげさまで昨晩は十分な睡眠をとることができました。聖女が二人、という変則的な事態にもかかわらず、厚遇していただき感謝しております」


 私は一歩前に踏み出すと、ひたすら下手にでる。見ろ、営業で培ったこの笑顔を。


「昨晩、どちらが聖女だとしても、皆様のお力になれればこれほど嬉しいことはないと二人で話し合いまして。しかし、この度の召喚はあまりに急な事態で私どもといたしましても、些か困惑しております。それにまだ、どちらが聖女とも分かりませんから、儀式などへの参加もできません。そこで、まず、この世界のことを学ぶ機会をいただきいと思っております。城下の拝見など、させていただければ……」


 鳥かごの城内にいるよりは、この世界のことや、為政者の人柄なりが分かるだろう。

 シュクリム王は目を細めた。


「なるほど」


 じんわりと手に汗がにじむ。


「二人の心意気、ありがたく思う。こちらの世界を知ってもらうことは私とて歓迎だ。だが、城下にでるのは明日でもよいだろう。それよりも、今日は二人に見てもらいたいものがある。ついて来るがいい」


 シュクリム王に連れてこられたのは、いくつかある尖塔のうちの一つ。

 狭い螺旋階段を上ったさきは書庫だった。

 収められているのは、分厚い表紙のついた本に、紙片に、巻物と様々だ。

 全ての木戸が開け放たれ、室内は明るい。しかし普段は締め切られているのだろう。かすかにカビの匂いがする。


「定期的に陰干しをしているのだがな。傷み具合がひどいものもあって、あまり陽に当てられん」


 シュクリム王は色あせた冊子を撫でる。その仕草はひどく丁寧だ。


「これらは?」


 まるで一貫性のない書物たち。様式が違えば、書かれている文字も明らかに違う。


「歴代の聖女の手記だ。なんと書いてあるかは私にはわからん。二人が読めるものがあるかもわからん。だが、見てみたいだろうと思ってな。あちらの端が初代聖女のもの。こちらが最近のものだ」


 貴重なものゆえ、扱いには気をつけるように。と言って王は政務に戻った。


「イマイさん……」

「ええ、ヤシマさん」


 真っ先に目についた見覚えのある文字の数々。

 王が最近のものだと言った近辺の本の背表紙には日本語が圧倒的に多かった。

 反対に崩れかけで触るのもはばかられるような古いものに、日本語はない。どころか、私の分かる範囲でになるが、知っている文字がない。クローゼットの中に2メートル四方もある服を見たとき、まさかとは思ったが、地球以外からも召喚された者もいるらしい。どうりで。


「最近のものから手分けして読んでいきましょうか」


 そう言うと、ヤシマさんは頷いて手記を手に取った。



(これ……ヤシマさんに見せられないぞ……)


 そう思うほどに、一冊目から内容がヘビーだった。

 書き手はまだ20歳の大学生。突然の召喚への困惑と、郷愁の念から始まり、聖女として全うする決意に続く。ここまではいい。酷いのはその先だ。

 召喚から30日ほどたち、生活に慣れてきた頃、彼女を幾人もの男が取り巻くようになる。競うように届けられる贈り物の数々、心のない愛の言葉、ストーカー紛いの行為。ついには襲われかけた。幸い通りかかった貴族の男に助けられた。と思った先がまたえげつない。心の傷をいたわるように優しく接したその男は、襲った男とぐるだったらしい。以来、彼女は完全に心を閉ざして帰還の日を指折り数えて待つことになる。日付は召喚されてから176日目で終わっていた。


(ヤシマさんの考えが完全に当たっている)


