群衆色の流星

富升針清

第1話

 中学高校二年生の夏に時に、中村千種少年は自分が特別な人間ではない事を知った。

 

 僕はその事実を知った時に、とてつもない恐怖と絶望を覚えた。高校生になった今でもその感覚だけは鮮明に覚えている。

 僕は、この世界の物語に取ってモブ、つまりは群衆でしかない。僕は世界を救えないし、世界も僕に救われたくはない。詰まる所、僕と世界の需要と供給は相容れないと言う訳だ。

 世界はとても悲しい程哀れで、酷く救いようがない程の馬鹿だった。

 中学高校二年生の夏に、僕はそれに気付いてしまったんだ。

 それから僕は規則正しいモブとして生きていかねばならない己の人生を見直した。

 世界は僕を選ばない。選ばないならば諦めるしかない。息を殺して、目立たないように規則正しい群衆に成り果て死ぬのだ。

 群衆色に染められて、そっと息を潜めて。まるでなんの意味もなさない、微かに光る名もなき夜空の星の様に。

「中村君は何で図書委員になったの?」

 あれから群衆色に染められた僕は、群衆らしく周りと足並みを揃えて高校に上がった。

 特別では無い僕にはお似合いの人生だ。

 ロボットの作業の様に同じ事を繰り返す毎日を僕は過ごす。

 右も左も上も下も、皆一緒。

 お手手を繋いで横一列のモブばかり。

「本が好きだからだよ」

 モブが得意なテンプレートを駆使して、同じくモブ仲間と言葉を交わす。

 同じクラスで同じ図書委員。それぐらいしか繋がりがない彼女の名前は蟹江、だったかな。あまり長くもない髪を後ろで束ねている活発な彼女こそ、何故図書委員になったか疑問は残るが僕にはその答えを欲する理由は何処にもない。

