第22話 彩佳再訪

 高校二年生の夏休み初日。

 一年ぶりにバスターミナルに降り立った彼女に僕は見とれていた。

 スマホで会話はしていたし、写真も動画も見ていた。でもやはり実際に目の前に現れた彼女を前にしたとき、僕は言葉が出てこなかった。

 一年の歳月の重み、膨らんでいった期待、そして彼女への想い。僕の頭の中に様々なものがわき起こって渦を巻いていく。

 言いたいことはいっぱいあった。妄想の中で会話の練習もしていた。でもいざ彼女を前にすると、何から言うべきかすべて吹っ飛んでしまっていた。

 こめかみを汗が一筋流れていく。僕はそれをぬぐうことすらできなかった。

 それでも、水色のワンピースに白い帽子の彼女はそんな僕の目を見て微笑んでくれた。

「ただいま」

「おかえり、彩佳」

 僕らの夏は再び始まったのだった。

 一年前と同じように柳並木の大通りを歩く。今年もまた夏祭りの提灯がぶら下がっている。

 彩佳さんがまぶしそうに提灯を見上げながらたずねた。

「今年もお祭りあるんだよね?」

「うん、今週の土曜日が夏祭りで、来週の土曜日が花火大会だよ」

 今年の花火大会で僕はちゃんと告白するつもりだった。

『伊佐よりも君が好きだ』

 花火の音に負けないくらい大きな声で彼女に僕の気持ちを伝えるつもりだった。

 それまでに一年分の距離を縮めたかった。

「去年のと同じだけど、浴衣も荷物に入れて沙紀ちゃんの家に送ってあるんだ」

「下駄は?」

「あ! なんて、ちゃんと用意してあるもん」

 わざとらしくすねてみせるのもかわいい。

「少し髪切った?」

「え、分かる?」

「いや、実はその、もし切ってたら、気づかないと怒られるだろうし、切ってなくても、一年ぶりで印象が変わったってごまかせるかなって。だから、先に言っておこうと思ってね」

「正直すぎるよ、カズ君」

 彩佳さんが帽子を取って口元を隠しながら笑っている。

 きれいに整えられた髪が真夏の日差しに輝いている。口には出せないけど、きれいだ。

 つい見とれてしまっていると、見つめ返されてしまった。

 照れくささを隠すために、僕はたずねた。

「去年のクイズ、覚えてる?」

「なんだっけ?」

「ほら、しもむらに帽子を買いに行ったときにさ、沙紀の髪型はどんなふうだったかって聞かれたじゃん」

 彩佳さんが大きく目を見開いてうなずいた。

「そんなこと覚えていてくれたんだね」

 僕の持ち出した思い出話を彩佳さんは喜んで聞いてくれていた。

 よかった。ちゃんと話ができた。

 久しぶりに会って、なんか思ってたのと違うとか言われたらどうしようと、実は不安だったのだ。

 よかった。

 一年間育んできた気持ちに間違いはなかったのだ。

 帽子をかぶり直した彩佳さんが手をたたく。

「じゃあ、今年の第一問」

 僕の頭の中で、デデン! というジングルが響いた。

「キライの反対はスキ。じゃあ、スキの反対は?」

「キライ?」

 くすりと笑いながら首を振る。

「ちがうよ」

「キライじゃないの反対はスキじゃない。あれ、違うか。スキ? キライ? なんだかわけが分からなくなっちゃったな。逆、裏、対偶?」

「論理学じゃないよ。かんたんなナゾナゾだよ」

 と言われても、考えれば考えるほど混乱してしまう。

「私、答えられないカズ君もキライじゃないよ」

「それは好きではないってこと?」

「まさか、ちがうよ」と彩佳さんがちぎれそうなくらい両手を振る。

「じゃあ、はずれ?」と僕はたずねた。

「え、ナゾナゾのこと? それとも……」

 ん?

「それとも?」

 彩佳さんのおでこが急に赤くなる。

「違う、違うの。じゃなくて、うん、違うの、かな」

 彩佳さんが急に駆け出す。待ってよ。

 僕を置いてコンビニ前の信号を渡って向こう側から振り向く。歩行者用信号は赤に変わって車の列が動き出してしまった。

「先に行ってるからね」

「迷子になるよ」

「沙紀ちゃんの家くらい分かるもん」

 彩佳さんがぺろりと舌を出す。

 一人取り残されて、僕は額の汗をぬぐった。

 コンビニでアイスを食べる予定が狂ってしまった。

 オクラの花が咲いていることも教えてあげたかったんだけどな。

 やりたいことがたくさんありすぎる。

 まあ、焦ることはないか。

 信号が青になって、僕は全力で彼女を追いかけた。

 その日は、みんなでヤキソバを作って、その後、花火をやることになっていた。

 うちの父親が本社に出張中で、母親は夜勤でいないから僕の家が会場になったのだ。

 自分の部屋の掃除は昨日のうちにやってあったし、いったん彩佳さんと沙紀の家の前で別れて戻ってきてからは、キッチンとリビングの掃除もした。ホットプレートやら、皿のセッティングも完了。材料は沙紀が用意してきてくれる。準備は万全だ。

 夕方、まだ夏の日差しがぼんやりと残っているころ、外から声が聞こえた。

 来た!

