家を抜け出して、雪に足跡を残して

紫鳥コウ

「ただいま」

 一陣の冷たい風が、雪が積もった山々の間を吹き抜けていく。


 空は深く澄み渡り、秘めたる宇宙を透かしそうなほどである。この村を貫く河川は氷結し、その奥底では清水が胎動たいどうしている。秋の息吹はすべて、次の秋がくることを待ち望んでいた。


 すねのあたりまである雪に、足跡を残しながら、ひとりの男が歩いている。どこか気難しそうな顔をした、それでも若さがあふれる男である。


 きらめく白雪に、彼の影が静かに落ちる。唇のすき間から、白煙が上がっていく。焦茶色こげちゃいろのコートに突っ込んだ両手は、かじかんでいる。


 木造の家がいくつか現れては、また、雪におおわれた畑が広がり、そしてまた、数軒の家屋が姿を見せる。ひとはひとりも見当たらない。この村のどこに、生命の鼓動は潜んでいるのだろう。


 ようやくこの男は、一軒の家にたどりついた。この村によくある、木造の二階建ての家である。夏に新調したという瓦は、雪の下で眠っている。


 男は、玄関の扉を開けた。ガタガタとレールがわない音がした。


「ただいま」


 家の奥の方へも聞こえるように呼びかけてみたが、返事はない。


 しかたなく、重くれた——季節外れの——革靴を脱いで、びしょびしょの靴下をつまんで、洗面所へ向かった。洗濯機にその靴下を突っ込むと、手洗いとうがいを済ませて、台所をのぞいた。


 しかし、そこにも誰もいない。ただ、火のついていないコンロの上に、大鍋が置いてある。そこで、くらい色をした煮物が息を忍ばせている。


 沈黙のなかの孤独は、男の肩にどっしりとのしかかった。


 コートをたたみ、右腕にひっかけて、階段を上った。すると、弟の部屋が、ぼんやりと明らんでいた。


幹人みきと、いるのか?」


 男は、障子しょうじごしに呼びかけてみた。


「兄さん? 帰ってきたの?」


「たったいまね。母さんは?」


 この男の弟——幹人は、ひとつあくびをしたようだった。


「いないの?」


「一階にはいないみたいだ」


「じゃあ、工藤さんの家だよ」


「ああ、工藤さんのところか」


りんちゃんが帰ってきててさ、赤ちゃんを連れて。今年の正月は、東京じゃなくてこっちで過ごすんだって。母さんは凛ちゃんと夢中でしゃべってるんじゃないかな」


 凛というのは、この男――のぼるの幼馴染である。凛の両親は、かつてどちらも働いていた。そして、その時にはすでに、彼女の祖父母は他界していた。そのため、旗の母は、凛の面倒まで見ていたのだ。


 そんな凛は高校を出ると、黒髪をばっさりと短くして、働きだした。一方、旗は、都内の国立大学に進んだ。凛は結婚を機に、仕事を辞めてしまった。かたや、旗は、二十八歳のいまになっても学生のままで、学問の中に閉じ込められている。


 いずれは大学教員になりたいと思っているが、いまはまだ、そのポストの空きを待つばかりである。

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