第155話 女神の静め
「──────おい、速く歩け」
「はぁ……はぁ……少し、休憩しませんか?大分離れた筈ですし……」
「先の蒼風と赫雷を見なかったのか?私達が居るところは十分リュウデリア達にとって射程距離だ。何も残らないほど消し飛ばされたいのか?」
「彼等はどれだけ強いんですか!手の届く範囲が広すぎます!」
草原を歩いているオリヴィアとシモォナ。リュウデリアに投げられ、一気に距離を稼いでから自力で歩いて戦闘場所から離れ中、シモォナが脚の痛みを訴える。ずっと歩き続けているので疲れたのだ。戦いなんてものが出来る筈もなく、こんなに長距離を歩くことも殆ど無い彼女にとって、今の移動は中々に辛いものがある。
一方オリヴィアは、リュウデリア達と旅をしている中で長い距離を歩いてきたので慣れたものだ。それに歩いて自然を満喫する事も嫌いではないので単純に苦になっていない。というか、愛しい彼との旅は何から何まで楽しい。
話がズレたが、取り敢えずオリヴィアは減速するシモォナに厳しい声を上げて速く歩くことを促す。だがそれも仕方ない。先程まで、風域と雷域の中に居たのだから。攻撃されることは無かった。しっかりと力を操作していたから。だが攻撃の有効射程距離に居ることを察した。
リュウデリアに投げてもらったと言っても三十数キロが関の山。投げるときに潰れないように魔法を掛けてもらっていたので、かなりの力で投げられたが、まだ彼等には距離が必要だ。自身は回復要員であって戦闘要員ではない。彼等に比べれば塵芥程度の力しかないのだ。無論自覚している。だから邪魔にならないようこうして距離を取っている。
戦いに巻き込まれれば忽ち死ぬ。オリヴィアは純黒のローブがあるのでまだ大丈夫ではあるが、シモォナはそうもいかない。彼女は権能を発動し続けており、途切れさせるとこの時間軸に居るオリヴィア達が強制的に返還されてしまう。そうなれば神界は終わってしまう。神はあの獣に勝てないのだから。
神からの攻撃に対して、そもそも耐性を持っているというのに、獣は神を喰らえば権能を奪って自身のものに出来るという。明らかに神が不利。実際、戦いの神も黒き獣の親に手も足も出なかった。ならば親の獣よりも遥かに強い黒き獣には尚のこと勝てる道理が無いだろう。
今この時間軸で、必ずや獣を斃さねば神界は終わる。その為にはシモォナに死なれては困るのだ。オリヴィアはイマイチ理解していなそうなシモォナに早く来いと促し、歩く速度を上げさせた。
「……ん?」
「ふぅ……ふぅ……あれ、どうしました?オリヴィアさん」
「いや、何か近づいて来ているような……」
「えっ……何ですか?敵ですか?」
「解らん。だが何となくそう感じただけで……」
首の後ろがチリチリとした感じがしてきた。何かが近づいていると漠然と思い、その思いを自覚してから、確かに何かが近づいていると感じたのだ。つまり無意識だった。周囲を見渡してみても、特にそういったものが見えるわけでもない。
気のせいだったのか?と、小首を傾げるオリヴィア。自身はまだ他者の気配を察することができないので、単なる思い込みだなという事にしておいた。そんなことよりも、ちゃっかり休憩しているシモォナに歩きを再開するぞと言って、歩くために一歩踏み出したその時、遠くの方で地を唸らせる爆発音のようなものを聞いた。
オリヴィアとシモォナは驚いて音がした方を見ると、巨大な土の柱が立っていた。地面が独りでに爆発したような光景にシモォナは唖然とし、オリヴィアは瞠目した。何が起きているのだろうかと思った時、土の柱から2つの物体が現れた。黒と純黒である。
「──────クソガキの犬がァッ!!この俺から逃げられると思うなよッ!?お前は俺と殺し合っていればいいんだよッ!!無駄ことをするなァッ!!つまらん事で俺を苛つかせるなァッ!!」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
「あれは……獣!?」
「リュウデリアまで……まさかあっちが私達の所へ来るとはな」
突然現れたリュウデリアと獣に2度目の驚きを露わにする。まだ斃せていないことに不安を抱くシモォナと、普通に獣に対してキレてる彼に何があったのかと疑問に思うオリヴィア。それぞれの思いを抱いている2柱を傍目に、彼等は掴み合い、殴り合って転げ回っている。
上を飛んで移動していたリュウデリアは、高い視力で地上を駆ける獣を補足した。急降下して速度をもう1段階上げ、上から襲い掛かって叩き付ける。逃がさないよう鋭い指先を肩の肉に突き刺している。痛みに顔を歪めながら、どうにかその場から逃げようとする獣に、怒りのパラメーターが振り切れそうになった。
