カスバの女

あべせい

カスバの女


「わたし、こんどの誕生日で34才。あなたは?」

「ぼくは、38才だよ」

 大手のコーヒーショップチェーンの店内。スーツ姿のカップルが、奥の喫煙ルームで会話を楽しんでいる。

 外は夕暮れ。空はどんよりと曇っている。

「あなたとこのお店で会うのは、きょうで3度目ね」

「そうだ。最初は、先々週のきょうと同じ金曜日。そのときは、顔を見ただけで、話はしなかった」

 男は、煙草をうまそうに吸う女の仕草にうっとりしている。初対面のとき、その仕草に一目惚れしたのだ。予想以上に、イイ女だと思った。

「当たり前でしょ。見ず知らずの男女よ。いきなり、話が出来るものですか」

「2度目が先週の金曜日。キミは今日と同じその席、壁沿いの長いシートの左端に、腰かけていた。ぼくは今日と違って、わざといまのこの椅子の右隣の椅子に腰掛けた。ちょうど、左斜めにキミが見える位置だ。もちろん、キミの前のテーブルの椅子は空いていた」

「わたしがあなたに煙草の火を借りたのね」

「ぼくはライターを使わない。特に使い捨てライターは嫌いだ。マッチにこだわっている。でも、この店はサービスマッチを置いていない」

「あなたのマッチを使ってから、わたしは、そのマッチの出どころが気になったわ」

「そのつもりで、あのときは、あのマッチを持っていたンだ」

「それで、あのマッチは、どうしたの? 『カスバの女』って書いてあったけれど……」

「あのマッチは、ぼくのともだちで、世界中のマッチを集めているコレクターがいるンだけれど、彼から買ったンだ」

「エッ、マッチのコレクター!?」

「そォ。あのマッチは大昔、CDの前のレコードの時代、ヒット曲のジャケットを図案化した53点のシリーズがあって、その1つだ」

「だったら、高いンでしょう?」

「ちょうど1万円で分けてくれた」

「1万円! マッチの軸は何本入り?」

「25本」

「ということは、わたしはマッチ棒1本借りたけれど、あの1本で、このコーヒー1杯よりも高いってこと?」

「そうなるのかなァ」

「ごめんなさい。そんなことも知らないで……」

「でも、キミが『カスバの女、ってどういう意味ですか?』って聞いてくれたから、きょうこうして会うことが出来たンだ。決して高くないよ。♪涙じゃないのよ、浮気な雨が、ちょっぴり……」

 男は「カスバの女」のさわりを歌ってみせる。すると、女がそのあとを続けて、

「♪この頬濡らしただけさ、どうせ地の果てアルジェリア……きょうはカスバの女は持っていないみたいだけれど……」

 男はスーツのポケットからマッチ箱を取り出し、目の前のテーブルに置いた。女はそれを手にとって、

「『黒の舟唄』って書いてあるわね」

「これも同じ大昔のジャケットシリーズの1つだ。野坂昭如が歌っていた曲のタイトルだよ」

「このタイトル文字のそばに写っている人が、昨年亡くなった作家の野坂昭如さん?」

「そうだよ」

「カッコいい人だったのね。真っ白のスーツに真っ白の鍔広帽子……」

「そうだったらしい。亡くなったときは、ヨボヨボの風癲老人だったけれど。みんな、年をとるンだな」

「これも1万円するの?」

「野坂昭如は亡くなったばかりだから、このマッチもいまは値段が高くなっている。いまの相場は3万円だそうだ」

「エッ、ウソでしょ。こんな小さなマッチ箱よ……」

「ウソだ。ワッハハハ……」

 男は、愉快そうに笑った。その笑顔が、女のハートをグイッと掴んだ。

「まだお名前、聞いていなかったわ」

「そうだたっけ。言ったつもりだったけれど……」

「先週会ったときは、こんどの金曜日に、同じこの時間に会いましょうと約束したから、電話番号もメールアドレスも交換していないわ」

「それは失礼。ぼくは……」

 男は、内ポケットから名刺入れを取りだし、1枚をテーブルに置いた。女は手に取り、天井からのライトに照らす。名刺には、「赤塚警察署 地域防犯課 芳丘国生(よしおかくにお)……」とある。

