リモコン
いちはじめ
リモコン
今朝もすし詰めの通勤電車の中で揺られている乗客は、まるで苦行僧のような顔をして皆押し黙っている。
――よくもまあ毎日こんな状態で、皆正気を保てるもんだ。いや、俺を含めて既におかしいのかもしれない。
半年ほど前のことだ、俺はいつものように電車のつり革に掴まり揺られていた。片方の手を何の気なしに上着のポケットに入れたところ、何か堅いものに触れた。取り出してみるとそれは名刺大の薄いリモコンだった。
――はて? 何のリモコンだろう。
赤い丸いボタンと、二つの三角形のボタンがあるだけの単純なリモコンだったが、何のリモコンかは思い出せなかった。しばらく赤いボタンや三角形のボタンを押したりしてリモコンを弄んでいたが、妙なことに気付いた。斜め前のロングシートに座っている女の様子が少しおかしい。OLらしい女が、俯いて身をもじもじよじらせ、時折うんうんと喉を鳴らしている。確かさっきまで姿勢よく静かに本を読んでいたはずなのだが。
女は次の駅で、慌てた様子で電車を降りてしまったが、一瞬こちらを睨んでいたような気がした。
その後リモコンのことは、自分の部屋に帰り、上着をハンガーに吊るすまではすっかり忘れていた。改めて見てみるとリモコンの裏には知らない企業名があった。ネットで検索してみると、その会社はアダルトグッズのメーカーであった。
――ローター?
思い出した、これはアダルトグッズのローターを遠隔操作するもので、以前付き合っていた彼女と、興味半分で使っていたものだった。彼女とはとうの昔に別れたが、何故だかリモコンだけが服のポケットに残っていたようだ。
――だとするとあの女はリモコンに反応していたのか、通勤電車の中で?
次の日から、女を見かけたらそのことを確かめようと、同じ時刻の車両に乗るようにしたが、ついぞ女を見かけることはなかった。
もうそのことを忘れかけたある夜のこと、飲んだ帰りの遅い電車であの女と居合わせた。シートの真ん中にちょこんと座り、書店のカバーが掛かった文庫本を読んでいた。
俺の酔いは一気に吹き飛び、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。不審がられないよう彼女の座るシートに近づき、この時の為にポケットに忍ばせていたリモコンのボタンを押した。
その瞬間、女の体がピクッと動いた。女はため息をつくと、読んでいた本を膝の上に置き、俯いて目を閉じた。女の息が乱れている。
――間違いない、リモコンに反応している。
俺は緊張と興奮で手が汗ばむのを感じた。たまらず手をポケットから抜こうとして、はずみでリモコンをシートの上に落してしまった。気が動転した俺が身を固くしていると、女が落ちたリモコンを取り、俺を見上げるとにっこり笑ってこう言った。
「リモコン落としましたよ、スイッチは切っておきますね」
俺はその場から逃げ出したい一心で、車両を移動し電車が次の駅に止まるや否や、転がるように降りた。ホームで膝に手を付き、荒い息を付いていると、後ろから声を掛けられた。驚いて振り向くと女がいた。
「このことで心配しているの?」
女はローターを俺の目の前にぶら下げて、口の端を上げニヤリと笑った。
「ホントに使っていると思った? 俯いて、もじもじしてるから感じていると思った? ホント男って単純」
俺の膝はがくがくと震え、立っているのがやっとだった。
「こんなことされると迷惑なのよ。客でもないのに、いきなりリモコンを取り出して、こともあろうか、私の目の前で電源を入れるなんて。あなた何なの?」
女は遠隔操作のローターのリモコンを客に貸し、通勤電車でそれに反応する姿――それは演じているだけ――を見せて小遣いを稼いでいるのだという。
俺はしどろもどろに事情を説明した。
「その話を信じるとしても、迷惑は迷惑、その償いをしてもらうわ、いいわね。なんなら私がここで騒いでもいいのよ」
女は俺に小遣い稼ぎの片棒を担ぐことを命じた。今まで通り客は自分で募るが、金銭とリモコンの授受を俺に担当しろという。何度かトラブルになりかけたことがあるらしい。
「女だと思って舐めてくるのよ。うまいことやってよね」
俺に断る術はなかった。
正気を逸した女と男を乗せた満員電車の中で、今日も俺は客に渡すリモコンをポケットに忍ばせている。
もう俺が正気かどうか考える気も起きない。
リモコン いちはじめ @sub707inblue
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