 彼女がどう行った経緯でこの席に座っているかなんて僕のモブ人生には一ミリたりとも必要でないからだ。

「へー。どんな本が好きなの?」

 利用者もいないこの図書館に、彼女の声だけが響いている。

「SFとかかな」

 暇を持て余した彼女の相手に、なるべく目立たない様に言葉を選び、書く事のない帳簿を僕は忙しく捲っては会話を流していく。

「難しそうな話が好きなんだね」

「そんな事ないよ」

 お互いモブはモブらしく当たり障りのない言葉を選び時間を流す。

 つまらない毎日だ。しかし、モブとして生きると決めたあの日から、こんな日常しか僕にない。

「そろそろ僕は本の整理に行くよ」

「あ、うん。わかった」

 そんな日常の唯一の楽しみが、この時間である。

 我ながら人生が終わっているなとよく思うが、これぐらいしかモブである僕には楽しみがないのだ。

 僕は人が来ない図書館の日替わりおすすめコーナーに今日も本を並べる。

 何の規則もなく並ぶ本達。

 ジャンルもバラバラで、五十音順にすら並んでいない背表紙。

 でも、僕だけが知る規則で正しく毎日並んでいる。

 この本を並べる時だけが僕の唯一の楽しみなのだ。

 世界は僕を選ばなかった。

 世界は僕を認めなかった。

 だから、僕はこの本棚に願いを込めるのだ。

 利用者もいない図書館で、唯一この空間にいる彼女に聞こえないぐらいの小さな声で、規則を唱えながら本を並べる。

「こ、ん、な、世、界、は、滅、ん、で、し、ま、え」

 題名もジャンルもバラバラな本は、冒頭の文字を繋ぎ合わせると僕の願いが書かれていた。

 こんなものは腹いせで、八つ当たりで、何の意味もない事はよく分かっている。

 でも、願わずには居られない。

 こんな世界は滅びてしまえ、と。

 もし、誰かに暴露たならばその願いは叶うんじゃないか。そんな些細な七夕の短冊様な頼りない祈りにも似た儀式を、僕は毎日欠かさずやっている。

 残念ながら、僕の願いは今日まで誰にも届いてはいない。

 誰にも暴露る事なく、毎日が過ぎて行く。

 全てを諦めた僕にだからこそ、わかる。

 本を並べ終わった僕は、指先で本を丁寧に撫ぜつけた。

 だからこそ、滅びるべきではないだろうかと、僕にはわかるのだ。

 そう、強く願った瞬間、後ろから声がする。

「ねぇ、そろそろ帰らない? 今日も誰も来なかったし、先生だって来ないんだもん」

 彼女が貸し出しカウンターから出てきて僕に声を掛けたのだ。

 少しだけ、驚くそぶりを見せて僕は口を開いた。

「そうだね」

 今日も、消化試合の様な一日が終わって行く。

 何も無い、毎日。

 まるで、群衆色の様。群衆色は無色だ。何も無い色。何も無い色が僕を染めて、僕の毎日を染めて、僕の人生を染め上げて行く。

 ああ。

 誰か僕の叫びに気付いてくれればいいのに。

 そう思いながら、その日、僕がベッドに入るまで、世界は静かに回っていた。

 星屑の群衆も静かに落ちる事なく輝きながら。

 しかし、僕は知らない。

 僕たちが帰った後に、あの図書館に本を借りに来た生徒がいる事を。

 その生徒は、僕の願いを知っている事を。

 僕は知らない。




 ベッドを出たら世界は変わっていた。

 そんな都合のいい話は何処にも無い。

 何も知らぬ夢見る子供じゃ無いのだ。それぐらいの良識は、流石に僕の中にもある。

 焼いたばかりのパンを齧りながら、テレビを付けても、いつもと同じ。

 同じ顔した同じトーンで話すキャスター達が、いつもと同じセットの中、いつもと同じ下らない話をする。

 でも、今日だけは少し違っていた。

『これ程までに大きな隕石が一度に3個も落ちるだなんて』

『日本の裏側とは言え、深刻な問題ですよ』

『この隕石の影響は大きく、被害は計り知れない』

『怖いですね』

『被害にあった各国の状況ですが』

『死亡者、行方不明者共に過去最大の災害ですよ、これは』

『ネットでは人類滅亡のカウントダウンだと言われていますが、専門家の話では』

『現在は有識者達が隕石の解析に当たっていて』

『何か防災対策はあるのでしょうか。専門家にお聞きしました』

 僕は食べかけたパンから思わず手を離す。

 人は簡単に星空から星が落ちてきただけで死んでしまうと言うのに、世界は簡単に滅亡する程弱くは無い様だ。

 そして、その程度で世界が変わる程甘くは無い。

 国が一つ消えても、どれだけの人が亡くなっても、僕は今日も学校へ行き、いつも変わらぬ授業を受けて、いつもと変わらぬ様に放課後、図書館の貸し出しカウンターに座っている。

 いつもと変わったのは、朝食のパンを落とした事ぐらい。実に細やかで細やかな変化である。

 世界が滅亡するのかと、一瞬驚いた自分が馬鹿みたいだ。

 今日もきっと、この図書館には誰も来ない。

 いつもの様に、後から遅れてくる蟹江さんと、いつもの様に当たり障りのない会話で時間を潰し、いつもの様に、僕はおすすめコーナーに願いを込める。

 隕石如きで、僕の群衆は変わらない。

 この時、迄は。

 僕が図書館の貸し出しカウンターでいつもの様に記載する必要がない帳簿を開いていると、一人の女子生徒がやってきた。

 随分と美しい女性である。

 見ない顔だが、どれぐらいの生徒がこの学園にいると思うのだ。それぐらいで驚く事も疑う事もする訳がない。

 女子生徒は、貸し出しカウンターに一冊の本を持ってやって来た。

 それはそうだ。何たって、貸し出しカウンターだ。本を借りる場所なのだ。何もない手ぶらでやってくる事はないだろうに。

「借りられますか?」

 僕は彼女に問いかけると、彼女は本と自分の図書カードを僕に差し出す。

 題名と貸し出し日の欄には丸く可愛らしい文字が埋まっている。僕が判子を押すのは返却日の日付のみ。

 使用者名の欄には同じ文字で学年と組と名前が書かれている。

 三年二組、中川瑞穂。

 本の題名を見れば、愛する君への次の贈り物と書かれている。恋愛小説か何かなんだろう。

 受験が控えている三年が、本なんて借りるのかと思っていると、彼女の白く長い指が、題名を指差した。

 一体、何のつもりだと顔を上げると、長い黒い髪をまっすぐ垂らした彼女が美しい顔で笑っていた。

 笑っていた。

 そう、笑っていた。

 何度も僕の脳が笑っていたと反芻するのは、彼女のその表情を何と表現していいか分からないからだ。

 笑っている。これだけしか、分からない。

 薄気味悪い、意地の悪い、悲しそう、馬鹿にしている、喜んでいる、作り笑い、微笑、自嘲。笑いの種類は沢山あるというのに、その彼女の笑いは何一つ当てはまらない。本当に、笑っている。それしかない。

「え」

 思わず、僕の声は口から漏れる。

 それでも、彼女はその顔を崩さずに口を開いた。

「喜んで、くれた?」

 鈴の音が鳴る様な声というのは、この人の声を言うのだろう。そう思う程、綺麗な声が僕に問いかけてくる。

 喜んで、くれた?

