第3章
二年前、岡崎潤一郎はいつものように会社で仕事をしていた。午前十一時。広告代理店に勤務する潤一郎は入社一〇年目である。プロデューサーとして信頼も厚い。業績もよく広告代理店としては日本で五本の指に入る企業だ。
来週に控えた大手製薬会社の新化粧品発売発表のプロモーションのために、来月はCM撮影を企画し、製作依頼をする。そしてそのCMには日本で一番売れている旬な女優を出演させる。その交渉も潤一郎が実現させた。そしてプロモーションイベントや、PR広告や特設WEBページの準備に追われている。
この日も、いつものように取引先とメールのやり取りをしていた。翌日にクライアントと大事な打ち合わせがあり、決まれば大規模なプロジェクトとして本格的に動き始める。 打ち合わせ内容の再確認と、プレゼン資料の最終確認と忙しい日だ。
オフィスは恵比寿にある高層ビルの五階フロアにある。アクセスもよく、デザイナーズオフィスでおしゃれな内装である。共同スペースにはカフェラウンジも設置され、社員はいつでも利用できる。カフェラウンジ専用のスタッフもいる。潤一郎はいつものように自分のデスクでパソコンを使って仕事をしていた。大きなテレビはフロアの壁に設置されており、いつもワイドショーが放送されている。普段はテレビには見向きもしないが、この日はなぜかニュースキャスターの声が耳に届いた。
「事故の速報です。またもや高齢ドライバーの事故がありました。今日、目黒区の交差点で、高齢者の運転する自動車が歩道にのりあげました。目撃情報によると、横断歩道を渡っていた歩行者を巻き込み20メートル先で停止したようです」
潤一郎は、ニュースキャスターの声がいつもよりも鮮明に耳に入ったが、仕事で神経が高ぶっているのだろうと、気に留めることはしなかった。
ニュースの報道によると、加害者は八十五歳の男性。ブレーキとアクセルを踏み間違え、横断歩道を渡っている通行人をはねた。被害者は四人。時速は六十五キロだった。
潤一郎をはじめ、このニュースを終始聞き入っているものは誰もいなかった。このオフィスにテレビを設置しているのは、ニュース番組を聞くためではなく、自社の手がけたCMをリアルタイムで観るために過ぎなかった。テレビ番組を観ながら仕事をする社員はいるはずもなく、75インチのテレビは壁の景色のひとつとして存在しているだけだった。
*
ほどなくして潤一郎の携帯に、着信があった。見慣れぬ番号だが、出てみると目黒警察署からだった。
「こちら目黒警察署です。岡崎潤一郎さんのお電話ですね。真奈美さんと結さんが、事故に遭い病院に搬送されました。焦らずに来てください」
急遽仕事を切り上げ、急いでタクシーで東京共済病院に向かうと、警察官数人と医師が待っていた。事故状況と措置の説明をしていたが、潤一郎は混乱していて状況が飲み込めなかった。とにかく早く二人に合わせてくれと潤一郎が取り乱すと、治療室に案内された。
そこには横たわる真奈美と結がいた。
*
のちに解ったことは、その事故現場は、潤一郎の自宅のある目黒区柿の木坂から徒歩二〇分のところにある五本木の交差点。当時、真奈美と結はタクシーを拾うため、交差点の反対側に渡ろうとしていた。そして信号が青になり、横断歩道を渡っている最中、直進してきた車にはねられた。
救急搬送されたが、ふたりは地面に強く叩きつけられ、救急隊員が駆けつけた時すでに意識はなく心肺停止だった。
潤一郎は、仕事に集中すると、外部の音が耳に入らなくなることがよくあった。この時もニュースキャスターの声は聞こえたが、テレビ画面に意識を向けることはしなかった。 大事な取引先との最終確認の書類をつくり、メールのやり取りをすることが彼の一日で最も重要な作業だった。
妻と娘を突然奪われ、事故直後の報道に何一つ気が付かなかったことを悔やんだ。
ふたりはまだ生きていて自分が見殺しにしてしまったのではないかという罪悪感が潤一郎を失望させた。
*
それからのことを潤一郎はほとんど覚えていない。ただ彼のパソコン届いていた未開封のメールのうちの一通には、プロジェクトは同僚が引き継ぎ、無事に進行したと書かれていた。
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