第二章 赤ずきんはいない

第1話 安寧の選択


 春日部超能力研究所。


 主に超能力を抑え込むリミッター開発の研究を行い、現在特許を取っているリミッター技術は超能力犯罪者を逮捕する際に使われる手錠に利用されており、社会的にもそれなりに名が知られている。


 白い建物の内部は幾度となく通らなければならないセキュリティの扉があり、いくつもの関門を抜けて美女は自分の研究室にたどり着く。毎日のプロセスとはいえ、慣れるには多すぎる面倒な過程。


 彼女はアメリカ人で、ウェーブのある長い天然ブロンドは前髪と共に後ろで簡単にまとめていた。横髪だけを左右に垂らす。

 研究員として白衣を着ているが、その下はグラマラスな流線形の体型が目立つ服。


 ライザ・ジェットギンズ、二十七歳。


 この研究所において、六つの特許に関わる研究成果を上げており、美女であるというだけではない理由で注目を浴びる一人だ。


 自席のパソコンに向かうと手慣れた手つきで生体認証を行い、流れるような作業でソフトを起動する。そして二度目のコード入力の認証をクリアし、やっと仕事に取り掛かる環境が整った。

 さぁ、やるか! と気合を入れた所なのに後ろから邪魔になる軽い声がかかる。


「ライザ、あいつと別れたんだって?」


 その手にはコーヒーの入ったカップを二つ。あまり真面目そうには見えない白衣姿の研究員の男が、持っていたコーヒーのカップの一つを、にこやかにライザと呼ばれた女性の机に置く。


「いらないわ。置かないで、邪魔だから」


 目線すら向かない事に気付いて男は小さく舌打ちをすると、コーヒーを回収し立ち去って行く。その姿を見送る事もなく金髪の女性は、モニターに流れる文字だけをひたすら追う。

 そんな女に、軽薄そうな男は肩越しに視線を送るが、先ほどの好意的な様子はすでになく今は実験対象を観察する時の目だ。鼻から溜息にも似た息を吐きだすと、両手にコーヒーを持ったまま彼のためにしつらえられた研究室に入り、日課となった観察記録のような硬い内容のメールを書いて送信ボタンを押した。



 彼女が同僚男を無視して読んでいるのは、超能力の発生理論を紐解いた論文。

 これを書いた男とライザはここ数年、同僚の枠を越えて男女としての付き合いをしていた。

 もう終わってしまったが。

 当然のごとく、彼女から終わりにした、はず。


 嫌いになったという訳ではない。


 安定志向の彼女にとって目的のためには全く手段を選ばない強引な彼とは、どのみち長続きしなったとも思われたし。

 未練がないか? というと「ない」と答えるのは嘘になってしまう。そんな強引過ぎる所も彼女が好んだ要素だったからだ。男の方が二歳年下という事もあっただろうか。自分にはすでにない、無謀とも思える若々しい向上心に憧れを持った。


 画面のスクロールを止めて、目を閉じる。


 しばらく心の整理をしていたが、ライザは再び論文の読み込みに戻り、すべてに目を通し終えると決断した。


――だめだわ、危険過ぎる。


 彼の理論は納得できてしまう要素が多く、真実に近いようにも思えた。しかし時代がまだ、この理論を受け入れられる所まで来ていないと彼女は判断する。


 判断はしたものの、元来そのような判断を下す権利は彼女にはない。


 発表すれば学会は震撼するだろうし、もし理論の証明ができれば自分を差し置いて彼が社会的な成功者になる。それに対する嫉妬。


 彼が自分を越えて行く……。


 「先輩、先輩」と追いかけてくれていた、かつては子犬のようだったひとが。

 自分の後を追ってこの研究所に入ってすぐに周囲から一目を置かれていて、あっという間にその知性が広く知れ渡った彼。反比例して、影が薄まっていく自分。

 それを認めるのがとにかく嫌だった。


――嫌だ、今のこの地位を失うのは。やっとここまで来たのに。


 女はサーバーにアップされていたデータを含め、その論文に関する全ての記述と記録を抹消した。消し終えた後、自分が大罪を犯したという罪悪感に襲われる。


 すでに彼はこの研究所を去っている。

 その彼のデータが消えたところで。今更、……罪が追加されたところで。


「ライザ君」


 突然後ろから年配の男の声がして、女はビクっと体を跳ねるように震わせた。

 振り返ると、綺麗に禿げ上がった老齢の、随分と恰幅の良い男が白衣姿で立っている。その顔がわずかな怒りをたたえているように見えたのは、彼女に後ろめたい所があったからだろうか。


「所長、何か御用ですか」

「以前、君が提出した報告の件だが、調査の結果そのような事実は見つからなかったのだが?」

「間違いが、ありましたでしょうか」


 所長と呼ばれた男は、目を閉じて深い溜息をつく。


「優秀な君の言う事だからと、精査せずに決断をした事を後悔している」

「はっきりおっしゃって下さいな」

「ライザ君、君は嘘を並び立てて彼を陥れたのか」

「わたくしが、ですか?」


 女は高笑いと言ってもいいほど、堂々と笑い出した。


「わたくしは、事実をきちんと報告いたしました。彼が情報を他の研究所に漏らしていたことは間違いありません。証拠も添付いたしました。それにこの事が原因で、わたくしたち、お付き合いも解消しましたのよ?」

「ライザ君」

「そのような事をしでかした男と一緒にいたからと、わたくしまで、情報漏洩をしたのだと疑われるのは心外ですわ」


 キリっとした目つきで、老齢の男を睨み返す。


「勇気を持って告発したわたくしを弾劾しようというのですか、所長は」


 意図的に論点をずらすライザに、所長は口ごもる。


「わたくし、本日中に書き上げたいレポートがございますの? 仕事に戻ってもよろしいでしょうか」

「……この研究所は、君まで失うわけにはいかないが」


 所長は含みのある言葉を残し、部屋から出て行った。

 ライザはモニターに向かい直し、キーボードをガシャっと両手で叩く。


「何も変えたくなかったからなのに。なんで変わっていくの……!!」


 ライザは孤独を深めていく。



 彼女は環境が変わる事への恐れから逃げ出し、一人になってしまった一匹の狼。

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