 私の推察ではヤシマさんは明らかに男慣れしていない。これをこのまま見せていいものか。いや、今彼女が読んでいるのがこれより酷い内容だったら……

 慌ててヤシマさんを見る。と、手に持った手記に目を落としながら赤面していた。

 青くなるなら分かるが、赤面である。


「あの、何が書いてあるんですか?」


 ヤシマさんはびくりと肩を揺らすと、勢いよく本を閉じた。


「は? え? 内容ですが、そそ、それは」


 顔がどんどん赤くなる。


「読んでも?」


 手を出すと、「ど、どどどうぞ」と渡される。



「これは……」


 そう思わず口にだしてしまうほど、内容がヘビーだった。ある意味で。

 書き手の年齢こそ書かれていないが、まだ若いだろうことがわかる。

 突然の召喚への困惑と怒りから始まり、仕方がないから聖女になるか、という開き直りともとれる決意に続く。ここまではまだいい。やばいのはその先だ。

 召喚から10日ほどたった頃、彼女を幾人もの男が取り巻くようになる。競うように届けられる贈り物の数々、上っ面の愛の言葉、しつこい求愛行動。それらに、ついに彼女はキレた。曰く


『なってない! 全然なってない! 私の好みはおきれいな顔のなよなよした男じゃない! ガチムチのマッチョを侍らせんかい!』


 この時点で目眩を覚えた。が、この先がまたえげつない。

 彼女はマッチョ好きを堂々と公言し、送り込まれた好みの男たちと酒池肉林な日々を送る。それは好きにすればいいと思うけど、細かいプレーの内容書く必要ある? 

 そんな肉食な彼女の手記は召喚から211日目で終わっている。ちなみに最後の日は『明日から現実に戻るよ。ああ、満足』という言葉で締めくくられている。



「……他のも読んでみましょうか」


 本を棚に戻すと、そう提案した。

 その日、私たちは食事もそこそこに一日中手記を読みふけった。

 召喚される聖女は、同じ日本人だけをみても様々。

 泣きくらすもの、謳歌するもの、食事内容のみを記したもの、なぜか兵士同士の恋愛を観察した記録まである。

 特筆すべきは、シュクリム王の言うように、この世界に残った人間もいる点だろうか。たとえば3代前の聖女。彼女は14歳で召喚されている。不幸な生い立ちで虐げられて育ったらしく、この世界で初めて幸せを知ったらしい。


「その時々の為政者と国のカラー、それと召喚された人間の気質次第って感じですねえ」


 日本語で記されたおおよそ全ての手記を読み終わって、私はため息をついた。なんだか疲れた。

 最初に読んだ手記は悲惨だった。

 が、その他の聖女は概ね大切に扱われている。ただし、どの聖女のもとにも不自然な男の影がある。過去には穏やかに愛を育んだらしき心情が書かれたものもいくつかあった。

 聖女を取り込み、この世界に留まらせあわよくば子を儲ける。それが彼らの思惑である、そう読み取らせるには十分だ。

 少なくともシュクリム王は聖女の血を引いていると考えるべきだろう。彼が大切そうに指でなぞった書物は3代前の聖女が書いたものだった。


「役目を終え帰還を決めた聖女は……無事に日本に戻れたんでしょうか」


 ふいにヤシマさんがそう呟いた。

 全ての聖女の記録は150日から350日以内に終わっている。シュクリム王の言った通りではあるが……

 懐柔に失敗し、帰還を選んだ聖女を無事に帰したという証拠にはならない。

 よしんば帰還の儀式を行っていたとしても、無事に日本にたどり着けたかどうか、この世界の人間に知るすべはないのではないだろうか。


「それはそうと、ヤシマさん。一応お尋ねしておきたいのですが、酒池肉林……お好きですか?」


 逞しい先代の聖女の手記を手にとってぱらぱらとページをめくる。この世界で女王様プレイしたの、彼女が初なんじゃない?