「警察の方なの……」

 女は明らかに、ガッカリしたようすだ。

「わたしは服伊乃美(ふくいのび)、仕事は、ビジネスホテルでフロント管理をしている」

 乃美はそう言って、新しく煙草をとりだす。国生のマッチ「黒の舟唄」で火をつけ、最初の一服を胸深く吸い込んだ。

「乃美さんは警察が嫌いなようだけれど、警察に知り合いがいると、便利なことがあるよ。例えば、悪い男につきまとわれたときとか……」

「芳丘さんッ」

 乃美は遮るように言った。

「エッ?」

「わたしがいま、ひどい男にゆすられている、ってのは、どう?……」

 国生は、鼻から青い煙を細く吐き出す乃美を、呆気に取られたように見た。こいつは、警官をバカにしているのかッ。ちょっと美形だからって、調子にノるンじゃないゾ。国生はそう腹の中で毒づいた。

「ゆすられている、のですか。それは穏やかじゃない。その人物の名前からお話しください」

 国生は、一歩引く必要を感じ、言葉遣いを改めた。まだ、どこの馬の骨かもわからない女だ。いくらあいつの頼みでも、警戒して当然だろう。

「芳丘さん、いいえ、国生さん。怒ったの? これくらいで? あなたの年齢なら、10年の警察経験があるでしょ。こんな女、いくらでも見てきたでしょうに……」

 乃美はそう言って、形のいい瞳で、ジーッと国生を見つめる。国生は、両目に遮眼帯を取り付けられた競走馬のように、なぜか目を逸らすことができなくなり、乃美の目にグイグイ引き込まれた。この女は男の扱いに慣れている。いくらホテルのフロントとはいえ、ありきたりの接客係では、こんな態度はとれない。もっともっと、男を知っている。

「正直に話すわ。うちのホテルの社長が無理難題を吹っかけるの。うちのホテルというのは……」

 乃美が語ったところによると、彼女が勤める職場は、10階建て65室のビジネスホテルで、従業員は8名。社長は近くにある11階建てマンションのオーナーだが、2棟目のマンションの代わりに、ホテルを建てた変わり者だ。年齢は55才。勿論妻も子もいる。そして、女子大生の愛人がひとり。

 社長の名前は、清戸麻斗(きよとあさと)。その清戸が勤務中に乃美にそっと近寄り、耳元でささやいた。

「キミが勤務中に、こっそり客室に入り、お客にマッサージをしているという噂がある。これが事実だとすると、当ホテルにとって大スキャンダルだ。ただし、私ならいますぐにでも握りつぶすことができる。そのためには、いいね……」

 清戸は最後にイヤらしい目付きをして去って行ったという。

「キミは、その噂がガセだというンだな」

「事実だったら、こんな話、3度しか会っていないあなたにしないでしょ」

「噂の出どころは見当つくのか?」

「うちのホテルには契約しているマッサージ派遣会社があるわ。そこのマッサージ嬢が2、3人、毎日入れ替わりで、ホテルに来るンだけれど、なかにひとり、タチのよくない子がいる。美人だけれど、手癖が悪い」

「枕探しかッ」

「枕探し、って?」

「お客が寝ている間に、金品をかっさらう盗っ人だ」

「そォね。お客さんが気持ちよくなって眠ってしまうと、財布からお札を抜き取る。それも全部じゃなくて、1枚か2枚。お客さんが気がつかないか、勘違いだと思う程度の……」

