天空に向かって走れ

いちはじめ

天空に向かって走れ

「痛みを感じないのであれば、松葉杖なしで歩行しても大丈夫。後はリハビリで徐々に回復させていきましょう」と患者に背を向けたまま医者が事務口調であっさりと告げた。

 隣で母が良かったわねいい先生に診てもらって、と恐縮しながらしゃべっている。

 何が良かったのよ、この大事な時期に全治三か月の剥離骨折をやらかしてしまったのに、と少女は腰をさすりつつため息をついた。

 しかし今日の診察で、ようやく松葉杖の生活からは解放され、歩行のリハビリに入ることができる。

 少女は、中学で陸上の短距離走に没頭し、そこそこの成績も残していた。高校ではもっと高みを目指すつもりで、陸上部をメインに学校を選んだくらいだ。だがその意気込みが仇となった。受験勉強の間になまっていた体が、久々のハードワークに耐えらなかったのか、あるいはこの時期の少女にありがちな急激な体の成長が災いしたのか、骨折を起こしてしまったのだ。

 部活の手伝いをしながらでもリハビリは可能であったのだが、惨めさが更に募るようよう気がして彼女は休部していた。

 そういう訳で、家からさほど遠くない河川敷の遊歩道が、少女のリハビリの場所となった。

 ――ああ情けない。

 河川敷をひょこひょこと歩きながら、心に浮かぶ思いはそればかり。ため息が出てしまう自分に、更にため息を重ねてしまう。医者は元戻るというが、普通に歩けるのと、競技で納得いく走りができるのとでは訳が違う。また気持ちよく風を切って走ることができるのだろうか。まだ思うようには動かないこの足のことを思うと、不安ばかりが先に立って、いっそのこと陸上を諦めようかとさえ少女は思い始めていた。

 ある日いつものように河川敷でリハビリをしていると、川縁の背の高い茂みから鳥の鳴き声がしてきた。何だか様子がおかしい。少女が少し気になって茂みの後ろに回ってみると、打ち捨ててあったネットに、足を取られた大きなアオサギがバタバタともがいてた。

「可哀そうに。いま外してあげるから暴れないでね、お願いだから」とゆっくりと近寄って行くと、アオサギは羽を大きく広げて、グァと鳴き威嚇してきた。少女は怖くない、怖くないと心で唱えながら、立ち止まっては少しずつ距離を詰めていく。そうしているうちに意図を悟ったのか、アオサギは威嚇を止め、長い首を少し傾げながら、真ん丸な目で少女を不思議そうに見つめている。もう足に触れるところまで来た。恐る恐る手を伸ばし絡まったネットを解していくと、スッとアオサギの足が抜け、そのままアオサギはグェと一鳴きして飛び立っていった。

「良かった、どこもケガしてなさそう。最後の一鳴きはお礼だったのかな? でも恩返しくらいはしてほしいものだわね」と小さくなっていくアオサギを見送った。

 あくる日、少女が河川敷で再びリハビリに励んでいると、一羽のアオサギが少女の目の前にひらりと舞い降り少女を見つめた。そして少女の歩く先歩く先に、舞っては降りることを繰り返した。

「昨日のアオサギ? 何よ、私がちゃんと歩けないからからからかっているのね。しゃくに障る」とムキになって歩いていくが、やはり追いつけない。

 その日以降、アオサギはたまに現れては、少女の歩行の具合を確かめるように、例の動作を繰り返した。

 そして少女の足は、歩行には全く支障がない状態まで回復し、リハビリは次の段階、ジョギング程度の走行へと移っていった。

「そのうちに追いついてやるから」

 いつしか少女にとってアオサギはリハビリのパートナーになっていた。

 そして医者から、もう陸上を再開してもよいと告げられた翌日、少女は陸上競技の出立ちで河川敷に立っていた。医者からのお墨付きはもらったものの、本当に全力で走れるのだろうか、また骨折するのではないだろうか、と少女の心は不安に揺れ動いていた。

 ――怖い。

 なかなかスタートを切ることができないでいる少女の前に、あのアオサギが舞い降りた。ほらほらと少女をせっつくように大きく羽をばたつかせている。

「あんた、私の全力疾走見たことないでしょう。いいわ、見せてあげる」

 意を決した少女がスタートを切る。

 アオサギを目指してぐんぐんと加速していく。

 アオサギは動かない。

 このままではぶつかろうかという寸前、アオサギは瞬時に舞い上がると、少女と並走するように低空を滑空し、そしてそのまま大空へと飛翔していった。

「やった、私、走れた」

 全力で走り切った達成感と安堵感が心を満たしていく少女の耳に、天空からアオサギの鳴き声が届いた。

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