 さっとヤシマさんの顔から血の気がひいた。


「む、むむ無理です!」


 だろうな。

 自分が聖女だとかたってこの世界に一人で残されるのは嫌だし、かといってヤシマさんを置いて帰るのも……

 第一に、無事に帰れるかわからない。

 ああ、でも、350日も行方不明扱いになるのもきつい。帰れる確証さえあれば……

 堂々巡りを繰り返し、非情な考えに気持ちが動きかけたとき、裏表紙の隅に書かれた名前が目に入った。


『磯部桜子』


 ――古風な名前ですね。

 そう言ったのは私だったか、隣にいたやつだったか。


「あ、あの、い、イマイさん? どうしたんですか?」


 思わず、動きを止めて名に見入っていた。

 なんでもないですよ。と私はヤシマさんに笑いかけた。

 さっきよりも少し非情な考えに心が傾いていた。



 とろとろの卵に、ローストされた薄切りの肉、透き通ったスープ、香ばしい焼きたてのパン。

 翌日の朝食も絶品だった。日々のメニューを書き記した聖女の気持ちが分かる。


「いい朝だな」


 シュクリム王と三度目に顔を合わせたのは豪華な食事をとりおわったあと。茶色い髪の中年男を伴っている。


「昨日はありがとうございます。大変興味深く手記を読ませていただきました」

「それは良かった。希望は城下の見学だったな。好きに見て回るといい。万一のために兵を同伴してもらわねばならんがな。それと、この者は此度の聖女の世話役に決まった。ミルーフィ公爵ボリックだ。奇特にも激務の中、城下の案内役を買ってでた。連れて行くといい」


 なんとなくシュクリム王の考えが読めてきた気がする。

 思った通りの人物なら……

 私はシュクリム王に礼を述べているヤシマさんから目をそらした。



「ひいいいぃいいい」


 後方からヤシマさんの悲鳴が聞こえる。

 私も叫びたい。唇を噛み締めて耐えているのは意地があるからだ。

 城下まで距離があるというから、馬車てきなものが用意されると思ったのに、まさかの天馬!

