第92話 湯殿
「ちょっと待ってくれ」
女湯の入口を前に、さすがに立ち止まる。
「そうか、そうだよな。今までちゃんと言ってなくてごめん。――俺、男なんだ」
「それはもう、存じております」
リゼは楽しそうに笑うと、そっと俺の手を取った。
「ここは『後宮』で、ロクさまは私たちのただ一人の主で、そして唯一の殿方です」
柔らかな身体が寄せられ、
「ロクさまと一緒に、日頃の疲れを癒やしたいのです。……ダメ、ですか?」
目元をほのかに染め、恥じらいながらねだる姿に、言葉が詰まる。
リゼが笑って、軽やかに俺の手を引いた。
「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。みんな、
そうか、湯浴衣というものがあるんだな。水着のようなものだろうか? それなら問題ない……か……?
リゼに引かれて脱衣所に入ると、待ち受けていた宮女たちが嬉しそうに俺の背を押した。
「ロクさまはこちらへ!」
奥にある小部屋に通されたかと思うと、宮女たちが我先にと服の留め具を外しはじめる。
「シャツの釦、失礼いたします」
「さあ、ベルトを外しましょうね」
「っと、大丈夫、自分で脱ぐよ。少し、外で待っててくれないか?」
宮女たちは残念そうに出て行った。
いつも隙あらば手取り足取り世話をしてくれようとするのだが、着替えまで手伝ってもらうのはあまりに申し訳ない。
服を脱ぎ、用意されていた湯浴衣に脚を通す。
あまり水着と変らない。ちょっと厚手なくらいか。
部屋を出ると、宮女たちから黄色い歓声が上がった。
「まあ、なんて逞しい……ロクさまは着痩せするタイプでいらっしゃるのですね」
「ささ、お召し物をお預かりいたします」
畳んだ服を渡していると、リゼが現れた。
「ロクさま、いかがでしょうか?」
率直に言って、天使だった。
雪花石膏にも似た白い肌を、羽衣のように薄い淡いピンクの生地がふわふわと覆っている。動く度にフリルのついた裾が軽やかに揺れて、光が踊っているようだ。
「すごく可愛いよ。リゼは何を着ても似合うな」
リゼは頬を染めて、嬉しそうにはにかんだ。
「さあ、こちらです」
リゼに連れられて、俺は脱衣室を後にし――
「ねえ、ロクさまの脱ぎたてのシャツ! まだ温かいわ、体温を感じるわ、ロクさまのにおいがするわ! どどどどうしよう、着てみていい!? ねえ、着てみていい!?」
「待って! 先に嗅がせて! すー……はー…………すぅ─────────────────…………」
「ねえ、長い! 次わたしなんだからっ! 長いって! においが消えちゃう! 早く代わってよーっ!」
宮女たちのはしゃぎ声が気になりつつ、浴室に足を踏み入れる。
ドーム型の天井に、美しい紋様の描かれたタイル張りの床。天窓から差し込む陽光が心地良い。中央に設えられた大理石を囲むようにして、様々な種類の湯が張られていた。
姫たちが愛らしい歓声を上げて俺を迎えてくれる。
「ロクさまぁ!」
「お待ちしておりました、こちらへどうぞ!」
色とりどりの湯浴衣が可愛らしく揺れる。立ちこめる蒸気と甘い香りの中で、麗しい少女たちが熱帯魚のようにひらひらきらきらとはしゃいで、まるで桃源郷に迷い込んだようだ。
この世のものとは思えない煌びやかな光景に見とれていると、リゼが背を押した。
「さあ、お背中を流しましょう」
「あ、いいよ、洗うのは自分でやるから――」
言い切るよりも早く、視界をふわりと柔らかな布が覆う。
「錦陽糸という特別な素材を織り込んだ布です。目の疲れを取ってくれるそうですよ」
目元がじんわりと温かくて、芯までほぐれていく。普段、書類仕事や魔力を視るために目を酷使しているから、とても心地良い。
が、何も見えない。
「ええと、すごく気持ちいいよ、ありがとう。でも、身体は自分で洗……」
