僕の街に君がいた 君の心に僕がいた

犬上義彦

第1話 羽田空港ラウンジにて

 朝六時ちょうどにホテルを出る。羽田空港ターミナルビル直結のホテルなので、ドアの向こうには天井の高い出発ロビーが広がっている。十二月の凛とした空気が漂うロビーに自分の靴音が響く。

 週明け月曜日のこの時間帯でも、もうすでにチェックインカウンターには行列ができていて、売店も朝食の空弁を求める人々でにぎわいを見せ始めていた。

 私はチェックインカウンターを横目に、そのかたわらの茶色い壁に向かって歩く。魔法映画のように壁につっこむと異世界行きの搭乗口があるわけではない。一見壁のように見えるそこには重厚な自動扉があり、プレミアム会員向けの専用保安検査場につながっているのだ。

 一般客が紛れ込まないように壁と一体化したデザインになっていて目立たない入り口だが、朝の出発時間帯は多頻度ビジネス客が次々と壁に向かって吸い込まれていく。

 預け入れ荷物はないので、プレミアムチェックインの係員に会釈を受けながら直接専用保安検査場へ進む。

 慣れた利用客ばかりなので持ち物の分別も確実で、一般レーンのように鞄の中のペットボトルを指摘されたり、ポケットのキーホルダーが反応してゲートを逆戻りするような人はいない。

 かといって、富裕層向けサービスというわけではなく、私のような二十代の地方公務員かサラリーマンの若者も多い。手当も含めて手取りで二十万に届かない程度の私でも、単に仕事で利用するから上得意客になれるだけなのだ。

 検査場を通過してラウンジへ上がる。小さな案内板がかかっているだけで、やはり壁と一体化したデザインの入り口だから、一般客はその存在すら気づかないようになっている。

 無機質なエントランスにはアロマの香りが漂っている。何の香りなのかは分からないが、有名なアロマコーディネーターのインタビュー記事を機内誌で読んだことがある。確かに清涼感の際立ついい香りだ。

 エスカレーターに立っていると、かたわらを腕時計を気にしながらビジネスマンが駆け上がっていく。時間はなくてもラウンジで無料のビールを一杯飲んでいくという客は多い。朝からそんなことでも仕事にさしつかえないような境遇がうらやましい。

 受付カウンターのリーダーに会員専用クレジットカードをかざす。

「おはようございます。いつも御利用ありがとうございます」と同時に左右二人の受付係員に挨拶される。どちらに挨拶を返すべきかいつも戸惑ってしまう。結局、毎回二度頭を下げてから入室している。自分の謙虚さを確認する修行のようなものだと割り切っている。

 プレミアム会員といっても私は二十代なのでクレジットカードはゴールドではなく青い一般カードだ。飛行機の垂直尾翼がデザインされていて、自分では気に入っている。一度鹿児島の企業の課長さんと同行したときに、ゴールドカードと私のカードを見せ合ったことがある。その人も、落ち着いたデザインでこっちの方がかっこいいねと言っていた。

 ラウンジ内に入ると、私はいつもゆったりとくつろげるボックス席を通り抜けて、窓際のパソコン用カウンター席につく。電源タップがあって便利だし、なにより滑走路が目の前に広がっているのがいい。朝の澄んだ空気の中を垂直尾翼に赤いマークのついた767が離陸していく。

 実は私は赤と青、どちらの航空会社でも多頻度客扱いになっている。毎週鹿児島と東京を往復しているので、自然とそうなってしまうのだ。どちらを利用するかは時間帯や空席状況によって決められてしまうので、自分では選べない。今日は青い会社だが、べつにそちらをひいきにしているというわけでもない。どちらもそれぞれのカラーがあり、甲乙などつける気はない。ただの交通機関なのだ。安全であれば、それ以上でも以下でもなくていい。