「そういう輩は、早くワッパをはめたほうがそいつのためだ。おれが行って現行犯で捕まえてやる」

 乃美は、目を大きく開いて国生を見る。言葉遣いがタメ口になり、「ぼく」が「おれ」に変わったからだ。この男、まだまだ底がある。乃美はそう思って内心ニヤリとした。

「まだ話があるのよ。噂の出どころを話してないわ」

「ゴメン、そうだった」

 先走りするのが、国生の悪い癖だ。

「わたし、彼女のマッサージを受けたお客さんから呼ばれて、彼の部屋に行ったの。そうしたら、そのお客さんが財布を見せて、1万円札が2枚なくなっている、と言った」

「どうして、それがわかったンだ?」

 国生の目付きが鋭くなった。警官の目付きも悪人の目付きも似ているというが、乃美はそのとき本当だと思った。

「わたしも、その点を尋ねたわ。そうしたら、そのお客さん、よくうちのホテルを使ってくださる方なンだけれど、こう言ったわ。

『ぼくは財布を2つ持っている。仕事用と私(わたくし)用だ。ホテルに入ると、私用は部屋に備えつけの金庫に入れてチェックアウトまで使わない。私用の財布にはいつも少なくて30万円入れているから、用心のためだ。仕事用は多くても10万程度。そのときは、きっかり8万円入れていた。なぜわかるのかと言うと、性格なンだろうが、仕事用の財布には自分の名刺を札の奥に入れていて、名刺の裏に万札の数と、その数が変化したときにその月日を記入している。ところが、彼女が帰ったあと見ると、5枚に減っていた。マッサージの支払いは、40分5千円だったから、7万5千円なくてはならないのに、だ』って。

 マッサージを受けている間、彼は気がつかないうちに10分ほど眠っていたらしい。マッサージ嬢に起こされて目が醒めたというから。わたしはすぐに彼の部屋を出て、その時間帯に派遣されたマッサージ嬢を調べたわ。名前はわかった。宮茂霧枝(みやしげきりえ)。わたしは顔もよく知っている。うちにくるようになってから半年くらい。かわいいけれど、目付きが暗い子。

 派遣会社の話だと別の部屋でマッサージしているというから、その部屋番号を確認してすぐに行ったの。そして部屋のドアの外からスマホで中にいる彼女に電話をかけ、『その方のマッサージが終わったら、フロントに来てください』と告げた」

 ここまではいい。手続きに問題はない。国生は、乃美が、思った以上に慎重で緻密な女性だと感じ、好感を抱いた。

「その女は、ゲロしたのか?」

「いいえ、その逆。フロントの裏の事務所に来た彼女に、お客の苦情を説明すると、『証拠がありますかッ! ここには2度と出入りしないわ。こんなチンケなホテルなンか!』と捨て台詞を残して帰って行った。その直後よ。わたしが客室に入り、マッサージしているという噂が流れたのは……」

「そういうことなら……」

 国生は、そのマッサージ嬢をホテルに呼んで、試したい衝動に駆られた。

「国生さん、わたし、いまのホテルはやめてもいいと思っている。わたし、休みをとっておく。ホテルに部屋をとって彼女を指名してみて。わたしがいないとわかれば、彼女は、ホテルに来るはずよ」

 乃美はそう言ってから、罪悪感がチラッと胸をかすめるのを感じた。


 芳丘国生は、息苦しさを覚えている。本当のことを言わなくては、という思いにこれほど責められたことはなかった。「芳丘国生」の最後の名刺を使ったとき、これで「芳丘国生」を往生させられると思ったのだが、服伊乃美との話が進むにつれ、赤塚署生活防犯課の看板をすぐに降ろすことは出来ないと感じた。

 本物の芳丘国生は、半年前、急な病で亡くなった。偽国生、すなわち寿多亜樹司(としだあきじ)は、大学時代カレと同じクラスに在籍していた。卒業後、亜樹司は広告代理店に就職、一方国生は警視庁の採用試験を受けて合格した。

 在学中、2人はそれほど親しかったわけではない。ところが、卒業して10年後、2人は新しく出来たショッピングモールで偶然再会した。そのとき亜樹司は、広告代理店をやめ、大手の警備会社に転職していた。本物の国生は、警備員が痴漢を捕まえたという通報で、八王子北署から駆けつけた。当時勤続7年で警備隊長をしていた亜樹司は、再会した国生に痴漢を引き渡した。

 2人は妙にウマが合い、電話番号を交換して、その後、2月に一度の割合で会うようになり、交際を重ねた。マッチのコレクションは国生の唯一の趣味だった。

 亜樹司は、国生から実際の刑事の仕事について聞き、自分の仕事に活かすようにした。国生も役所にはない民間の警備業務に関心を持ち、おもしろがって亜樹司の話を聞いた。

 ところが、1年前、国生は白血病が発覚して入院した。2人とも独身だったことから、亜樹司は勤務後、足繁く、国生の病室を訪れた。

 国生は余命4ヵ月と宣告されていた。彼には山形に老いた母がいた。亜樹司は会社から休みをもらい、山形から国生の母を連れてきて、息子に会わせた。それが亡くなる10日前。