 垂直方向に距離があるだなんて思わなかった。

 窓から見える景色ではわからなかったが、城は切り立った崖の上の、広い地に立っていたのだ。


「お静かに舌を噛みます!」


 これはヤシマさんを背後から抱えるようにして同乗している兵士の声。


「イマイ様、力を抜いて体をまかせて下さって大丈夫ですよ」


 私の後ろに乗っている兵が手綱を握りながら言う。


「お気遣い、ありがとうございます。高いところはけっこう好きなんですよ。馬も」


 嘘だ。絶叫マシンも観覧車も大嫌いだ。けど後ろの兵士にもたれるなんてできない。

 優雅なイラストを見て憧れていたかつての自分に言いたい。天馬は翼を動かすたびに上下にも左右にも揺れる最悪な乗り物だと。景色を楽しむ余裕なんて欠片もない。

 街から少し離れた街道に降り立った時には、心のそこからホッとした。と同時に帰りもこれに乗らなければいけないのだと思ってうんざりした。

 笑いそうになる膝を叱咤してなんとか地に足をつけて立つ。

 ヤシマさんは、と見れば、同乗していた兵士に抱きかかえられて、目を白黒させていた。

 よかった。嬉しそうに頬を染めていたら、明日からヤシマさんのまわりは兵士の如くガタイのいい男だらけになるに違いない。



 ヤシマさんが落ち着くのを待って、街に入った。

 目抜き通りには石がひかれ、多層建ての建築物が並んでいた。

 道ゆく人々の顔は明るく活気があり、軒を連ねる商店の品物は充実している。

 けれど全ての通りがこうではないのだろう。大通りを外れようとしたらボリックにさりげなく邪魔されるのだ。

「あそこの菓子は絶品ですよ」「この先に美しい噴水がありましてな。ご案内しましょう」といった具合だ。

 街の人と話そうにも、皆、兵士とボリックと、私たちの髪を見て驚いた顔をするのだ。これでは正直な話はきけまい。

 通りをいくらか進んだ頃だった。


「あ、ああのボリックさん、私あれ! あそこで売ってる飲み物が飲みたいです。買いに行きましょう。あ、ああ、あとあっちからいい匂いがします。い、いきましょう!」


 ヤシマさんがはしゃいだ様子で声をあげたかと思うと、ボリックの腕を掴んでぐいぐいひっぱって行ってしまう。

 自己主張とは無縁そうな人だと思っていたのに。

 その後ろ姿を、驚きをもって見送ってから、私は近くの子供を探した。

 父親と二人で買い物にきているらしい、6、7歳の少女を見つけると声をかける。


「こんにちは」

「こんにちは。髪が黒い!? もしかして聖……女さまですか?」


 少女は私の髪を見て目を瞬かせる。


「うん、そうだよ」

「本当に?」


 思いっきり怪訝な顔をする。子供は正直だ。


「嘘じゃないよ。髪の毛黒いでしょ? 触ってみる?」


 頷く少女の前にしゃがみこむ。髪を触って、ようやく少女は納得してくれた。


「実は今神様から頼まれてこの国のことを見て回っている途中でね。でもまだこの国に来たばかりで何もわからないんだ」


 慌てる少女の父親を手で制すると、いたずらっぽく笑ってみせる。


「この国のおいしいご飯のこともね。そうだお嬢ちゃんは今朝、何を食べたのかな? 教えてくれる?」

「聖女さま、食いしん坊なの? 私は茹でた卵とパンと……プロコリを食べたよ。卵とパンは美味しいけど、プロコリは苦いから食べない方がいいよ」


 味を思い出したのか、少女はウエっと舌をだした。


「気をつけるね。嫌な兵……大人の人はいない?」

「んー? ハニラおじさんはいつも飲んだくれて大声で歌うから困るって、おばさんが言ってた」

「そっかあ。お歌聞いてみたいな。じゃあ誰か困っている人を知らないかな? 例えば食べるものがないとか。着る服がないとか」


 少女はちょっと怒った顔になった。


「困ってる人、チョコ知らないよ! あのね、聖女様。今の王様はとってもいい人なの。町外れの孤児院もずっと良くなった。王様のおかげだってロールおじさんが言ってたもん!」

「そうなんだ、ごめんね」


 頭を撫でると、少女は父親に手を引かれて離れて行った。


「イマイ様」


 兵に名を呼ばれて振り返る。金髪のその兵は苦いものを噛み潰したような顔をしていた。


「イマイ様が、お疑いを抱かれるのもいたしかたありません。お気付きの通り全ての場所がこの通りのように整っているわけではありません。ミルーフィ公爵はより良い面を見せようとなさりすぎたのです。ですが、どうか分かってください。シュクリム様は良き王になろうと努力なさっています。私は平民の出です。以前なら聖女様の御身を守る大役など考えられませんでした。しかしシュクリム様が取り立ててくださった。聖女様をお守りするためには私たちのような者が必要なのだとおっしゃってです」


 私は無言で頷いた。

 国政は悪くない。シュクリムはおそらく信用できる。

 また少し心が傾いた。



「きょ、今日はつかれましたね。でもちょっと楽しかったです。お、お城の食事も美味しいけど、城下の食べ物も美味しかったな」


 同じベッドで寝るのも三度目ともなると慣れてくる。


(呑気だな)


 ベッドの上で正座をして語るヤシマさんに、冷めた感想を抱いた。


(……嫌な奴)


 そんな自分に気づいて舌打ちしそうになる。こんな風に思うのは自分に言い訳するためだ。

 真っ直ぐにヤシマさんを見られず伏し目がちになる。


「それで、ど、どうでしたか? 聞きたい話は聞けましたか?」


(え?)


 私は顔を上げてヤシマさんを見た。


「あ、あの、イマイさん、街の人と話をしたそうにされていたけど、すごくボリックさんを気にしてらしたので、それで」

「ありがとう……ございます。ええ、話は聞けました。絶対とは言えませんが、シュクリム王は信頼に値する人物であると思います。ただ、全ての貴族が誠実ではないのだろうとも。ですので慎重に見極める必要があるかと」

