第2話 7月13日(金) 文化祭準備
教室のベランダに出ると正面の夏空に雷様の力こぶみたいな入道雲がわき上がっていた。ほとんど青空なのに、かすかに雷鳴が聞こえてくる。
七月初めで梅雨が明けて夏本番。教室では明日の文化祭の準備がおこなわれていた。
僕らの通う伊佐高校は鹿児島県北部の山間の街にある小さな県立高校だ。少子化で年々生徒数が減少し、定員割れが続いていて一学年に二クラスしかない。名前さえ書けば誰でも入れる高校と言われている。
今村和昭。実際、僕もちゃんと自分の名前が書けたから高校生になれたんだと思う。
つい最近終わった期末試験の成績も、赤点だけは免れたものの自慢できる科目は一つもなかった。こんな僕でも入れた高校なんだ。
大学を目指すごく一部の連中をのぞいては勉強なんてやる気もないし、文化祭のような学校行事ですら他人任せなところがある。我が一年A組の出し物はありきたりな喫茶店で、準備といっても掃除して机にテーブルクロスをかけたら、ほぼやることがない。メイド服でも作ればいいのに、制服にエプロンをつけるだけなんて、まるでやる気が感じられない。
「つまんないもんだね。文化祭なのに」とつぶやいたのがいけなかった。
大きく開け放たれた窓越しに僕の愚痴を聞きつけた皆川沙紀がモップの柄に体を預けながら反論する。
「自分がやる気を見せないのがいけないんでしょうよ」
彼女は小学校からのなじみで、逆らうとろくなことにならないのは分かっている。だけど、つい一言言いたくなってしまう。
「だって、いつもの教室と変わりないじゃんか。お祭りの非日常を演出するのも大事だろ。制服にエプロンじゃ、家庭科の調理実習と同じじゃん」
「あのね、カズアキ、セーラー服の女子高生がサービスするんだから、その方が喜ばれるでしょ。この街にそんなお店ないんだし」
未成年が何言ってんだよ。
「メニューだってさ、ホットケーキにタコヤキだぞ。材料が似てるからっていい加減すぎるだろ」
「美少女が作った物は何でもおいしいでしょ」
セーラー服の紺襟に手をかけて紺色リボンをひらひらさせながら自称美少女が微笑む。
「どこにそんなのがいるって? 捜索願を出さなくちゃな。美少女が行方不明ですって防災無線で流してもらえよ」
「アァ?」
沙紀がモップの柄を突き出してくる。思わずのけぞると、夏の日差しがまぶしかった。
沙紀の持っているモップの柄には『S56』と刻印されている。消耗品なのに耐久性が良すぎる。さすがにヘッド部分は交換してあるんだろうけど、柄が丈夫なのは間違いない。前にも掃除をさぼって沙紀に一度ケツをつつかれたことがあるから知っている。
「あんたもそんな暑いところでサボってないで、中で仕事手伝ってよね」
そう言い残して去っていく後ろ姿に向かって僕は舌打ちをした。
どうせ校舎が古いから、いくら掃除してもきれいにならない。いっそ好きなようにペンキを塗り替えてもいいと言ってくれたら、生徒達でやるんだけどな。文化祭の出し物にすればアート系活動としてローカルニュースになるかもしれない。
調子に乗ってペンキをぶちまけて文化祭どころじゃなくなるか。
教室の中では沙紀が真面目にモップをかけている。
沙紀は身長がやや低めで後ろ姿が小学生男子っぽい。ショートボブの髪から大きな耳が出ていて、なおさらそう見える。
でも絶対に間違われることがない。巨乳だからだ。
中学のころから男子の視線を釘付けにしていたほどで、あまりにも急に大きくなりすぎて、いつも不平を言っていた。
『なんかさ、歩くのもバランス悪くて、生物学的におかしいんじゃないかって思うレベルでしょ。蜜吸っておなかがでっかくなるアリいるじゃない』
『でも、あれ、巣に帰ったら元に戻るんじゃないの? 家に帰ったらしぼむとか?』
『風船じゃないし。なんなら触ってみる?』
なんて、中学の頃はそんなやりとりを交わすのが僕らの間のお約束だった。もちろん触ったことなどあるわけがない。僕にそんな勇気はない。
小学生の頃の沙紀は長い髪を滝のようにストンと前に垂らすヘアスタイルだった。中学生になって胸が大きくなってからはダムから放水される吐水のように房が流れて気になったらしく、やたらと髪をいじっている時期があった。まとまらない髪をバサバサと払いのけるようにしているうちに静電気でひっかかったりして、余計にイライラしていたものだった。
