第81話 閃光チェス
俺が指したのは、壁に掛かった、見事な
ギルドメンバーたちがざわつく。
当然だろう、まさかこの酒場にあるもの――しかも、彼らのシンボルともいえる鹿の首を指定してくるとは、誰も思わなかったに違いない。
「あいつ馬鹿か? なんだって、わざわざ
失笑する仲間をよそに、サラジーンはゆっくりと立ち上がった。
ぎらつく目で、鹿の黒々とした目や茶色い毛並みをじっくりと検分する。
「……西のキリル地方の、クマルジカ。大きさから言って、五、六歳の雄」
振り返る。
「どうだ、ティティ」
すると、ティティはあっさりと首を振った。
「鹿じゃないよ。リカーノ」
「へ?」
「リカーノ。北の湿地帯に住む、牛の仲間だよ」
「牛!?」
衝撃を受ける人々の間を進んで、ティティは剥製の胸元を撫でた。
「首だけじゃ分からないけど、尻尾が長くて、四肢に縞模様が入ってるの。あと、よく見ると胸元に灰色の筋が三本入ってるのが特徴だよ」
「ほ、本当だ」
胸の毛をかき分けて、ギルドメンバーが声を上げる。
ティティは黒いガラスの目を見上げながら、茶色い毛並みを撫でた。
「間違うのも無理ないよ。首から上はそっくりだもん。本当は青くて綺麗な目をしてるんだけど、きっと、剥製にされる過程で取り違えられちゃったんだね」
サラジーンは声を失い――がっくりと椅子に身を預けた。
「っふ、ふふ…………まさか、『大鹿の首』の
「いい勝負だったね! 楽しかったよ、ありがと!」
ティティが笑顔で手を差し出し、サラジーンも笑ってその手を握った。
観客から口笛と賞賛が巻き起こる。
「ティティしゃま、ナイス・キルれひゅ~!」
「殺してないけどね!」
華麗に凱旋したティティと、軽やかなハイタッチ。
「お手柄だ、ティティ。よくやってくれた、ありがとう」
「こっちこそ、信じてくれてありがとっ!」
ティティは弾けるような笑顔を咲かせ、ふと不思議そうに俺を見上げた。
「でも、ロクちゃん、なんでティティがリカーノを知ってるって分かったの?」
「あの剥製を見た時、ティティが嬉しそうだったから。ただの鹿じゃないのかなって」
ティティはちょっと驚き、それから嬉しそうにはにかんだ。
「ロクちゃんってば、ティティのことよく観てるね」
細い指が、俺の袖を引っ張る。
「ね。ご褒美ほしいな?」
「ん。よく頑張ったな。ティティがいてくれて良かった」
頭をぽんぽんと撫でると、ティティは幸せそうに笑ってぎゅっと抱き付いてきた。
「さあ、次の勝負は
進み出たのは、青黒い顔をしたトカゲのような小男だった。
「『青鱗のザディ』だ。以後、お見知りおきを」
「では、僭越ながら
マノンはチェスの名手だ、これ以上の適任はいないだろう。
「閃光チェスってのは、要は早指しだ。持ち時間は一分。一手につき十秒まで。ただし」
にやにやと笑みを浮かべたザディがルールを説明しながら、テーブルに駒を並べていく。
定石通り、白と黒の、ガラス製の駒――いや。
ザディは酒瓶を手に取ると、駒に注ぎ始めた。
「こいつはショットグラスになっててな。勝負前に干した分だけ、駒を使える。強い駒ほど酒の度数も高い。無理して飲む必要はないが、当然『駒落ち』で戦うことになる」
まあ、と口を押さえるマノンに、ザディは尖った歯を剥き出して笑う。
「それだけじゃないぜ。ゲーム中ももちろん、相手の駒を取る度に飲んでもらう。大蛇殺しと呼ばれるとびきり強い火酒だ、うっかり昇天しないように気を着けな」
ティティが「なにそれ、おかしいよ!」と頬を膨らませる。
いくらチェスに強くても、それだけ酒が入れば当然思考力は落ちる。まさに酔狂、正気の沙汰ではない。誰だ、こんなクレイジーなゲーム考えたの。
「マノン、俺が代わるよ」
俺もそう酒に強くはないし、チェスに詳しいわけでもないが、チェスとは名ばかりのこんな気狂いなゲームに大事なマノンを預けるわけにはいかない。
しかしマノンは小首を傾げて微笑んだ。
「お酒を楽しく戴くのも、淑女の嗜みですから」
「いや、これはちょっと嗜みっていうレベルを超えて――」
制止するより早く、ザディが自分の駒へ手を伸ばす。
「まずは歩兵からだ」
「マノン、捨てるならここだ」
慌てて声を掛ける。最低でもキングとクイーン、ルークは押さえておきたい。もちろんマノンなら心得ているとは思うが――
しかしマノンは、迷いのない手で歩兵を手に取った。
「ちょ……」
グラスに口を付け、世界一優雅なボトムズアップ。空になったグラスが、コンッ! とボードに置かれる。
観客たちが唖然としている間に、マノンは次々とグラスを干し、やがて白の歩兵が美しく整列した。
「マジか……」
戦く観客たちなど意に介さず、にっこりと微笑む。
「さあ、どんどん参りましょう」
呆気に取られていたザディが、はっと我に返って慌てて歩兵を飲み干す。
「ふ、ふん、見かけによらず骨があるみたいだなァ。だが最初から飛ばすと、大事な駒が取れなくなるぜェ。さあ、次はビショップだ」
くいっ。コンッ! くいっ。コンッ!
「ナ、ナイト」
くいっ。コンッ! くいっ。コンッ!
「……ルーク」
くいっ。コンッ! くいっ。コンッ!
「クイーン……っ!」
くいーっ。コンッ!
「キングっ!」
くいーっ! コンッ!
そして、フルセットの駒が向かい合った。
誰かの喉がごくりと鳴る。
「この女、どうかしてやがる……」
「フルセットの勝負なんて初めてだぞ……」
この時点でほとんどの相手が脱落するのだろう。
「い、いや、これだけ呑んで正気を保っていられるわけがねェ、後から効いてくるはずだ……へ、へへ……」
「ま、マノン、大丈夫か……?」
マノンは艶やかに濡れた唇をハンカチで拭って、にこりと微笑んだ。
「ええ、何の問題もなく。さあ、私たちのゲームを始めましょう」
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