「そ、うですか。一歩前進ですね」


 ヤシマさんは、ほっとした顔で横になった。間髪いれずに寝息が聞こえてくる。相当疲れていたのだろう。帰りの天馬も叫び通しだったし。

 いつものように、なるべくベッドの端に寄って布団をかぶる。

 呑気は、私だ。



 この世界にきて10日が経過した。

 まだ決心はついていない。

 シュクリム王は毎日顔を見せる。いつも尊大な余裕のある態度を崩さないが、兵から仕入れた情報によれば日々職務に忙殺されているらしい。

 常に王が気にかけていると周知させるためなのだろう。非常にありがたく心強い。

 と、同時に牽制しなければならない輩がいることを示しているのだと思うと気分が重たくなる。

 それはそうとして……


「ま、また同じタイプの人」


 庭に設えられたテーブルでお茶を飲む私の隣で慄くヤシマさん。

 その視線の先には、線の細い儚げで中性的な若い男がいた。

 手に持っている箱に入っているのは菓子だろうかそれともアクセサリーだろうか。

 城下に降りた時、ひょろっとした男を見かけるたびに、うっとりと流し目をおくっておいた成果がでた。

 もちろん、万一、力尽くに出られても、返り討ちにできるようにだ。決して私の趣味ではない。

 私のタイプは……優しげで、意外と芯が強くて……


「イマイ嬢? いかがなさいました?」


 間近で声をかけられて我に返る。


「失礼しました。少しぼうっとしてしまって」


 件の男がいつのまにか同じテーブルについていた。

 持参した綺麗なピンク色の箱が置かれている。中身は、香水?


「それは大変だ。あなたのようなか弱い女性に今日の日差しは強すぎるのでしょう。どうです、私の屋敷に遊びにいらっしゃいませんか。この国一番と評判の水庭があるのです」


 私がか弱い? 思わず鼻で笑いそうになって耐える。

 この青年は一族の期待を背負っているのだろう。無理やり捻り出した美辞麗句を吐かねばならないと思うと哀れでもある。


「お心遣いありがとうございます。ですが、今日はこの後シュクリム王と約束がありますので、残念ですがまたの機会に。ところでこちらは?」


 王と約束などない。

 なるべく悲しげに言うと、話題を変えるべく箱を見る。


「これは我が家でとれたシュミレの花の香水です。お好きと伺いまして持参いたしました」


 シュミレ?

 首をひねって思い出した。そう言えば一昨日、花園を散歩中にヤシマさんが良い匂いだと言っていた花だ。


「くそっ」


 あのとき、周りには護衛の兵たち以外誰もいなかった。

 阿呆の貴族から聖女を守るために平民から厳選したんじゃなかったのか!!


「あの、今なにかおっしゃりましたか?」

「いえ、なにも? 香水ありがとうございます。ご存知のとおり大好きですとも!」


 お前が帰ったら即捨ててやる。

 好きな香りの香水。もしかして欲しいだろうか? と心配したが、ヤシマさんは不気味そうに香水を眺めていた。

 そのことに思った以上に安堵した自分には気づかないふりをした。



「どちらが聖女であるか、わかったか?」


 召喚から20日が経った。

 夜遅く、ご機嫌うかがいに来たとのたまう王から爆弾発言が落とされた。

 見えないように、長い袖の下で拳を握りしめる。


「いえ、それがまったく。ですよね、ヤシマさん」

「は、はい、はい。全然わかりません!」


 ヤシマさんは腹芸ができない。


「そうか。それは困ったな。そろそろ神事や披露目になど出席してもらわねばならんのだが」

「神事」

「お、おおおお披露目」


 ヤシマさんと私はそれぞれ別のところに反応した。

 私は単純に神事とやらに興味があったのだが。


「ヤシマさん、お披露目がなにか?」


 ヤシマさんの目が盛大に泳ぐ。


「す、すすすみません。私、あがり症で」


 だろうな……


「心配ない。人々の安寧を願う言葉を口にするだけだ。あとは適当に手をふっていればいい」


 くっくっと笑って王は腰掛けていたソファから立ち上がる。


「どちらが聖女か、今一度よく考えてくれ。10日以内に答えが欲しい」



「ど、どうしましょう?」


 二人きりで残された室内。

 ヤシマさんは狼狽えた様子で右往左往している。


「も、もう一度、塔の手記を、よ、よく調べてみませんか? この世界に残った聖女の方に目通りを願ってみる、とか」


 会える可能性があるとすれば、三代前の聖女だが、おそらく彼女はもうこの世にはいないのではないかと思うのだ。存命なら、シュクリム王が私たちに会わせたはず。


「そ、それか帰還の術を行う人に安全性について納得のいく説明をしてもらうという手も! そ、そうだ、召喚にまつわる神話にヒントがあるかもしれません。い、イマイさんはどちらから手をつけるべきだと思いますか?」