 彼女の言葉をそのまま繰り返すが、僕には何も心当たりがない。

 だって、彼女と僕は今日が初対面だ。

 そんな相手に贈り物をされるはずが無いだろう。

「な、何の話でふか?」

 思わず噛んでしまったが、何とか声は絞り出せた。

 怖い。僕は純粋にそう思っている。

「あら? 気付いてくれなかったの?」

「何を、ですか?」

 今度は何とかそのままの言葉が口から出て行く。

 どうしてだろうか。彼女を見ていると何とも言い難い気味の悪さが僕に纏わり付いてる様な気がしてならない。

 底が知れない。

 まるで、底が見えない谷底を覗き込んでいる様な恐怖が、彼女の言葉を交わす度に足元から這い上がってくるのだ。

「ニュース、観てないのかな?」

「ニュース?」

「うん。とっても千種君が喜ぶと思ってたんだけど、まだまだかな?」

 何で、彼女は僕の名前を知っているんだ?

 何度も言う。

 何度も言わせてくれ。

 僕と彼女は今日が初対面だ。僕は彼女の事を知らないし、彼女は僕の事を知らないはずなのだ。

 なのに、何故? 親以外は誰も呼ばない下の名前を、名札にも書かれていない下の名前を、クラスも違う、学年も違う彼女が知っているんだ。

「あ、あんた一体、誰なんだ?」

「中川瑞穂だよ。千種君、可笑しいの。知ってるくせに、名前を聞くなんて」

「僕は、あんたなんか知らない!」

 最早、ここまで来ると怒鳴り声にも近い声が僕の口から飛び出して行く。

 しかし、彼女は、いや。中川瑞穂は僕の声に怯える様子もなく、また、怯む事もなく、穏やかに声を返してくる。

「そんな事ないでしょ? ずっと、私に話しかけて来てくれたじゃない」

 ずっと?

「そ、そんな事があるわけ無いだろ!」

 いや、これは怒鳴り声じゃない。悲鳴だ。悲鳴に近い、僕の声なんだ。

「そんな事ないでしょ? 知りませんでしたなんて、言わせないよ?」

「あんた、本当に一体何なんだ! 僕はあんたと一度も話した覚えはないぞ!」

 本当に、本当に。

 知らない。知るはずがない。

 僕は透明色の群衆で、しがないモブなのだから。

 漸く、彼女は笑顔を捨てて、少しだけ子供っぽい拗ねた顔を作っていく。

「私は、やっと昨日ね、君に自分から話しかけたのに。勇気がどれ程いると思ったの? 女の子からだよ? ちゃんと私の声、聞いてよね」

 絶望的に話が噛み合わない。

 意味が分からない。

「千種君が言い出したんだから、ちゃんと返事を返してね。これは、宿題よ?」

 彼女は、僕の手から判子を奪うと自分で図書カードに印を押し、本を持って図書館から出て行った。

 一体、何なんだ。

 何だと言うのだ。

 まるで嵐が去ったかの様な図書館を見渡し、僕は思わず溜息を吐く。

 冷静になれば、頭が少し残念な人なのかもしれない。そう思えるようになって来た。

 何せ、会話が成り立っていなかった。

 僕の下の名前を知っているのも、同じ学校ならば何かの機会に得れた情報かもしれない。

 彼女が僕の名前を知っていたとして、モブである僕とこの世界に何の意味があると言うのか。

 彼女の置いて行った図書カードを貸し出し者ボックスに入れると、蟹江さんが遅れてごめんと、何の悪びれた様子もなくいつも通りに入って来た。

 群衆の僕の日常が、規則正しく戻っていく。

 人の居ない図書館で、取り留めのない会話をして、時間がただ過ぎ行くのを待って、僕は唯一の楽しみのおすすめコーナーへ足を向ける。

 いつも通り、呪いと言う祈りを込めた本達を運び、並べ背表紙を撫ぜあげる。

 彼女と、中川瑞穂と同じ様に。

『喜んで、くれた?』

 ふと、脳内で彼女の声が再生された。

 一体、何だ。何だと言うのだ。

『とっても千種君が喜ぶと思ってたんだけど』

 僕が、喜ぶ?

 彼女の笑顔と共に再生された言葉に、僕は動きを止めた。

『ずっと、私に話しかけて来てくれたじゃない』

 ありもしない、事実を彼女は言った。

 僕は彼女に話しかけた事など無い。くどいかもしれないが、そんな事実は何処にもない。

 でも、僕は確かに誰かには話しかけていた。

 毎日、祈る様に。

 僕の呪いと言う言葉を、本棚に託して。

『私は、やっと昨日ね、君に自分から話しかけたのに』

 昨日、僕は彼女に話しかけて貰った記憶は何処にもない。

 でも、でも。

 彼女も僕と同じ様に誰かに話しかけていたら、どうだろうか?