右拳を獣の顔面に叩き込んだ。破裂させるつもりで打ち込んだ拳を、どうにか寸前のところで衝撃吸収の権能を使用することに成功する。しかし怒りに任せながら雑さを感じさせない真っ直ぐとした拳は、ただ拳の威力を底上げさせただけだったがために、半分以上の衝撃を吸収しきれなかった。
地面にめり込もうと、肩の肉に突き刺さった指が離れず、上に持ち上げられて無理矢理対面させられる。そこへ頭突きを入れて額を割った。砕ける音と共に獣の額から血が噴き出る。噴出する血を浴びながら、リュウデリアは猛攻を止めなかった。左手は依然として肩を掴み、残った右手を拳にして顔や胴を中心に殴り続けた。
起き上がろうにも長い尻尾が片脚に巻き付いて立ち上がろうとするのを阻止してくる。右手で肩を肉ごと掴む左手を外そうとするが、肉に指先がめり込んで外れない。握り潰そうとしても純黒の鱗が硬く、詰まった筋肉でそんなことはできない。残る左手で対抗するように殴るが、倒されている状態なので全く威力が乗らず、リュウデリアの殴打に競り負ける。
獣は必死だった。痛みで顔の感覚が麻痺し、口の中に所狭しと並んでいた歯が何本もへし折られた。顎の骨も罅が入っている。このままでは本当に殴り殺されると悟った。死への恐怖。逃げたくても逃げられない状況に、獣はリュウデリアの首に左手を伸ばして絞め殺そうとした。しかしもう……その程度で彼は止められない。
首を絞めてきた左手首を右手で掴み、地面に押さえ付ける。片脚に巻き付けた尻尾を外し、今度は突き刺して貫通させた。鋭い先端を持つ尻尾だからこその芸当だ。ぐちゃりという音を聞いて、遅れてやって来た激痛に獣が叫んだ。大口を開けた絶叫の途中、リュウデリアが同じく大口を開けて獣の首に食い付いた。
鋭利な牙が首の肉に突き刺さり血を吐き出す。それをごくりと飲み込んでいくのが聞こえた。喰われる。殺される。噛み付かれ、牙を突き立てられ、肉を引き千切ろうとするリュウデリアに、獣は純黒の空間に引き摺り込まれる、身の毛もよだつ感覚を味わった。恐ろしかった。怖かった。嫌だと思った。頭の上の黒い輪にびしりと罅が入る。何かを失いそうな感覚を味わい、獣は後先考えず攻撃系に使える権能を彼に向けて放った。
「───────────ッ!!」
「──────ッ!チィッ!!」
閃光が奔った。続いて波のような音波を発生させた爆発が起こされ、リュウデリアは獣から弾き飛ばされる。魔力障壁を展開したのでダメージは無い。しかしまた視界が潰された。邪魔な砂塵に、翼を広げて1度の羽ばたきで全て吹き散らした。
気配が無い。何処へ行ったと周囲を見渡すも、見当たらない。また逃げた。逃げた逃げた逃げた逃げたッ!!殺し合いをしている筈なのに、戦うのが、殺されるのが怖くなって逃げ出しやがった。一連の過程を組み立て、怒りのパラメーターが限界を振り切った。体中の血管がぶちぶちと千切れていくようだ。
ゆらりと全身から靄のように純黒が昇っていく。足下が浸蝕されて蝕まれる。神物は離れた所に居るリュウデリアの爆発的に上がった魔力と気配に反応し、即座に離れるためにその場を放棄した。住処も縄張りも関係無く、本能に従ってリュウデリアから逃げた。
黄金の瞳が血走る。強く握りすぎて掌の鱗が砕けて落ちていく。噛み付いて食い千切ろうとした際についた獣の血の他に、食いしばり過ぎて歯茎からも流血して垂れ流しになる。触れれば核爆発も霞む怒りの塊が暴発し、規模が大きすぎる八つ当たりが周囲に撒き散らされるだろう。彼の手で神界が滅びかねない。だが止められる者が居ない。そう思われた時、一切の躊躇い、迷い、狼狽無く近づく影が1つ。
「■■■■■ッ!!フーッ……ッ!!フーッ……ッ!!■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
「──────リュウデリア」
「■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
「私だ、オリヴィアだ。落ち着いて私と一緒に深呼吸をしよう。ほら、おいで」
「フゥ……ッ!!フゥ……ッ!!■■■■■■■……」
他の総てを呑み込む純黒の中、オリヴィアは何も無かったように歩いて近づいてくる。ローブのお陰で影響を受けない。彼女はフードを外して素顔を見せる。愛しい者にだけ浮かべる優しい微笑みだった。彼の前にまでやって来ると、話し掛ける。刺激しないようにふんわりとした声色で。
両手を広げ、おいでと誘う。血走り、あちこちに揺れる黄金の瞳が止まり、撃ち放とうとして純黒の光を放っていた口内の莫大な魔力が霧散する。怒りで乱れた荒い息遣いも少しずつ治まり、両手を広げて待っているオリヴィアの元へ体を少しずつ倒し、顔を近づけていく。
獣とリュウデリアの血に塗れているというのに、気にした様子も無く上から降りてきた鼻先を抱き締めた。硬い純黒の鱗を掌で擦る。安心させるために。鼻がオリヴィアの匂いを吸い込んで肺に入れる。愛する者の匂いに、黒い思考に純白の光が差し込んだ。怒りに塗れた瞳に理性の灯が灯る。呼吸の幅も落ち着き、何時もの彼が戻ってきた。それを察し、オリヴィアは目を閉じて愛おしそうに微笑みながら鱗を撫でた。