中二になって間もなく、面倒くさくなったのかばっさりと切ってしまった。沙紀の首の後ろの白さにどきりとしたことを覚えている。初めて見た時は、何かいけないものを見てしまったような気がした。それが『うなじ』というのは後で知った。
その髪型はけっこう似合っていると思った。沙紀のことをかわいいと思ったのもその時が初めてだった。
ただ、僕はそれは言わないでいた。照れくさかったわけではない。好きという気持ちではなかったし、ほめて調子に乗せたくなかっただけだ。
けっこう顔立ちも整っているのに、巨乳のせいでそちらに注目されないのは気の毒だと思う。どちらにしろ、性格の方がサバサバして男っぽいところがあるせいか、恋愛の噂とかは聞いたことがなかった。
僕はまたベランダの手摺にもたれかかって景色を眺めた。セミの鳴き声とぬるい風が僕にまとわりつく。校舎の周辺にはほとんど樹木なんかないのに、圧迫するようなセミの音波が途切れることなく襲いかかってくる。耳から侵入してくるというより、体全体を振るわせる感じだ。だんだん頭の芯まで共鳴してきて、体と感覚が分離していく。思わず首を振る。あぶない。熱中症か。その途端、汗がどっと出てきて我に返る。
一瞬、空が暗くなった。まぶしさに慣れた目にはよけいに暗転が際立った。見上げると、白い雲が流れてきて、日差しを遮っていた。たいして変わらないのだろうけど、ほんの少しだけ暑さが和らいだような気がした。ふっとため息が出る。
この高校には最初から何も期待なんかしていなかった。というより、僕の人生、この街自体に希望のかけらもないのだ。これまでと同じ日々が繰り返されていくだけの高校生活。別にそれが嫌なわけじゃない。山に取り囲まれたこの街の生活以外、他の世界をほとんど知らないから、この平穏な毎日に満足しているのだ。
現状維持。現状肯定。それがこの街で生きていくために必要なものだ。
「おい、今村、ちょっといいか?」
顔を向けるといつの間にか熊のような男が僕のとなりに立っていた。同級生の猪原大知だった。同級生だけど、彼は留年組で一つ年上だ。確か先週の期末試験でも、相変わらず英語は赤点だったはずだ。彼とは入学以来まだ一度も話をしたことがなかった。
「はい、なんでしょうか」
「なんで敬語なんだ」と猪原がぎこちない笑みを見せる。
大知は眉毛が濃くて何本か長い毛が飛び出している。四月に入学したときは坊主頭だったのに、だいぶ伸びてきた。
「あ、いや、すみません、つい」
「俺の方が気になるから、敬語はやめろ」
僕が入学以来猪原大知と話をしたことがなかったのには理由がある。
もちろん、留年していて新入生とは雰囲気が違ったのが第一だけど、彼にはいろいろな噂があった。
四月の終わり頃に、左目の横に痣を作ってきたことがあった。喧嘩でやられたという噂だったから、近寄らない方が無難なのかと思っていたのだ。また、それと前後して、所属していたバレーボール部を辞めたという話も聞いた。下級生ながらチームの中心選手だったのに急に投げ出してしまったらしく、顧問の教師からも残念がられていた。
そんな生徒だったから、僕のように地味で平凡な人間とは接点がないと思っていた。こちらから話しかける用事もなかったし、向こうからもこれまで全く接触はなかったのだ。
留年が決まると中退する人がほとんどだから、もう一年ちゃんとやってるだけでも案外真面目なやつなのかもしれない。悪いやつじゃないのかも知れないけど、威圧感のある見た目で損するタイプなのは間違いない。
「おまえさ、皆川とつきあってるのか?」
熊の一撃のような言葉に思わず僕は身震いした。
「え、あいつと」
思いがけない質問に動揺して、喉が詰まってしまった。咳払いをしてからはっきりと否定した。
「まさか。そんなことないっすよ」
「そうなのか。でも、仲がいいだろ」
「それ言うと、あいつ怒りますよ。小学校のころから一緒なんで長いですけど、それだけですよ」
