カルテット番外編「魔法のランプ」

椎堂かおる

第1話

「痛って!」

 部屋を出るなり、正体のわからないものを踏んづけてしまい、イルスは踏み込みかけた足のやり場がなくなって、よろめいた。裸足のままの爪先に、するどい痛みがあった。

 扉にもたれて傷口を見てみると、小さく針のささったような痕があり、血がにじんでいた。

「……またか!」

 すでに腹を立てながら、周りを見渡すと、将棋チェスの駒らしい、銀でできたものが床に点々と転がっている。それは廊下の向こうから、イルスの寝室の前を通り過ぎ、その先にある居間に続いていた。

 出所は分かっている。スィグルの部屋からだ。

 薄暗い廊下を、絨毯の上に転がっている駒やら何やらをよけながら進んでいき、イルスはいつもなら居間の長椅子に寝そべってるスィグルを探した。

 だが、そこには長い黒髪を垂らした姿はなく、イルスは怒鳴りかけた言葉を一時呑み込まねばならなかった。

 居間には廊下にまして、様々なものが散らかっていた。

 長い巻紙に描かれた物語のようなものが、だらしなく広げられたまま床を這っており、将棋チェスの盤は暖炉のそばに放置されている。

 ほかへ目を向けようとした時、イルスはその盤の傍に、スィグルが寝転がって本を読んでいるのを見つけた。

 床に直に寝転がるのは、スィグルのいつもの悪い癖で、彼の生まれ故郷では普通の習慣だというが、イルスにはどうにも納得がいったためしはない。地べたに寝るのは、犬か猫のやることだ。

「スィグル」

 すっかり説教じみて響くようになった声で呼びかけると、スィグルがうるさそうに顔を上げた。

「何だよ、今いちばんいいところなのに」

 絨毯に頬杖をつき、スィグルは大判の革表紙の本にかじりついている。本を読み始めると夢中になりたいのが、スィグルの性癖だ。普段ならわざわざ声はかけない。これが朝いちばんの出かける時間ぎりぎりで、スィグルがまだ夜着のままだらしなく寝そべっているのでなければ。

「朝めし食いにいくぞ」

「ああ、僕いいや。これを読みたいから。昨日、タンジールから届いた荷物に入ってたんだ。一晩中読んで、あとちょっとで終わりなんだ」

 それが理由になっていると思っているらしい口調で説明し、スィグルはまた本に顔を埋めようとしている。

「朝イチの講義は?」

「さぼるよ。どうせ眠いし、読み終えたら寝たいから」

「お前、今日はシェルとどこか行くから、朝ぜったい起こせって言ってたぞ」

「そうだっけね。もういいや、それ取りやめ。イルスがシェルにそう言っといてよ」

 足をゆらゆらと揺らしながら、スィグルはもう上の空で、羊皮紙に連ねられた装飾的な文字を追っている。それは彼の部族の言葉で書かれたもので、イルスには意味の分からない線がのたくっているだけにしか見えなかった。

「スィグル」

 怒声を作って、イルスは呼びかけた。

「なぁんだよ……」

 こちらを見もせずに、スィグルがうめいた。

「廊下に落ちてるものはなんだ。俺の足に刺さったぞ」

「裸足で歩いてる君が悪いんだよ」

「片付けないお前が悪いんだよ」

 もう出かけないといけない時刻だった。

 非難されて、不機嫌そうに顔をあげたスィグルと、イルスはほんの一時睨み合ったが、ばかばかしくなってため息をついた。

 食堂の厨房で、朝食を作るのがいつもの習慣で、遅れるとシュレーがうるさい。

「俺はもう行くけど、戻ってくるまでに片付けておけよ」

「何の権利でそんな偉そうな口をきくのさ」

 スィグルは、まったく信じられないという口調だった。イルスはあぜんとした。

「ここが俺の部屋だからだ。お前が一晩かけて散らかしたのを、俺が一日かけて片付けて、それをお前がまた一晩かけて散らかすのか? お前こそ何の権利があって、俺にそんな果てしないことさせるんだよ」

「イルス、君は僕の部屋を片付けるためにいるのかと思ってたよ」

 にやっと意地悪く笑って、スィグルが言った。

 挑発だ。こっちがムカついてるのを知ってて、わざと言ってるんだ。

 それが分かっていても、イルスは予定通り我慢の限界だった。

「お前の散らかし癖には、もううんざりだ」

 部屋を散らかす人種と、イルスは縁があった。

 学院に来る前に暮らしていた師匠の庵では、剣の腕は立っても、生活態度のだらしない師匠のおかげで、イルスは剣の腕を磨くのと同じ程度に、家の掃除と切り盛りを身につけるはめになった。