「いらっしゃい」

 僕が扉を開けると、インターフォンのボタンを押そうとしていた沙紀がにやついていた。

「あら、お待たせしちゃったかしら?」

 いえいえ、こちらこそ前のめりですみませんね。

 お互いに目で会話しあって、中に招き入れた。もう戦いは始まっているのか。

 大知がスイカを運んできてくれた。

「よう、今村、冷えてるぜ」

「ありがとう。冷蔵庫のスペース空けておいたよ」

 彩佳さんはサンダルをそろえて上がってから、ぐるりとリビングを見回していた。

「おじゃまします。なんだか緊張するね」

 沙紀が彩佳さんの腕をつつく。

「今夜泊まっていけば?」

 彩佳さんが首をかしげる。

「パジャマ持ってこなかったよね」

 沙紀がくすくす笑い出す。

「あたしじゃ、出てこないな、こんな模範解答。ね?」

「お、おう」

 急に言われた大知が曖昧な返事をしている。

 沙紀が僕に耳打ちする。

「ていうか、パジャマいらないとか?」

 まったく、何言ってるんだか。

 微妙な空気が漂って誰も動き出さなかったので、僕は大げさな身振りで沙紀の持ってきた材料を並べ始めた。

「お、さすがだな。野菜切ってきてくれたんだね」

「そりゃそうよ。料理は任せてよ」

「ホットプレートのスイッチはさっき入れてあるから、気をつけてよ」

「あんたにしちゃあ、気が利くじゃないこと、セバスチャン」

 執事にされるのは去年の夏祭り以来だ。

「ご褒美に紅ショウガを二倍にしてあげるからね」

 勘弁してよ。

 ホットプレートに野菜を投入して、パーティーが始まった。

 沙紀と彩佳さんの二人で手際よく炒めて、僕が麺を投入。大知は麺の袋をポンとたたいて破く役だ。

「麺は少し焦げ目がつくくらいが好き?」

 沙紀が大知にたずねる。

「おう、それもいいな」

 ジュウジュウという音と、野菜をひっくり返すたびに上がる湯気が食欲をそそる。

 だいぶいい感じに炒め上がってきた。

「あたし飲み物取ってくるから、ちょっと替わって」

 沙紀が大知に菜箸を渡してキッチンへ行く。

「そろそろ、これ入れるか」

 大知が彩佳さんに粉末ソースの袋を渡す。

「じゃあ、かけちゃうね」

 パラパラと円を描くように粉を振っていく。

 ただの付属の粉末ソースなのに、おいしくなる魔法の粉のように見えた。

「ねえ、カズアキ」と、キッチンから沙紀の声がする。

「なんだよ」

「麦茶ってどこにあるの?」

 ん、麦茶?

 小学生の頃から何度もうちに来て知ってるだろうに。

「いつものところにあるだろ」

「ないよ」

 そんなはずはないんだけどな。

「いつものところって、夫婦みたいだね」

 彩佳さんの言葉に大知が苦笑する。

「あいつ、俺のうちの麦茶の場所は知らないぜ」

 アッと彩佳さんが手で口を押さえる。

「しょうがないな、ちょっと見てくるよ」

 場の空気を変えるために僕は立ち上がってキッチンへ行ってみた。

「なんだよ。麦茶ならあるだろ」

 声をかけると、冷蔵庫のドアから顔を出した沙紀が片目をつむってささやく。

「あんたさ、さっさとコクっちゃえよ。協力するよ」

 なんだよ、そういうことか。だからわざわざ呼んだのか。

「いいよ」

「ヘタレ」

「そうじゃなくてさ、いろいろ考えてるんだよ」

「考えてないで、勢いでいくのよ」

「いや、ほら、雰囲気とか大事だろ」

「心配なの?」

 それはない。遠距離とはいえ、今まで一年間スマホで話をしてきたし、今日だって、何の違和感もなく話せている。

「大丈夫だよ。花火大会で告白するって決めてるからさ」

「うわお、期待してるからね」

 沙紀がいつものところから麦茶を取り出して僕の肩にポンと手をのせた。

「雨だったら? 告白も雨天中止?」

 まずい、それは考えてなかった。

「カズアキ」

 ん?