僕と沙紀は父親同士が同じショッピングモール会社に勤めていて、同じ時期にこの鹿児島県伊佐市に引っ越してきた。スーパーマーケット業界の吸収合併の流れで、この地域で店舗の統廃合があり、エリア担当者として転勤になったのだ。
僕が生まれたのは茨城県の土浦市で、沙紀は千葉県の成田市出身だ。遠い土地から、小学校に上がるタイミングで二人ともこの街に来て、同じ小学校に入学した。僕はどちらかというと引っ込み思案な子供だったから地元育ちの連中とは最初はなかなかなじめなかった。家も近い沙紀が一緒に登下校してくれて、何となくいつも一緒にいるようになったのだ。
小学校は一学年に一クラスしかなくて、ずっと同じ。中学校は三つの学区が統合されて、近所の伊佐中央中学校にまとめられて二クラスあったけど、そこでもずっと同じクラスだった。
赤い糸だねなんてからかわれることもあったけど、僕に言わせれば飼い犬のリードみたいなものだと思う。常につながってはいたけれど、伸び縮みして、つかず離れずの距離を保った関係だった。
「でも、なんで沙紀のことを?」
僕が尋ねると、熊のような男が急に顔を赤らめて声を潜めた。
「かわいいだろ」
「誰が?」
「だから、皆川だ」
「え、沙紀?」
僕は思わず叫んでしまった。
「バカ、声でけえ」
真夏の日差しの下で、僕は熊のような男の手に口を塞がれて意識がもうろうとしてきた。誘拐される時ってこんな感じなんだろうか。
「何か呼んだ?」
沙紀が窓辺にやってきた。途端に猪原が直立不動の姿勢になる。
「いや、別になんでもないよ」と僕はあわてて両手を突き出して否定した。
「じゃあ、ヤマト君?」と沙紀が猪原の方を向いた。
ヤマト君?
誰のことだ?
「あたしのこと呼んだ?」と沙紀は大知に尋ねた。
「いや、別に」
ふうん、と首をかしげながら沙紀が僕ら二人を見比べた。
「まあいいや。ヤマト君さ、夏休み補習でしょ」
「お、おう」
大知は熊みたいな見た目と反対に、消え入るような声でかろうじて返事をしている。
「あれ、どうしたの? 目がメジロみたいにまん丸だよ。まんまる」
確かに彼の目は丸く見開いていた。
「メジロってなんだ?」と僕は沙紀に尋ねた。
「ナイショだよ。ね、ヤマト君」
沙紀は猪原に人差し指を向けて片目をつむった。下手なウィンクだな。
「お、おう」
さっきから猪原は同じ返事しかしない。毛の生えたこぶしを握りしめたまま、視線を合わせずにうつむいている。
「あたしも補習なのよ。よろしくね」
「お、おう」
「二人とも赤点なのか。何科目?」と僕は尋ねた。
「あたしは英語と数学」
「おう、俺も同じだ」
「へへ、気が合うね」
思いがけない沙紀の言葉に猪原の硬直度が増す。
「二人ともせっかくの夏休みが台無しじゃないかよ」
僕が余計なことを言ったせいか、沙紀が不機嫌な顔になる。
「仕方ないでしょ。実力なんだから。一応頑張ってこれなんだし」
「何言ってるんだよ。試験の前日に、やたらとスマホばっかりいじってたんだろ。『あんた勉強するなよ』とか、『先に寝ないとシメるからね』って何回も脅迫メール送ってきたくせに」
「でも作戦失敗でしょ。あんた成績良かったじゃん」
良いと言われるほど自慢できる成績じゃないのが痛い。僕だって全科目平均点以下だ。
「イヤミかよ。赤点はなかったけどさ」
「ふん、あんたはどうでもいいわよ。ヤマト君、うちらは一緒に頑張ろうね」
「お、おう」
「そういえばさ、カズアキ、あんたに頼みがあるのよ」
「なんだよ。パシリか」
「あたしをなんだと思ってるのよ」
不満そうに沙紀が頬を膨らませる。こういうやりとりは僕らにとってのお約束事で、適当にいじってやらないとかえって機嫌が悪くなる。そういう匙加減を知っているのは確かに僕だけかもしれない。
僕は文化祭の材料でも買いに行かされるのかと思っていたけど、沙紀の話は全然違うことだった。
「夏休みにイトコがうちに泊まりに来るんだけど、相手してやってほしいのよ」
「イトコ?」
「千葉に住んでるんだけど、おばさんの方の親が倒れちゃって介護に行ってるんだって。それで、夏休みだけこっちに来て暮らすことになったのよ。あたしも相手したいんだけど、赤点補習になっちゃって面目次第もございませんってことよ。それでさ、あんた暇でしょ。この辺適当に案内してやってよ」