 そこから学院にやってきたと思ったら、今度は自堕落な同居人の後片付けで一日がつぶれるような日々だ。

「うんざりだったらどうするのさ」

 頬杖をついたまま、スィグルはいかにも面白そうにこちらを見ている。

「どうって。どうしようもないだろ。お前をもっとまともに変える魔法でも知ってたら教えてくれよ」

 そんなものがあるわけない。

 イルスが皮肉のつもりで言った言葉に、スィグルはふっふっふといかにも楽しそうな笑い声をもらした。

「まともって、どんなの。僕よりまともなやつなんて、この学院にいるの?」

「よく言うぜ。お前以外の誰とだって、お前と部屋を分けるよりましだと思うぞ」

「ああ……そうか。じゃあ、試してみたら?」

 床に転がっていた鈍い金色のランプを手にとって、確かめるように眺めてから、スィグルはそれを放って寄越した。

「なんだ、これ」

「見たまんま、魔法のランプだよ。三回まで同居人を変えてくれる」

「なんでそんなもんが……」

 実在するのか、と訊いたつもりだった。

「父上が送ってくれたんだ。僕が君に嫌気がさしたら、使えってことじゃない? でも僕は使う気ないからいいんだ。だって誰だって似たようなもんだよ。イルスなんてましなほうさ、我慢できる範囲内だよ」

 我慢?

 その一言は、イルスにとって我慢できる範囲外だった。

 自分がスィグルのやることを我慢してやっている事は多々あるが、向こうがこちらの何を我慢しているというのだ。

「そうか……」

 受け取ったランプの鈍い金色の光を、イルスは暗い目で見下ろした。

「じゃあ俺が使う」

「三回までだよ、イルス」

 にやりと笑いながら、スィグルは忠告した。

「どうやって使うんだ」

「磨いてごらん」

 興味なさそうに言うスィグルの言葉どおり、イルスは曇った金色のランプを、制服の袖で磨いてみた。

 丸みを帯びたランプの表面に、自分の顔が歪んで写り込んでいる。

 しばらく待ってみても、なにかが起きるような気配はしなかった。

 スィグルに担がれたらしい。

 どうせそんなことだろう。同居人を変える魔法のランプなんてふざけたものが、この世にあるとは思えない。

 だましやがって、と顔をあげたイルスは、暖炉の前に誰もいなくなっている事に、ぽかんとしなければならなかった。

 スィグルも、彼が読んでいた本も、転がっていた将棋盤も、そこになかった。

 ふりかえって居間を見渡すと、散らかっていたものが、すっかり片付いている。

 スィグルが一瞬で片付ける魔法でも知っていたかのようだった。そんなものを知っているなら、さっさと使えばいいのに……。

 と、内心ぼやいていたら、廊下をばたばたと走ってくる足音がきこえた。

「すみません、待たせちゃって! 髪がカーテンの引き綱にひっかかっちゃって、どうしても取れなかったんです」

 奥から出てきたのは、学院の緑色の制服を着たシェルだった。

 いつのまに来ていたんだろう。スィグルの部屋にでも潜んでいたのだろうか。

「急いで行きましょうね。待たせるとシュレー怒るから」

 背中に垂らしたままのシェルの金色の巻き毛が、ぼさぼさになっていた。

 イルスは自分の手の中に残されたままの、鈍い金色のランプを見下ろした。

 シェル?

 まさか、同居人がスィグルからシェルに入れ替わった?

「なあ……スィグルは?」

 ランプを見つめたまま、イルスが問いかけると、シェルは持って行く荷物らしいものを抱えなおしながら、部屋を出る扉に小走りに向かったところだった。

「え。さあ、食堂で待ってるんじゃないですか? どうして?」

「いや。……あいつ、なんでここにいないのかなと思って」

 イルスが曖昧に答えると、シェルはなぜか大笑いした。

「殿下が僕らの部屋に来るわけないですよ。自分の部屋でごろごろしてるのが好きなんですから」

 扉を開けて、シェルは手招きした。

「イルス、急がないと僕らのぶんのご飯ないですよ。なんだ、遅いから来ないのかと思ったよ、って言われますよ」

 いかめしい口調で、シェルはシュレーのまったく訛りのない公用語をまねた。

 確かにその通り、いつもと何の変わりもない。同居人が入れ替わったこと以外は。

 暖炉のそばにおいてあった長靴をはこうとして、イルスは自分の足についている針の穴のような傷を思い出した。血は止まって、かすかに赤く腫れているだけだが、その傷は確かにそこにあった。スィグルがばら撒いた将棋チェスの駒を踏んでできた傷だ。

 しかし、あの駒も、あのスィグルも、この部屋のどこにもいないのだった。

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