「雨の方が心配なら、大丈夫だね」

「どういうことさ」

「あんたビビリだから、直前におしっこ漏らさないかと思って」

「食事中です」

「まただ、ごめん」

 ぺろっと舌を出して沙紀はもどっていった。

 でも確かに、雨のことは考えていなかった。

 天気ばかりはどうにもならない。そのときはそのときだ。

 一つの傘に招き入れて彩佳さんと二人で散歩するのも悪くない。

「カズアキ、ヤキソバできたよ。早く来ないと紅ショウガまぶすよ」

 おっと、妄想にふけっている場合じゃないか。

 紅ショウガを増量される前に僕もリビングに戻った。

「おう、今村、大盛りにしておいたぜ」

 大知が僕に渡してくれる。

「ちょっと、ヤマト、あんたね」

 沙紀が口をとがらせる。彩佳さんに渡してもらおうとしたんだろうけど、いいじゃないか。

「じゃあ、いただきます」

 ヤキソバ・パーティーは野菜たっぷりで大満足だった。

「どうしよう。去年も二キロ増えちゃったけど、今年はもっとハイペースじゃない?」

 彩佳さんがお腹を押さえながら沙紀と笑い会っている。

 僕は聞いてないふりをしていた。去年、女子の体重を聞くなんて逆さ磔ものだと怒られたからだ。

 そんな僕を見て沙紀がにやける。

「何キロって聞きなよ。つまらん男だな」

「おまえは何キロなんだよ」

「逃げたよ、コイツ」

 沙紀と僕のやりとりを見て彩佳さんが笑っていた。

「べつに太ってないよな」

 大知が横から口を挟む。

「よく抱っこしろって言われるけど、いつも軽いぞ」

「へえ、そうなのか」

 微妙な沈黙が流れる。沙紀の耳が赤い。わざとらしく手をたたいて立ち上がる。

「はいはい、それじゃあ、ごちそうさまでした」

 本当にごちそうさまだよ。まったく。

 食事の後、軽く片付けをして、花火をすることになった。

 住宅地の外れに公園がある。遊具などは何もなくて、ただの空き地といった方がふさわしい場所だけど、花火には都合がいい広場だ。

 エアコンになれた体に、ぬるい夜の空気がまとわりつく。

 大知が蝋燭に火をつけている間に、沙紀が僕に近寄ってきた。

「あんたさ、歯に青海苔ついてるよ」

 なんだよ、もっと早く教えてくれよ。

「彩佳がね、さっきから言いにくそうだったよ」

 沙紀のやつ、楽しんでたってわけか。

 まあ、いいや。何でも笑いのタネに変えてくれた方がありがたい。

「おう、始めようぜ」

 大知が花火の袋を破る。勢い余って中身がバラバラになる。

 沙紀があわてて拾い集める。

「ほんと、力の加減ができないんだからさ」

 彩佳さんが一本拾って僕に渡してくれた。

「はい、一緒にやろうよ」

 うん。

 こんなに楽しい花火は初めてだ。

 手持ち花火を思い思いに楽しんだり、大知がネズミ花火を投げて驚かせたり、だんだんテンションが上がっていく。噴き上げ花火十個を並べて、僕と大知で連続して火をつけたときが最高潮だった。噴き上がる炎とはじける火花を見つめて沙紀と彩佳さんが手を叩いて喜んでいる。

