匂いのない華
樹 亜希 (いつき あき)
第1話
あ、もうこんな時間だ。
私は急いで洗面台の前に丸椅子を持ってきて座る。赤いバニティケースにいつも使っている化粧品がぎっしりと入っているので左手で持ってどんとおくが、これを開けるのは毎回気が重いのである。これらを買うお金を出してくれたのもあの人、私が誰よりも美しくあるために、百貨店の化粧品売り場で何万円という金額を惜しげもなく支払う人が私にはいる。
これから戦闘態勢に入るための武装をするために仮面を付けるコトは私にとって必須なのだ。笑いたくもないのに、酒とタバコの香りのなかで男たちの愚痴を聞いてそれを自分は吐き出すところはない。夜の仕事は高額なバイト代を得られるがそれなりに気苦労が多い。相手を楽しませて、聞き役に徹する上に、きちんと切り返しもしなければならない。
私は香那(かな)、源氏名はみやび。
夜の時間はサパークラブで十二時まで笑いたくもないのに、顔に微笑みを浮かべる。そのあと、もしも、自分が拒むことなければアフターがついてくる。お金、そう、すべてはお金の為に。紫の煙のなかで私は夢の為に今日もさまよう視線を無理に一点に注ぐ。男たちの視線の中で私は蝶になる。次から次へとテーブルを渡り、そこでまた、酒を造り飲ませて売り上げを上げること、そうして得たお金で私は自分の夢を買う。
私は美大の学生でこの夏休みにルーブルへ一ヶ月留学することが決まっているので纏まった金額が必要だった。両親を早くに亡くした私は親戚の家を高校卒業してからは自分の暮らしを自分でまかなってきた。
人並み以上の容姿がある訳ではない、だがほどよく整っている顔は得意な油絵と同じく、化粧でかなり華やかな顔に仕上げることができる。
昼はいつまでが昼で、夜は朝が来るまで。
だとすれば、昼と夜に狭間に私は美大の学生からホステスへと変身するのだ。夕方六時から七時の間に自分の顔をキャンバスに見立てて、化粧を纏い気持ちを切り替える。太陽が沈む、それが夜になる合図ではない。季節によってそれは変わってしまうから。私は昼と夜のはざまで、姿形を変える。
昼ご飯を三時に食べる人だっているだろうし、夜の仕事は水商売だけではない。夜勤の仕事だって昼と夜が逆転している。
とても曖昧で、個々人の認識で違ってくるのだと私は思う。
さあ、行こう。衣装は店の更衣室に置いてある。あんなものを身につけて道を往くには派手すぎる。実の父など知らない、母も語らない。私には必要なお金が絶対的に足りない。母ももうこの世にいない。
愛情など必要とはしない。好きな男はいる、でも彼に愛情があるのかは分からない、のめり込んで自分が惨めにも切り捨てられるのが嫌なだけ。だが、幸浩が私を愛しているというから、一緒にいる。彼の懐は温かく、安らぐ。自分を愛してくれる人、やっと見つけたと思ったけれどこれが本物なのかは私には分からない。彼に秘密を持っているコトが苦しくて一緒に眠る夜も、私は安心できない。
それが私の生きる道、選んだ訳じゃない。誰が選んでこんなことをすると思う? でも、そうしないと夏休みに海外留学もできやしない。夏休みにルーブルへ行ってそのあとは各地を旅行して、スケッチをして、そして写真を撮る。私の瞳のシャッターを切る。夢だった、私の長年の夢が叶う。自分の絵画が認められる為にその短期留学は必須だ。先月大学の推薦で応募された私の作品がフランスの大学で賞を取ったと准教授から告げられたことが自分に訪れたチャンスだった。プロの画家になろうとなんて思っていない、それで生活なんて成り立たないから。大学院に進んで大学に残るか、美術教師になるか、それとも……。工業デザインでも就職は難しい昨今、西洋画を専攻して普通の会社になんて勤務できるはずもない。学芸員をしながら院展に向けて描くことだけができれば。でもそれだとアルバイトをこのまましなければ生活は成り立たないのだ、やはり。
私は絵を描いている時だけが本当の自分だと思える、打ち込めるものをやっと見つけた、少しお金が掛かることを除いて。
玄関に置いた桔梗の花が揺れている。
「行ってきます」
私は紫のの花に声をかけた。返事はないが帰宅してもきちんと花は開いて私の帰りを待っている。先日小さな鉢植えを買った、枯れたナデシコの代わりだ、かわりはいくらでもある。そう、私のかわりも、誰かのかわりも。
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