 国生は死の間際、枕元にいた亜樹司に、預金通帳と名刺を手渡し、こう言った。

「1つだけ、し残したことがある。氷川台の喫茶店で見かけた女だ。毎週金曜日の午後6時過ぎから来て、静かにコーヒーを飲み帰っていくだけだが、ずーっと気になっている。結婚したいとか、そんな気持ちはないが、おれと暮らせる女なのか、知りたかった。しかし、こんなことになって、おれは動きたくても動けない。彼女はどんな生活をしているのか、男はいるのか、仕事は何か。代わりに調べて欲しい。おれはこのまま逝くだろうが、おまえのことは見ているからな」

 服伊乃美は、国生が最期まで気にかけていた女だ。素性を調べて、国生がつきあうにふさわしい女かを見極めてやる。国生のためだ。彼の通帳には、2百万円余りの金があった。名刺は3枚。国生は警察手帳の代わりに使えと亜樹司に知恵をつけた。

 亜樹司は、乃美のホテルに宿泊し、夕食後マッサージを頼んだ。勿論、宮茂霧枝を指名した。霧枝は忙しいらしく、小一時間ほどしてから現れた。純白のユニホームで、上が半袖のジャケット、下がズボンだった。

「霧枝です。50分コースとおうかがいしていますが、よろしいでしょうか?」

 霧枝は、愛くるしい目をした小柄な女性だったが、女らしい肉付きをしていて、小悪魔的な印象を与えた。

 料金は前払いだったことから、亜樹司は金を出すとき、わざと財布の中が見えるようにした。

 霧枝のマッサージは巧みだった。マッサージ嬢を始めて1年と言ったが、亜樹司が望んでいる箇所を知悉しているように、指をそこにあてがっていった。そして、亜樹司はついうとうとした。眠るまいと考えれば考えるほど、余計に眠くなり、いつしか深い眠りに落ちていった。

 亜樹司がハッとして眼を覚ましたとき、霧枝の姿はなかった。時計を見ると、彼女が来てから55分がたっている。50分コースだったのだから、彼女が退出して、わずか5分だ。亜樹司はバッグのなかの財布を見た。入っていた7万円の金は無事だった。それどころか、財布に触れた形跡すらなかった。

 亜樹司は財布をバッグに入れるとき、用意してきた1センチ弱のセロハンテープを財布の開きにこっそり貼りつけたのだが、それが元のまま残っている。霧枝は盗っ人ではない。

 では、どういうことだ。亜樹司は部屋の受話器をとり、フロントに電話を掛けた。

「きょうはお休みなさっておられると思いますが、フロントの服伊さんは、明日勤務なさいますか?」

 電話に出たフロントの男性は、戸惑ったようすで、

「服伊は先々月、退職しております」

「エッ、失礼しました」

 亜樹司は、何か罪でも犯したような気持ちになり、慌てて受話器を戻した。

 これは、どういうことだ。乃美は、社長に迫られ、それがいやでホテルをやめたのか。

 亜樹司はふと思いついて、もう1度受話器をとりあげた。

「さっき電話した芳丘だけれど、服伊乃美には金を貸しているンだ。連絡先を教えてくれないか」

「それはいたしかねます。社内規定で、例え退職者でも個人情報はお教えしないことになっています」

「ナニッ!」

 亜樹司は怒りが抑えられない。

「社長を出せ。女性従業員にセクハラするバカ社長を出せッ!」

「おことばですが、当ホテルの社長は女性です。何かのお間違いではないでしょうか」

「エッ……」

 亜樹司は、魂を抜かれたような気持ちに陥った。

 いったい、どうなっているンだ。

 受話器が置いてあるナイトテーブルに備えつけのメモ用紙があり、そこに小さな字で何か、書いてある。

「よくお休みなのでお起こししないで帰ります。あなたもあの子に騙されたのです。あの子、手癖が悪くてうちの派遣会社をクビになった子です。それで、このホテルにいた服伊乃美さんの名前をカタって、悪ふざけをしています。服伊さんはあの子をずいぶんかばったのですが、かばいすぎて、ホテルにいられなくなったそうです。それなのに、あの子ったら、枕探しを他のマッサージ嬢のしわざにしています」