「おまえ、いつコクるんだよ」

 大知に脇腹をつつかれた。

「そんなに急がせるなよ」

「ストレートに気持ちを伝えろって俺の股間に飛び込んできたのはおまえだっただろ」

 去年の夏の話か。確かに大知の家に行って、そんなことを言った覚えがある。

「あのときは沙紀のために夢中だったからね」

「感謝はしてるぜ。今の俺達はおまえのおかげだからな」

 それはどうも。だからといって、よけいなおせっかいはやめてほしい。

「ちゃんとするから、待っててくれよ」

「期待してるぜ。この夏一番のイベントだからな」

 沙紀といい、大知といい、田舎にはもっと娯楽がないものだろうか。

 噴き上げ花火がしぼむように消えて、燃えかすを水バケツに放り込みながら、沙紀がまたよけいなことを言いだした。

「線香花火で一番先に落ちた人が秘密を告白するっていうゲームしようよ」

 何を狙ってるんだよ。

「秘密なんかないよ」

 僕の不満に彩佳さんが反応する。

「じゃあ、そういう人は一発芸だよね、沙紀ちゃん」

 へんなところで意見が一致する二人だ。

 みんなで一斉に蝋燭の火に線香花火をかざす。一番先に着火したのは僕の花火だった。

 小さな火花を四人が見つめる。

「なんか、みんなマジになりすぎじゃない?」と沙紀が僕に話を振る。

「言い出したのは沙紀じゃないかよ」

「そんなに言いたくない秘密があるのかしら」

 まだ言ってる。だから、今日じゃないんだって。

 でも、決着は沙紀の思惑通りにはならなかった。

 一番先に落としたのは大知だった。

 沙紀が頬を膨らませる。

「何よ、一番つまらないやつじゃん」

「ひでえな」と大知が苦笑している。

「だって、あんたに秘密なんかないじゃん」

「あるよ」

「何よ」

「俺さ、高校卒業したら家を出ようと思っててさ」

「へえ、そうなのか」

 思いがけず真面目な話題が出たので、僕は曖昧な相づちしかできなかった。

 沙紀も首をかしげて大知をぼんやりと眺めている。

「あたしもそれは初耳だわ」

「ここじゃさ、まともな就職先ないだろ。だから、霧島とか鹿児島市内に出ようかと思ってさ」

 霧島市は鹿児島空港があって、物流会社が拠点を構えていたりして、この伊佐市に比べたらそれなりに就職先はあるようだった。先輩達もどんどん出ていってしまっている。

「すごいね、ちゃんといろいろ考えているんだね」と彩佳さんが目を見開いて大知を見ている。

「あ、そうか、それが一番びっくりな秘密か」と沙紀が笑う。

「ひでえな」とまた大知が苦笑する。

「こいつね、意外とちゃんとしてるのよ。小心者だからさ、いつあたしに捨てられるかってびくびくしてるのよ」

 大知は特に反論しない。

「それにさ、そもそも、高校卒業したらって、それが一番のハードルでしょ」

「まあな」

 確かに、と僕も思わずうなずいてしまった。

 ゴミを片づけたところで大知が帰ることになった。

「ねえ、明日は廃校に行くけど、ヤマトも来るよね」

「おう」

「じゃあ、あんたの分もちゃんとお弁当作っておくからね」

「お、頼むぜ」

「今年はブルーベリー農園の手伝いはないの?」

 僕がたずねると大知が首を振った。

「夏休み前から予定を空けとけって言われてたからよ」

 へえ、そうなのか。

 沙紀が僕の脇腹をつつく。

「ちゃんと考えてるのよ。楽しい夏休みを満喫しなくちゃ」

「今年は俺達も補習がないからな」

 大知が笑う。

 沙紀が手をたたく。

「ホント、補習のない夏休みは最高だよね」

 それがふつうだろ。

 まあ、確かに二人とも試験は頑張ってたけどな。僕も協力してやったし。結果が出てなによりだ。

「今日はおいしかったし、楽しかったね」

 彩佳さんの言葉にみんながうなずく。

「じゃ、また明日な」

 大知がペダルに足をのせる。

「うん、夜道には気をつけてね」

「おう、じゃあな」

 大知は手を振りながら菱刈の家に帰っていった。

 公園から家まで帰る途中、彩佳さんがつぶやいた。

「沙紀ちゃんたち、仲良くてうらやましいね」

「ああ、まあね」

 僕は曖昧な返事しかできなかった。

 花火大会までに言ってしまった方がいいんだろうか。いままであたためてきた正直な気持ちを。

「へへ、うらやましい?」と沙紀が照れくさそうにしている。

「うん、うらやましいよ。大知君、浮気しないでしょ」

「そうなんだよね。裁判で呼び出せなくてごめんね」

「交通費が浮くから期待してたんだけどね」

 二人が笑い合っている。

 そんな様子を見ている僕の心もはずんでくる。

 まあ、焦ることはないさ。花火大会で告白することは間違いないし、お互いの気持ちをはっきりさせれば、僕も大知と沙紀のように、彩佳さんと楽しい夏休みを過ごせるはずだ。

「何よ、黙り込んじゃって。何か悩み事でもあるの? オネエサンたちが聞くよ」

 沙紀にからかわれる。

「べつに何もないよ」

 おっと、一つ忘れてた。

「なあ、沙紀、まだスイカ食べてないよな」

「あ、すっかり忘れてた」

「楽しみにしてたのにね。今日はもう遅いから明日でいいんじゃない」

 彩佳さんも残念そうだ。

 まあ、しょうがない。

 明日もある。

 焦ることはないんだ。

 僕たちの夏休みはまだ始まったばかりなのだから。

「じゃあ、おやすみ」

 僕らは沙紀の家の前で別れた。

「うん、また明日ね」

「おやすみ、カズ君」

 それが彩佳さんと交わした最後の言葉になるとは、その時は知らなかった。

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