 七時十分発の鹿児島行きの搭乗時刻まで小一時間。席に鞄を置いて、飲み物を取りに行く。コーヒーやソフトドリンクサーバーの隣に置かれたおつまみの袋を取り、ペーパータオルをもらう。ビールサーバーでは長いグラスを持った利用者が使い方が分からないのかもたついている。後ろの客が苦笑しながらグラスのセットの仕方を教えてやっている。私はそのかたわらにある青汁攪拌機の前に立つ。ビールグラスに半分ほど青汁を注ぐ。すぐそばのカウンター席にいったん座ってそれを飲み干す。その瞬間、私の頭の中に銅鑼が鳴り響く。まるでインド映画でダンスシーンが始まるときの合図のようだ。

 青汁を飲んで踊り出すなんて、健康食品のコマーシャルではないか。いや、実際にそんなポップなコマーシャルを見たことはない。『個人の感想です』と注意書きをつけるにしてもメンバーが多すぎる。『団体の感想』なんて聞いたことがない。

 半分だけの青汁を一息に飲み干した後で、もう一杯、今度は多めに注いで窓際のカウンター席に戻る。青汁を一杯半、そしてその後にコーヒーをゆっくりと味わってから搭乗口へ向かうのが私のルーティンだ。

 ここのラウンジの青汁は苦みが少なく、すっきりして飲みやすい。それにしても、朝からこんなくだらない妄想にふけっている者など、このツンとすましたラウンジにはいないだろう。

 目の前に広がる滑走路からまた一機、今度は青い垂直尾翼の787が離陸していく。ふと窓に映る自分のゆるんだ笑顔に気づいて顔が熱くなる。それを冷やそうとまた青汁をあおる。頭の中で再び銅鑼が鳴り響く。それまで泣いて伏せっていた美女が立ち上がり、腰をさすっていた老婆の背がまっすぐに伸びて華麗なステップを踏みならす。青汁さえ飲めばこの世のあらゆる苦しみや哀しみが取り除かれる。貧者もマハラジャもこれさえあればみんな幸せ。素敵な飲み物青汁。

 くだらないと言えばそれまでだ。もちろん私だってそのくらいのことは分かっている。青汁は魔法の薬ではないし、過度な効能をうたってはならない。

 だが時に、人生にインド映画みたいな無理矢理感満載の奇跡を期待してしまうことがある。

 それが大切な人を失ったことのある人間なら、なおさらじゃないだろうか。

 十年前、当時高校一年生だった『僕』は『彼女』と出会い、そして彼女を失った。

 喪失感を癒す魔法の特効薬はない。

 だからこそ、青汁のこんなささやかな苦みに奇跡を託してしまうのだ。

 スマホが光る。

 画面には沙紀からのメッセージが表示される。

『鹿児島は大雨だよ。伊佐は雪だってさ。空港で待ってるからね』

 ラウンジの壁にはめこまれたモニター画面に『鹿児島行き天候調査中』の表示が出ている。九州方面で十二月にこんな状況は珍しい。心配したところでどうにもならない。また一口青汁をふくむ。今の自分にできることはそれだけだ。

 残念ながら沙紀は僕のカノジョではない。高校の同級生だった男と同棲していて、もうすぐ一人目の子供が生まれる予定だ。

 沙紀は僕の幼なじみで、僕の『彼女』の従姉妹だった。その関係で僕は彼女と知り合い、そして彼女との別れを経験した。

 失恋するとなぜ人は空を見上げて、「もう恋なんてしない」とつぶやくのだろう。

 いや、そんなベタなセリフ、言うわけないじゃんと人は笑う。他人だからだ。

 僕はあれからもう何度つぶやいただろうか。滑走路をまた一機飛び立っていく。

 目の前に空が広がるから。

 どうしてもつぶやいてしまうのだ。

 搭乗時刻まで、まだ少し時間がある。

 空になったグラスを返しにいくついでに、コーヒーをもらってこよう。

 二十五歳のモノローグには十分な時間だ。

 これは十年前、『僕と彼女』との間に起きた出来事だ。

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