第37話 新しい朝
ちゅ、ちゅっと。
淡く濡れた音が、夢の中に潜り込んでくる。
「ん……」
夢と現実のあわいに漂いながら、俺は小さく身じろいだ。
腹の上に、何かが乗っている。
温かくて柔らかい。
甘い音が加速する。
額と言わず、瞼と言わず、羽根のように柔らかな感触が、顔中に降り注ぐ。
まだ眠っていたい欲求をねじ伏せ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
見知らぬ女の子が、馬乗りになっていた。
「……――」
両サイドでアップに結んだ、豊かなピンクブロンド。小柄な身体を包む純白のローブ。手足を飾る銀の輪っかが、少女が身じろぎする度にシャランと涼しげな音を立てる。
少女は目を閉じ、身を屈めては俺の肌という肌に拙いキスを繰り返して――
(キス!?)
意識が一気に覚醒する。
それは紛う事なき口付けだった。こめかみから頬へ、顎へ、首筋へ。少女は拙いながらも懸命に、それでいて神聖な儀式のように、小さな唇を押し当てるのだ。
これはどういう状況だ。
混乱しつつ、どうにか掠れた声を振り絞る。
「……君、は……?」
すると、少女はハッと身を起こした。
「ぁ、っ……!」
大きな瞳が見開かれる。
その双眸は、光の加減によって青から桃色へと移ろう不思議なオーロラ色をしていた。
「い、いつ、起きてっ……あっ、ち、違うの、これは、そうじゃなくてっ……!」
少女は首まで桃色に染めたかと思うと、ぴょんっと俺の上から飛び降りた。
「ち、違うんだからっ! そ、そういうんじゃないんだからーっ!」
真っ赤な顔で叫んだかと思うと、脱兎のごとく背を向ける。
「待っ、……!」
俺は少女を引き留めようと慌てて起き上がり――視界がくらりと傾いだ。
(っ、魔力、が……?)
体勢を立て直している間に、少女は風のように室内を駆け抜け、そして扉を
「!?」
急いで部屋を飛び出すが、既に少女の姿はなく、代わりにリゼがやって来るところだった。
俺を見てぱっと顔を輝かせる。
「ロクさま、おはようございます」
「あ、ああ、おはよう」
宝玉をはめ込んだように光を透かす、暁色の瞳。バラ色に上気した頬に、珊瑚色の唇。リボンで留めた亜麻色の髪からは甘い香りが立ち上り、白と淡いピンクを基調としたドレスは、リゼの華奢さを引き立てながらふんわりと愛らしい曲線を描いている。
辺りを見回す俺を、リゼは不思議そうに見上げた。
「どうかなさいましたか?」
「さっき、俺の部屋から女の子が出てこなかったか?」
「? いえ、見ていませんが……」
俺は「そうか」と呟いて、息を吐いた。
寝ぼけたのか?
……いや、腹に乗っていた重みもぬくもりも、額に触れる唇の感触も、はっきりと思い出せる。
初めて――そう、初めて見る顔だった。
だがその一方で、奇妙な確信があった。
どこかで会っているはずだ。
だが、一体どこで……――
考え込んでいると、リゼがふふ、と喉を鳴らした。
「ロクさま、寝癖が」
「ん?」
リゼが伸び上がり、細い指先でそっと髪に触れた。
「整えて差し上げますね」
部屋に戻って、鏡台の前に腰掛ける。
リゼは俺の髪を水で濡らし、丁寧に梳いてくれた。
ようやく頭がはっきりしてくる。
「ありがとう。交代だ」
リゼを座らせると、その手を取った。
細い腕に走る漆黒のアザが目を射る。
俺はリゼの魔力回路に目を凝らしながら、慎重に魔力を流し込んだ。
リゼの魔力回路が光を帯びる。
やがてアザの縁が、ちりちりと銀色に燃えはじめ――
「っ、ん……」
リゼが微かに身じろいだのを合図に止める。
「今日はここまでだな」
「はい。ありがとうございましたっ」
リゼがぺこりと頭を下げる。
ここ最近、毎朝こうして魔力を注ぐのが日課になっていた。
アザは少しずつ小さくなってはいるのだが、一度に注げる量には限界がある。
おぞましい哄笑が、耳に蘇る。
『見つけたぞ、開闢の花嫁よ! 今に我らの同胞が迎えに来る! その時を楽しみに待つがいい!』
『暴虐のカリオドス』を退けてから一ヶ月。
あれから、リゼを狙った襲撃はない。
だが、カリオドスの言葉を信じるならば、いずれ魔族の手が伸びる。
「…………」
俺は、白い肌に刻まれたアザを指先でさすった。
リゼを護りたい。この子にしてあげられる事は何だろう。今、俺に出来ることは――
思考の海に沈みそうになった時、リゼが明るい声を上げた。
「ロクさま、リゼはいいことを考えました」
「いいこと?」
リゼはえへん! と胸を張る。
「私が、魔族を呼び寄せるための囮になるというのはいかがでしょう?」
「囮?」
「はい! 私が囮になれば、人々を苦しめている魔族をより多く倒すことが出来ます。魔族との接触が増えれば、魔王の情報も集めやすくなると思うのです!」
「それは――」
言葉半ばに、リゼは亜麻色の髪に結ばれたリボンにそっと触れた。
「……それに、シャロットの手がかりも手に入るかも知れません」
幼い頃、このリボンを残して行方不明になってしまった、リゼのたった一人の妹、シャロット。
魔族にさらわれたのではないかと噂されている妹の行方を、リゼは今も探している。
俺はリゼの手を取った。
「リゼ。シャロットを心配する気持ちは分かる。けど、無理はしないでくれ」
本当は誰よりも不安なはずだ。
小さい頃から、身に刻まれたアザのせいで『悪魔の子』と呼ばれ、今また、呪いにも似た『開闢の花嫁』という言葉が纏わり付く。
けれどリゼは、あの出来事があってからも、何も無かったかのように――いや、それ以上に、こうして明るく振る舞う。
その健気さが苦しかった。
「ロクさま」
リゼは、揺れる双眸で俺を見詰め――ふわりと微笑んだ。
柔らかな手のひらが、俺の頬を包む。
「ロクさま、ありがとうございます。リゼのことを、心から心配してくださって……でも、大丈夫です。リゼは、怖くありません。本当に、自分でも驚くくらい、落ち着いているのです。だってロクさまがいらっしゃるのですから」
そう笑って、腕に走る黒いアザを撫でる。
「私は、シャロットが奪われ、この身にアザが刻まれた、八年前のあの日からずっと、何かが動くのを待っていました……いいえ、ただ待つことしか出来なかった。けれどきっと、運命の星が回り始めたのです。道が開けたのならば、どんな試練が待っていようとも、私は前に進みたい。そして、私にそう思わせてくれたのは――私に、前に進む勇気を下さったのは、ロクさまなのです」
そう言って花のように微笑むその姿に、ふっと頬が緩んだ。
ああ――リゼは、俺が思っているよりもずっと勇敢で、しなやかだ。
俺が頷くと、リゼはにっこりと笑い、スカートを翻して立ち上がった。
「さあ、三時間後には、後宮部隊四度目の出征です! 本日も張り切ってまいりましょう!」
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