 ヤシマさんの心配は先に帰されるであろう、聖女じゃないほうの安全だけ。ずっとそうだ。


「少し、風に当たってきます」


 私は彼女の問いには答えず、テラスに続く窓から外に出た。

 柵に手をついて乗り越え、一階におりる。

 廊下から出なかったのは、兵を撒くためだ。

 この世界に来てからというもの、一歩部屋の外に出れば兵が張り付く。

 とにかく一人になりたかった。

 既成事実を目論む男に襲われてもかまわない。

 いっそ誰かが、暴いてくれたら……

 そんな狡い考えがちらとでも頭をよぎったから天罰が下ったのだろう。



「だ、だれか! 誰かいませんか!? 刃物持った女に刺されそうなんですけど!!」


 冷たい廊下の壁にべったりと背を貼り付けて、私は叫んだ。

 この襲うは想定外だ。


「ちょ、ちょっと思いとどまって! 私、もしかしたら聖女かもしれない人間なんですけど、その辺わかってますか?」


 聖女がいないと、世界がやばくなるんだろ!?

 女の説得を試みる。


「そんなこと、当然わかっておりますとも! たとえ聖女にでも、わたくしからあの方を奪わせなどいたしません。この女狐」


 待って、あの方ってだれ!? こないだ香水もってきたやつ? それともその前に花束かかえてきたやつ? いきなり手をとって甲にキスしてきたやつかな? 心当たりがありすぎて分からない。