確かに僕は部活にも入っていないし、夏休みの予定はない。でも、暇人と言われると素直に引き受けたくなくなる。
「イトコって、男か?」と猪原が横から尋ねた。
「ううん、女。同い年の高一」
「女の子なら、女子に頼めよ」と僕は断った。正直、僕は女子を相手に気軽に話のできるハイスペック男子ではない。沙紀は女子には入らない。遠足のバナナと同じだ。
「うちらが補習の間だけでいいからさ。いいでしょ」
重ねて断ろうとしたら、中で同級生が沙紀のことを呼んだ。
「あ、今行く。じゃあね二人とも。そんなところにいて干物になるなよ」
僕の返事を聞かずに沙紀が行ってしまうと、猪原が大きくため息をついた。
「やべえ、緊張するな」
見た目は熊みたいなのに、案外気の小さいところがある男だ。
それに、沙紀みたいな女子に好意を持つってところも変わってる。
沙紀が男子に注目されるときはたいてい卑猥な言葉を浴びせられるときだったから、喧嘩していた記憶しかない。この男も沙紀に惹かれたのは身体的理由なんだろうか。
「なんで沙紀が好きなの?」
僕が尋ねると、大知は顔を赤らめてうつむいたまま返事をしなかった。
「やっぱり巨乳だから?」
「ちげえ」
「あいつね、中学の時に急に胸が大きくなってさ、セーラー服のサイズが合わなくてね。前が膨らんですきまができちゃって、おなかが冷えるって困っててさ。いつも腹巻きしてカイロを張ってたんだよ。色気のない話だろ」
「バ、バカ野郎。何を言い出すんだ、お前」
僕らの中学ではみんな知ってたことだからべつに秘密でもないんだけどな。あいつもよく僕に腹巻き見せてたし。
「ねえ、メジロって何?」と僕はさっきの沙紀の言葉について尋ねてみた。
「野鳥だよ。緑色の」
「その鳥がどうしたのさ?」
「覚えていてくれたんだな、皆川」
熊のような男が目を細めて遠くを見つめた。
春、僕らが高校に入学した時、クラスの親睦を深めるための学校行事で、近所の大きな公園にレクリエーションに出かけたことがあった。見晴らしの良い丘の上に千本桜と呼ばれる並木があって地元ではよく知られた花見の名所だ。
留年組で居心地の悪かった猪原は一人で土手に登ってぼんやりしていたらしい。緑色の小鳥が飛び交う桜の花を見上げていたら、その時突然、『ねえ、あれウグイスかな』と腕を引っ張られたんだそうだ。驚いて顔を向けたら沙紀がいて、彼女も同じように驚いた顔をしていたらしい。
『あ、間違えちゃった。ごめんね』
どうやら人違いだったようだ。
『いや、べつに。あれはウグイスじゃない。メジロだ』と猪原は教えてやったそうだ。
『へえ、そうなんだ。くわしいんだね』
『ウグイスはさ、鳴き声はホーホケキョって有名だけど、見た目は灰色っぽくてけっこう地味なんだ。メジロは鳴き声が甲高くてツツピツツピって感じだな。目のまわりが白くて目立つからメジロ』
『でもさ、緑色の餡のことをウグイス餡って言うよね』
『鳴き声と色の鮮やかさでイメージが重なるから昔の人も間違えたんじゃないか』
そのとき、沙紀が笑い出して猪原は当惑したらしい。
『なんだ、どうした?』
『目がまん丸だよ。メジロみたいに。ええと……』
『あ、俺、猪原』
『あたし、皆川沙紀ね。よろしく』
『お、おう』
しどろもどろの大知を見上げながら、沙紀は口元をおさえて笑いをこらえていたそうだ。
『ごめんね。急に話しかけて驚かせちゃったね。いろいろ教えてくれてありがとう』
猪原が顔を赤くしながら、そんな思い出話をしてくれた。人違いなのも沙紀らしいし、鳥の名前を知らないのも沙紀らしい。僕も区別できないけどね。
大知がぼそりとつぶやく。
「一目惚れだったんだ」
「ふうん、そうなのか」
「おかしいか?」
ちょっと怒ったような口調だった。僕の顔が緩んでいたらしい。
「べつにそんなことないよ」
僕は話題をそらそうとして、気になることを尋ねた。
「猪原って、『ダイチ』だよね」
「おう」
「沙紀のやつ、『ヤマト君』って言ってたけど、『大和』と間違えてるんじゃないか」
漢字に弱い沙紀らしい勘違いだ。