「さあ、こちらにお掛けください」
暗闇の中、マノンが手を引いた。
目が見えないのでは抗いようがない。促されるままに座る。中央にあった大理石の台だろうか、滑らかで温かい。
「ロクさま、失礼します」
耳元でフェリスの声がして、背中をたっぷりの泡が包み込む。
俺の腕に泡を滑らせながら、リゼの声が優しく問いかけた。
「もし熱かったり痛かったりしたら、すぐにおっしゃってくださいね?」
頷きつつ、俺はマノンがいるだろう辺りに顔を向けた。
「あの、アイマスク、外してもいいか?」
「ふふ、ダメです。目が見えると、ロクさまは遠慮なさってしまうでしょうから。こうでもしないと、身を任せてくださらないでしょう?」
それはその通りかもしれないが、想像以上に落ち着かないというか、心細いというか……普段、自分がいかに視覚に頼っているか痛感させられる。
慣れない状況に戸惑っていると、耳の裏にフェリスの声が囁いた。
「前も洗うわね」
背中を洗っていた腕が、するりと胸板へ回る。
細い指が脇腹を掠めて、肩が跳ねた。
「っ……」
「ごめんなさい、痛かった?」
「いや、ちょっとくすぐったくて……」
ふふ、と愛おしげな吐息が笑って、たおやかな手が胸を撫でる。
「ロクさまのお身体、本当に綺麗。逞しくて、引き締まっていて……」
「ここに来た頃は、そうでもなかったんだけどな」
まだ王宮に勇者として認められる前、後宮の魔術教官としてみんなの前に立ったあの日から、時間さえあれば鍛錬を積み、剣を振るい、実戦を重ねてきた。
肩に残る傷跡をなぞって、フェリスは小さく呟いた。
「私たちのために、ありがとう」
背中に押し当てられた柔らかな感触から、優しいぬくもりが伝わってくる。
「ロクさま、こちら、リンデンフラワー入りのシャンプーです。いい香りでしょう?」
「社交界で話題の、オリーブオイルの石けんを取り寄せました! お肌をすべすべにしてくれますよ~」
小鳥のような囀りと共に、柔らかな身体が左右にぴとりと寄り添った。薄い布越しに、瑞々しい肌の弾力を感じる。
「うん、ありがとう、すごくいい香りだな。でもちょっと近――」
言いも切らず、今度は誰かの腕がそっと頭を抱き寄せた。
滑らかな泡が首筋を滑り、耳をなぞる。
「顔を上げて、こちらを向いて……そう、上手ですよ」
「まあ、すごい腹筋。一層逞しくなられて」
「ん……殿方の身体って、私たちとぜんぜん違うのですね……なんだか不思議……」
ほのかに高揚して、甘く蕩ける声。目隠しの向こうで、
四方から姫たちの声が響き、むにむにと柔らかな身体が押し当てられる。石けんだけではない、少女たちのまとう花のような香りが間近にある。泡を纏った手が鎖骨を撫で、喉から顎へとなぞり上げた。かと思えば別の手が脚を伝って腿を這う。
「っ、ちょっと待っ……」
持ち上げた手が、ふよりと心地の良い弾力に触れた。
きゃっ、とフェリスの声がして、慌てて手を引っ込める。
「ごごごごごめんっ!?」
「い、いいの、ロクさまになら、私……」
そっと肩に寄り添う柔らかな体温に、どくどくと血潮が騒ぐ。心臓がずっと跳ね回っていて、ひどく落ち着かない。視界を奪われた分、残された器官がほんの僅かな刺激を敏感に拾う。
少女たちのぬくもりや息遣い。すべすべとした肌の感触。泡と柔らかな肉体に包まれて、互いの境界が溶けていくようだ。淡い吐息が首筋に触れる度に、鼓動が否応なく高まった。
全身に纏わり付く世にも柔らかな心地に、自分と彼女たちがあまりにも違う生き物であることを痛感する。
甘く香る暗闇の中で、されるがままに全身を洗われながら呻く。
今、俺、どうなってるんだ……?
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