第4章

 失意のなかで、気力を失った岡崎潤一郎は目黒にある自宅マンションのリビングにいた。家族のための家、ふたりの面影と匂いが満ちた空間。潤一郎は部屋を見渡す。そこには、日々の思い出が満ちている。空虚な壁を虚ろな目でみつめながら、潤一郎の脳裏はくっきりとふたりの姿をうつしていた。


 ここは潤一郎が家族のために購入したマンションルームで、3LDKの間取りである。夫婦の寝室、書斎、娘の部屋、リビングといった部屋割りだ。リビングはこだわった家具が計算された配置でおかれている。まるで主婦がこだわりの手弁当に(といってもお弁当のようにぎっしり詰め込んでいるわけではないが)トマト、目玉焼き、肉だんご、ウインナーといったおかずの配置を彩りよく決めるように、各自適した場所に、もっともしっくりくる形で置かれている。ひとつひとつの家具は真奈美とふたりで目黒通りの家具店で選んだものだった。なかには池尻大橋にあるインテリアショップで購入したものもある。照明器具やスツールの類はとくに念入りに選んだ。なんども店に足を運び店員と会話をして情報を得ては良い家具を案内してもらった。チェアにいたっては店にあるほとんどチェアに腰をおろし、座面の感触やアームの質感をたしかめた。しなり具合や包容力、硬さ、軋みかた、質感、木目。そういうものすべてを試した。そしてもっとも相性が良いものを選ぶのだ。一方真奈美はとくにこだわりがなく、あなたが選ぶものがいいわと言って買い物に付き合ってくれていた。それより真奈美はキッチン用品などに興味があるようで、別の階にある小物売場へ行きたがった。そうしてふたりは新居のための買い物をそろえていった。

 潤一郎はというと、ついに最も肌に合う一脚と出会う。北欧家具の名匠といわれるカール・ハンセンのYチェアだった。潤一郎はしなやかな曲線を描くアームのなめらかさやフォルムの美しさに惹かれた。部屋のなかで主役になれるほどの佇まいの美しいチェアである。  

 その椅子は今やこの孤独な部屋のなかで潤一郎を健気に支え、わずかな安らぎを提供する唯一の場所となった。そうして選びぬいた、リビングにある照明、コーヒーテーブル、ソファ、テレビ台、スツール、ダイニングテーブル、カーテン、花器、結のつみきやボールプール、ぬいぐるみ、クレヨンでつけた床のしみ…それらは温かく豊かな家庭を象徴するのに申し分のない要素だった。

 真奈美のママ友か、それとも知らないどこかの主婦か、もしも誰かがこの部屋をみたら

《まるでモデルルームみたいに素敵なおうちね!》と間違いなく言うだろう。

妻子をなくした不幸な家だと、誰がおもうだろう。

 

 潤一郎はこうしてただ家に居ることで、ふたりのそばにいられる気がした。そして漠然と思うのだ。

 

(ふたりは一体、どこへ行ってしまったのだ)

    

    *

 潤一郎の妻・真奈美は三十一歳。彼より三歳年下で会社の後輩だった。いつも笑顔を絶やさない優しい妻。結婚前の真奈美はおしゃれが好きで、いつも女性誌にでてくるような素敵なコーディネートをして出社していた。気配りもよくできて美人。クライアント受けもよく頼りになった。潤一郎は真奈美に惹かれ、よくカフェラウンジで何人かの同僚を交えてコーヒーを飲んだ。二人きりのときもあった。ほとんどが仕事の話だったが、彼女の話は面白く、知的なユーモアがあった。潤一郎は出会ったころの真奈美の姿を思い出していた。まぶしく、光に包まれたような過去の記憶。プロポーズをしたレストラン、社内で祝福されたこと。結を授かったときのこと。

 潤一郎は真奈美の記憶をひとつひとつ呼び起こすことで、幸せなときを噛みしめた。

 娘の結は二歳。おしゃべりやお絵かきが上手になって誰にでも手を振ってにっこり笑いかける愛嬌のある娘。潤一郎は弾力のある結の肌のぬくもり、ふっくらとしたちいさな手のひらを思い出していた。手に取るように幼児特有のぷっくりした肉の厚み、結の体の重さも感覚として思い出すことができた。

そして真奈美と結の声、笑顔、匂い…。そのすべてを、隣にいるかのように感じるほど、鮮明に呼び起こすことができた。潤一郎は、脳裏にくっきりとふたりの姿を思い浮かべている。

 

せめてもう一度だけ妻娘に触れられたら、彼は悔いなくこの世を捨てられるだろう。

 

 潤一郎は言葉にならない声をあげて叫んだ。その声は虚しく部屋の中で空疎な余韻を残した。誰の耳にも届くことのない声は、やがて小さな呻きとなった。ついにその呻き声も暗闇に消え、彼は涙さえもう流れなかった。


 潤一郎は今日が何月何日なのかさえわからなかった。この世界のすべてが、自分には無関係の世界の話に思えた。

         

 事故から一ヶ月経って、葬儀も終えた。しかし一向に頭が整理できない潤一郎は、自分が時間の流れを見失ってしまっていることに驚いた。水のない場所に放り出された魚のように、息がうまくできない。息をすることもくるしみを伴うものだと知った。しきりにかかってくる両親や親戚や同僚からの電話に苛立ち、ついに携帯電話は解約した。彼らは潤一郎の自殺を恐れていたのかもしれない。

 世間の目や他人の干渉に絶えられなくなった潤一郎は、退職届を会社に郵送し、正式に会社を辞めた。数ヶ月は手当によって給料の一部は振り込まれていた。その後は家族の将来のために貯めておいた貯金を崩して生活をした。加害者からの慰謝料二千八百万円が入ることになっていたが、潤一郎は弁護士を通じて断り、受けいれなかった。

 そして半年前、潤一郎はちがう環境に身をおくことを決めた。その地に選んだのが、伊豆の松崎町である。松崎は真奈美と結婚前によく来ていた地だった。松崎のなかでも潤一郎は岩地を選んだ。より静かに暮らせるだろうと思ったからだ。窓から海が見えるアパートに決めた。窓をあけると波の音がする。それは秋の風が吹く十月のことだった。

         *

 目黒の自宅は、現状維持でそのままにしてある。真奈美の母や妹が遺品を整理したりするのにしばらく時間がかかるそうで、合鍵を渡してきた。潤一郎としても家族で過ごした場所を残しておきたかった。真奈美と結の小さな歯ブラシもそのまま洗面所にある。潤一郎はふたりのものを捨てることなど、なにひとつできなかった。

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