すると猪原が僕のワイシャツをつかんで揺すった。
「まあいいじゃん。俺、いっそのこと、もうヤマトって改名しちゃおうかな。おい、こういうのって、市役所に行けばいいのか。なんなら苗字も変えちまうか。ミナガワヤマト」
乙女の妄想かよ。消しゴムに名前を刻むのだけはやめてくれよ。
「イノハラダイチにかすりもしないじゃないかよ」
僕はもう敬語を使わなくても話せるようになっていた。
でも、春に入学してからもう三ヶ月くらいたっている。その間この男は何をしていたんだろう。
「お花見以来、あいつに話しかけたりしてないの?」
「できるかよ、そんなこと」
「どうして?」
「あんなにかわいいんだぞ。見てるだけで心臓止まりそうだ」
やばい。笑っちゃいけないんだろうな。笑ったら熊にシメられる。熊出没注意。クマシュチュボチュ……。イテテ舌かんだぞ。
「まあ緊張するのは分からなくもないけど、話しかけても、あいつは嫌がらないと思うよ」
大知が急に顔を伏せて黙り込んだ。
うつむいてはいるけど、バレーボールをやっていただけあって、僕よりも十センチ以上背が高いから、表情は分かる。ベランダの手摺に手をついて、まるで腕立て伏せでもするように体を揺らしながら話を続けた。
「おまえさ、皆川と仲いいだろ。だから、つきあってんのかと思ったんだ」
僕はあわてて否定した。
「だから、それは誤解だって。さっきも言ったけど、家が近所で小学校から一緒だったっていうだけで、そういう関係じゃないですよ」
ちょっと敬語が混ざってしまう。
「そうなのか」
「あいつもそんなこと全然思ってないよ。心配しないで大丈夫だよ」
努めて敬語を出さないようにする。
大知はホッとしたように顔を上げて真夏の太陽を見上げて目を細めた。
「じゃあ、俺でもまだ可能性あるか」
「とりあえず、つきあってるやつはいないからね」
あまり気にしたことがなかったけど、確かに沙紀は僕以外の男子とはあんまり仲良くはしていない。気軽に頼み事をしたり、話しかけられればしゃべったりするけど、特定の誰かと仲良くしていたことはないし、そもそも、誰かに思いを寄せているような素振りを見せたこともなかった。
僕が男だからそういう恋愛話をしなかっただけなんだろうか。もしかしたら、中学の頃とかに先輩の誰かに憧れていたなんてこともあったんだろうか。考え始めてみるといろいろなことが思い浮かんできてしまった。あまりにもふだんから一緒にいすぎたせいで、かえって沙紀のことをなんにも知らずにきてしまったことに気がついた。
ただ、この田舎町では、小中高と固定された濃密な人間関係のせいで、誰と誰がつきあっているのかすぐに全員に知れわたる。もし沙紀にそんなことがあったのなら、必ずどこからか噂が流れてきたはずだ。
「なあ、おまえ……」
熊のような男が口ごもる。
「なに?」
「応援してくれるか」
がっしりとした手が僕の肩をつかむ。
「もちろん」
身動きのとれない僕は曖昧な笑みを浮かべながらうなずいた。
「おう、サンキュー、お前いいやつだな」
見た目で敬遠してたけど、沙紀という共通点があったとは意外だった。話をしてみたら案外ふつうの男で安心した。
沙紀だって入学時に話をしたことがあるのなら、そんなに嫌な印象は持っていないんだろう。
なんとか明日の文化祭をきっかけに距離が縮まれば良いんじゃないか。僕はそんなふうに思った。
その時、また沙紀がやってきた。
「ねえ、ヤマト君さ、背が高いから外から窓拭きやってよ。カズアキはバケツの水を取り替えてきて」
「お、おう」
大知が窓越しにぞうきんと洗剤スプレーを受け取る。僕は掃き出し窓に回って中に入った。
「じゃ、二人ともよろしくね」
沙紀から渡された雑巾を二つに折り畳んで、大知が窓を拭き始めた。雑巾が幼稚園児のハンカチみたいに見える。
結局、『ヤマト君』のままでいいのか。
もしこの男が市役所に届けを出しに行くなら、ついて行ってやろうと思った。
そもそも改名なんて市役所でできるのかすら分からないから、後でスマホで検索しておいてやろう。
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