「覚悟!」


 女は両手で刃物を握りしめると、私に向かって突進する。

 逃げなければと思うのに、足が動かない。運動神経には自信があるほうなのに、ここぞという時にこれだ。本当に自分が嫌になる。


「イマイさん!」


 ああ、刺される。と諦めかけたとき、高い声が聞こえた。目の前に迫っていた女の体が、横薙ぎに倒れる。誰かが女と共に廊下に転がっていた。


「ヤシマさん!?」


 幻覚かと思った。

 裾が破けた寝間着姿のヤシマさんが、刃物を持った女と取っくみあっている。

 女が刃物を持った手を振り上げる。ヤシマさんが刺される。そう思った瞬間呪縛が解けたかのように体が動く。


「やめろ!」


 私は駆け寄り、思い切りその手を蹴り飛ばした。

 カランと音を立てて、廊下に転がる刃。

 その段になってようやく廊下を走るいくつもの足音が聞こえた。



 女は兵士によってあっというまに制圧され、連れられていった。

 ヤシマさんはいくつもの擦り傷を負っていた。その殆どは二階から降りる時にできたもののようだ。


「どうして……」


 手当てを終えて、部屋に戻ると、私は入り口のそばに立ちすくんだまま尋ねた。


「て、テラスで風に当たられるのかと思ったら、飛び降りて歩いて行かれたので、あ、あぶないと思って」

「あぶないのはヤシマさんでしょう!」


 いつものようにおずおずと喋るヤシマさん。私は怒鳴った。腹立たしくて、もどかしてくて、情けない。


「そ、そんなことないですよ。実際にイマイさんが危なかったわけですし。間に合ってよかったです」

「よくない! ちっともよくない! 私なんかを助けるためにこんなに傷をつくって、命を危険にさらして、何を考えてるんですか」

「なんかって……どうして、そんな言い方……」


 ヤシマさんは悲しげに顔を歪ませる。


「日本に無事に帰れるんです。知ってて黙ってました。私はヤシマさんを置いて一人で先に帰ろうかと思っていたんです。私は薄情でずるい人間なんです」


 だからヤシマさんが私のために命を投げ出すなんて、あっていいはずがない。


「帰れるって知っていて、どうして帰らなかったんですか?」


 ヤシマさんは目を丸くしている。


「シュクリム王は聖女の身を案じている。けど、その守護は万全とは言えない。それはヤシマさんだってわかっているでしょう」


 ぽかんと口を開けたあと、ヤシマさんは微笑んだ。


「やっぱり、イマイさんは、薄情な人でもずるい人でもないですよ」


 ふんわりと笑うヤシマさんの笑顔を目の当たりにして、私は何も言えなくなった。


「もう、寝ませんか? きっと明日は朝早くにシュクリム王がきますよ」


 ヤシマさんの寝つきの良さは驚異的だ。

 あんなことのあとなのに、スヤスヤと寝入っている。

 私はそっとベッドを抜け出ると、隣の部屋のソファで眠った。もう同じベッドでは眠れそうにない。



「昨晩は大立ち回りだったらしいな」


 朝食の前にやってきたシュクリム王は開口一番、呆れ顔でそう言った。


「我が国の民が、刃を向けたことは謝るが、そちらにも落ち度がないとは言えないぞ」


 わかっている。テラスから出た私が悪い。

 シュクリム王によると、昨晩の女は、聖女に言い寄っていた男の元婚約者で、隙あらば聖女を害そうと刃物を持って城内をうろついていたしい。淑女の鑑のような物静かで控えめな女性で油断したとか。こわい。


「二人が無事で何よりだ。朝早くに悪かったな」

「待ってください」


 用事は済んだとばかりに背を向けるシュクリム王を呼び止める。


「聖女がどちらかわかりました」


 王の青い目を見据えて、私は口を開く。


「私が聖女です」

「い、イマイさん!?」


 悲鳴のような声を上げて、私の服の袖をひっぱるヤシマさん。その手を握りこむ。


「ヤシマさん、ちょっと黙ってていただけますか」

「や、でも」

「いいから」


 手に力を込めると、ヤシマさんは口を噤んだ。

 王は面白そうに私たちを眺めている。

 最初からわかっていて茶番につきあったのだろう。もしかしたら日本語も読めるのかもしれない。


「聖女として、神事でもお披露目でもなんでもしましょう。けど、この世界のためじゃない。ヤシマさんのためです。ヤシマさんがいないと何もできません。ですので二人同時に帰していただきたいんです」


 ヤシマさんは薄情でもずるくもないと言ったけれど、一人で残るほどお人好しではないのだ。何より、王が見逃してはくれまい。聖女の身を案じてはいるが、彼にとって一番大切なのはこの国の民だ。


「ヤシマさん、残っていただけますか?」


 向き直って尋ねる。


「そ、それはもちろん。残ります!」


 ヤシマさんはなんども首を縦にふった。



 こうして私は聖女として異世界で過ごすことになった。

 後悔はない。

 ただ各種行事にドレスを着用して参列しなければいけないとは聞いていなかった。

 故意に黙っていただろうシュクリム王を呪いながら、200日あまりがたち、私たちは日本に帰還する日を迎えた。

 召喚されたときに着ていたスーツに身を包み、城の地下にある、召喚陣に二人で立つ。

 あの日から、200日後に戻るのかと思うと胃が痛い。突然消えたのだ。どんな騒ぎになっているだろう。このままこの世界に残るのもありかもしれないと考えたこともある。

 けど……


「ヤシマさん、戻ったら必ず会いにいきます。向こうで聞いていただきたいことがあるんです」


 視界が歪み、頷くヤシマさんの顔が霞む。



「今西!? どうした? 大丈夫か?」


 懐かしい声がする。200日ぶりに聞く磯部課長の声。

 日差しが眩しくて、眇めた目に入ったのはアスファルトに転がる資料。あの日、あの時、手に持っていたもの。私は召喚された日にもどったのだ。


「ど、どうぞ、落とされましたよ。今西さん」


 白い手が資料を拾いあげる。

 ――ああ。こんなに近くにいたのか。

 どうりで二人で召喚されたわけだ。

 立ち上がると、ネクタイを締め直す。


「お話があります」

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聖女になりたくない貴女と私 小声早田 @kogoesouda

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