 じゃ、あの女はだれなンだ。亜樹司は自分のことを棚に上げて、怒りがこみあげてきた。彼女は服伊乃美というフロント係を装い、社長からセクハラを受けているとウソをついて、おれに手癖の悪いマッサージ嬢を懲らしめさせようとした。しかし、その手癖の悪いマッサージ嬢は彼女自身なのだ。そんな悪ふざけをして、何が楽しいのか。

 数ヵ月後の金曜日。

 亜樹司は、氷川台にあるあの喫茶店に行った。彼女はいなかった。亜樹司は彼女がいつも使っていた同じ席に腰掛けた。

 熱いコーヒーをすすり、煙草を吸う。マッチは「カスバの女」。カスバの女は、半世紀も前にヒットした歌謡曲だ。生前国生は、「カスバの女」について、異国の地アルジェリアで外人部隊の男性に惚れた、パリの踊り子を歌った歌だと話していた。国生が好きなマッチの1つで、通帳や名刺と一緒に亜樹司にくれたものだ。

「♪ここは地の果て、アルジェリア、どうせカスバの夜に咲く……」

 亜樹司が何気なく口ずさンでいると、

「ここ、空いているかしら?」

 亜樹司は目の前に立った女を見上げた。あの女、偽乃美だ。

「キミ、キミは……」

「いい、座っても?」

 彼女は艶然と微笑み、腰をおろすと、煙草取り出す。

「カスバの女、持ってきてくれたのね」

 そう言うと、テーブルに置かれていた「カスバの女」から一本を取りだした。マッチの頭をゆっくりこすりつけて火をつけ、炎が大きくなるのを待ってから、煙草に火を移した。

「キミは、いったいだれなンだ?」

 亜樹司は、艶やかな髪に包まれた妖艶な笑顔を食い入るように見つめながら尋ねる。

「あなたも、カレじゃない」

「エッ」

「わたし、芳丘さんから名刺をいただいていたの。いただいたというより、カレ、立ち去るときうっかり落としたのね。それを拾って大切にしまっていた。だから、あなたがカレの名刺を出したときはびっくりしたわ。何か、あったのだと感じたけれど……」

 亜樹司は国生の死を告げるべきか、迷う。

「キミはウソをついた。名前を……」

「年も3つサバをよんでいるわ。わたしの本当のことはだれも知らない」

「ホテルでの枕探しは本当なのか?」

「毎日マッサージをしていると、いろんなお客さんにぶつかるわ。いいひと、悪いひと……。エッチなことばかり要求するひとも……。わたし、そういうろくでなしにはお返しすることにしている。でも、マッサージは、この前、あなたに会った日を最後にやめたわ……」

 2ヵ月以上も前のことだ。

「いまはなにをしているンだ?」

「いま?……知りたい?」

「あァ……」

 当たり前だ。亜樹司は彼女を責める気持ちがすっかり失せている自分に気がつかないでいる。

「だったら、これからわたしと一緒に来て……」

 女は火のついている煙草を灰皿に強く押し当ててから、立ちあがった。

「どこにだ?」

 女は彼を無視したまま、店のドアを開けて外へ。

「アルジェリア……」

「エッ」

 2人は喫茶店の外に出た。女は歩いていく。

亜樹司は、ようやく女に追いついて並んだ。

「アルジェリアって、どういうことだ」

「スナックの名前。わたしが新しく開店したお店。お店の名前を何にしようかと迷っていたの。そうしたら、あなたが『カスバの女』というマッチを見せてくれた……」

 亜樹司は国生に教えてもらった歌「カスバの女」を口ずさむ。

「そこは地の果て……アルジェリア……どうせカスバの……」

「そォ、地の果て。わたしにとっては、恥の果てかもね」

「そんなことは……」

 亜樹司は素性の知れない彼女を、どこまでも追いかけて行こう、と深く心に刻みつけた。

                     (了)

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カスバの女 あべせい @abesei

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