第16話 浮気
「腕が太くなりましたね」
たっぷりの泡で背中全体が包み込まれる。ゆっくりと大きな円を描きながら、全体を撫でてくれる。一枚一枚、薄皮が剥がれていくようだ。
新婚時は風呂場が狭すぎて、二人での入浴はとても無理だった。子供が生まれてから風呂場の大きいアパートに移ったが、その時は子供に妻をとられてしまった。今思えば、風呂を共にして背中を流してくれていたら、浮気心など起きなかった? いやいや、それはどうだったか。
そもそも浮気といえることかと、腹が立ってきた。良くある話で、残業に付き合わせてしまった女子社員に夕飯をごちそうしただけのことなのだ。「近くのファミレスでの食事ならいいですよ」と、妻に詰られた。「どうしてわざわざ居酒屋なんですか」と問われれば、答えに窮してしまう。わたしの気持ちの中に下心がまるでなかったとは言わない。
残業を終えて外に出ると、辺りは暗くなっていた。空を見上げると、星が瞬いている。久しぶりに見る夜空だ。普段ならば気にもとめることなくそそくさと家路につく。「じゃ、ありがとう」と言うつもりの言葉が「食事でもどう?」となってしまった。
息子を妊娠した折りに、一度だけ風俗店に入ってしまった。そのことがバレて、チクリチクリとことあるごとに責められた。今回のことにしても、本気で疑ったわけではないはずだ。 怒りの気持ちが湧いてきた。あいつの、一時の短気のせいで別れる羽目になったのだ。子どもたちとの関係にしても、あいつが遮断してしまったのだ。
「なあ……」
妻に声をかけた。返事が返ってこない。改めて声をかけた。
「なあ、お前……」
誰かがいる気配はあるのに、返事が返ってこない。しかし振り向く勇気はない。「今さら嫌ですよ!」。そんな言葉が怖いのではない、わたしにしても、もう一度夫婦に戻りたいなどとは思っていない。一人の気ままな生活にどっぷりと浸かってしまった今、窮屈な生活はごめんだ。
悪友たちが代わる代わるに問いかけてきた。
「どうして離婚だったんだ?」
「浮気は、単なるきっかけに過ぎなかったんじゃないか?」
結婚前夜の悪友たちの「好きな男と、泣く泣く別れた」という言葉が、頭を駆け巡っている。その真偽のほどを確かめたいと思うが、中々口に出せない。猜疑心だけが大きく膨らんでいくだけだ。
そもそも、妻のことなど知りはしない悪友たちだ。単なる冗談話に過ぎないのに、いつまでも気持ちの中に残ってしまっていた。妻の親元に挨拶に行った折のことだ。アルバムが持ち出され、その中にあった一枚の写真が、わたしを苦しめつづけた。なにげない戯れだったのかもしれないー妻の頬に押しつけられた若い男の唇が、今でも鮮明に浮かんでくる。
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