「落ち着いたか?もう少し抱き締めていようか」
「……はぁ。大丈夫だ。すまなかった」
「ふふ。構わないとも。それにしても随分と怒っていたな。どうしてか私に教えてくれるか?」
「……分かった」
「す、すごい……あの状態を大人しくさせた……」
あぁ……死んだなこれ……と覚悟を決めるくらい怖かったリュウデリアが、たった少しの触れ合いで大人しくなった事に安堵と驚きを隠せないシモォナ。絶対殺されると思っていただけあって、背筋が伸びていた状態からその場でへたりこんで大きな溜め息を溢した。
鼻先から移動して、落ち着いたリュウデリアの目元に行って体を預けながら、どうして怒っていたのかと問うオリヴィア。怒っていた理由を聞いて吐き出させようとしているのだ。その考えを知ってか、簡単に事情を教えてくれた。
獣が分身をしたこと。それで分身を向けられたバルガスとクレアがヘイススに造ってもらった武器を解放し、忽ち殺した。その記憶を経験して武器を使わせまいとリュウデリアに来るのだが、それに気が乗って殺し合っていたら逃げ始めて追い掛けて此処まで来た。そしたらまた逃げやがったと。
一連の事情を聞いてオリヴィアは、それならリュウデリアがここまで怒るのも頷けるなと思った。戦うことというより、命を賭けた殺し合いを求めているリュウデリアをその気にさせて、敵前逃亡をするという行為は裏切りそのもの。八つ当たりをしようとしても不思議ではない。
「なるほどな。それは獣が悪い。リュウデリアは悪くないぞ。あ、それにしても随分時間を取らせてしまったな。獣が逃げているというのに……」
「気にする必要は無い。奴の首に噛み付いた時、居場所が解るようにマーキングの魔法を施した。何処へ逃げようと俺の掌の上だ」
「そうか、流石だな」
「絶対に捻り殺してやると決めたからな……何だ?」
「……?」
何かに反応するリュウデリア。オリヴィアが身を寄せて鱗を撫でるのを目を閉じて甘受していた状態から目を開き、頭を持ち上げてある方角を向いた。こういう時は大体何かが起きた時だと経験から解っている彼女は、どうしたのかと問い掛けた。
「──────獣の気配が膨れ上がった」
気配をできるだけ殺しながら、獣は駆けていた。脚を突き抜けた尻尾の所為で走る速度は遅くなり、無理矢理自身の上から弾き飛ばしたのが災いして肉を突き破って捕らえられた肩の肉は殆ど毟り取られ、首の肉も抉れて血が止まらない。それでも
途切れそうになる意識を痛みで繋ぎ止めて、瞬間移動も織り交ぜながら長距離を移動する。やがて見えてきたのは、神々が住まう国の、最も神が集中している王都だった。その近くで、獣は神の方に目もくれず、稼働できる左腕を振り上げ、大地に打ち付けた。
「■■……■………■■■■■■………ッ」
肘辺りまで突き刺さった腕。何をするつもりなのかと思えば、腕を突き入れた地面が薄青く光を放つ。その光は獣の腕から全体に広がっていく。途切れそうだった意識は明瞭になり。肩や首の抉れた肉が修復されていく。やがて傷一つ無くなった体はそれでも光を浴びて吸収し続けていく。
獣が居るのは神界にも存在する龍脈である。神界の大地に張り巡らされた血管のようなもの。そこに流れるのは無限の大地故に莫大という言葉では表せないほどのエネルギー。獣はそのエネルギーを吸い取っているのだ。衝撃吸収の他に、親の獣が喰らって奪っていた吸収という権能。それを使って龍脈に流れるエネルギーを奪い取っていた。
頭の上に浮かぶ黒い輪。罅が入っていた状態が元の傷一つ無い状態に戻り、輪の外側に第2、第3の輪が発現した。存在を強化した獣は、雄叫びを上げる。
──────────────────
獣
リュウデリアに恐怖を抱いたが、殺すことを諦めた訳ではない。今の状態で殺せないならば、殺せる状態になればいい。
リュウデリア
怒りのパラメーターを振り切った。もう何も関係無しに八つ当たりで周囲を滅ぼそうと口の中に魔力を溜めていたが、オリヴィアのお陰で鎮まった。でも獣への怒りは消えていない。殺さないと怒りは消えない。
オリヴィア
怒り狂った殲滅龍を鎮めた純白な治癒の女神。彼女じゃないと止められなかった。
あの口から漏れてる純黒の光を解放したら、取り敢えずここら一帯全部無くなるな……と思ったので止めることにした。
怖くないのか?リュウデリアに怖いところなんてないだろう?優しくて可愛いじゃないか(狂気)
シモォナ
短時間で一体何度死ぬ思いをすればいいのか解らない。その内心臓に毛が生えそう。でも怖いものは怖い。
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