 あり得ない想像が、頭の中を駆け巡る。小説の様に横切る事などせず、そのまま頭に居座り続ける。信じたくも考えたくもないのに。

 僕は背表紙を撫ぜる手を止め、あり得ない。間違いだと、自分を否定しながら貸し出しカウンターへ向かった。

「あれ? 今日は早いね」

 貸し出しカウンターには、鞄に荷物を詰め込む蟹江さんがいた。

 いつもと違う。

 日常と違う。

 群衆色に染まった人間は、そんな事をしてはならないと分かっているのに。

「蟹江さん、先に帰っていいよ。戸締りは僕がやっておくから」

「え、いいよ。遅れて来たし、それぐらい付き合うよ」

「読みたい本を探したくて、遅くなったら悪いから大丈夫だよ」

 テンプレートにしては、随分と使用箇所が狭まる回答をすらすらと並べながら僕は彼女を説得する。

 出来る事ならば、確認する事なく、日常に速やかに戻らなければならないのに。

 それでも、僕は自分を止められない。

「そう? じゃあ、お疲れ様」

「うん。気を付けて」

 蟹江さんを見送った後、僕は貸し出し者ボックスに手を伸ばした。

 そにあるのは、一枚の図書カード。中川瑞穂の図書カード。

 僕はゆっくりと、その図書カードに指を這わせ、震える声で、読み上げる。

「君、の、願、い、叶、え、て、あ、げ、る」

 昨日迄に彼女の借りた本の題名の頭文字を続けて読み上げると、それは確かに『答え』だった。

 紛れもなく、僕の願いに対する、答えだった。

 今日、彼女の借りた本の題名は、愛する君への次の贈り物。

 そして、彼女はこう言った。

『ちゃんと返事を返してね。これは、宿題よ?』

 と。

 ニュースを見て、僕が喜ぶと彼女は思っていた。

 ぞくりと、僕の背中に冷たい何かが這いずり上がってくる。

 次は、何が欲しい?

 昨日、世界を滅ぼすには少々心許なかった隕石が三つ落ちて来た。

 それでも世界は滅びず、慌てず、逃げ出さず。僕はいつも通りに今日も学校へ通っている。

 結果、世界は滅びなかった。

 でも、僕の裏側に立っている人達の世界は、確実に滅んだのだ。

 確かに、僕の願いには地域など場所を定めたりはしなかった。それは間違いなくこちらの不備だ。どの世界が選ばれても僕に文句を言う資格はない。

 僕はゆっくりと息を吐き、まるでそれが爆弾かの様に、慎重に、慎重に。少しの振動も与えてはならないと、震える指先を抑えながら中川瑞穂の図書カードの裏を捲る。

 貸し出し本は、表だけで十分に賄い切れる本数だ。その証拠に、彼女の図書カードの下半分は何も書かれていない空欄が続いていた。

 あの隕石が彼女の僕へのプレゼントだとしたら、僕は次の願いを彼女に叶えて貰わなくてはならない。

 彼女の図書カードの裏も、空欄が続いているはずだ。

 何も書かれてない、まっさらな空欄が、踊っていなければならない。ならないはずなのに。

「……嘘だろ」

 僕はぽつりと声を上げる。

 空でなくては、ならないのに。

 白でなくては、ならないのに。

 そこは全てが反転していた。

 あるべきものがなくて、なくてはならないものがある。

 理想的にも現実的にも空想的にも物理的にも。

 白が、黒に変わっている。

『勇気がどれ程いると思ったの?』

 勇気がどれ程いるのだろうか。

「千種君」

 ヒュッと僕の喉が鳴る。

「宿題は、家に持って帰るものだよ」

 恐る恐る、いや、動きたく無い僕の首が、動かなきゃいけない僕の為にぎこちなく動き出す。

 白が黒に変わってる。

 あるものがなく、ないものがある。

 その言葉通りの意味が、僕の後ろにいるのだ。

 中川瑞穂が。

「な、何で……」

「何でって、一緒に帰ろうと思って。ずっと待ってたの」

 彼女は笑う。

 でも、それは頬を赤らめて、照れた様に意味を持って笑っている。

 お前がやったのか。

 お前が、全部やったのか。

 中川瑞穂が、全てやったのか。

 この世界を白から黒に変えたのか。

 彼女の肩を強く持って、脳を揺らすほど揺さぶって。お前がと大声を上げて。どうしてと理由を聞いて。

 まるで、物語の主人公の様に。

 そう出来たら世界は僕を選んでくれただろうか。

「そんな約束、してないですよ」

 でも、僕はモブで、群衆で、世界にとっては取るに足らない存在で、無色の色した顔のない人間に過ぎない。

 こんな僕に、そんな事、出来るはずがない。

「本当は、貸し出しの時に言おうと思ってたの。でも、千種君酷いんだもん」

 中川瑞穂は、そう言って頬を膨らませる。

「僕、中川先輩と友達になった覚えはないですから」

「ほら! それ。本当酷い。もしそうなら、知る努力」

 彼女はコロコロと表情を変えて、カウンター越しの僕に強め寄ってくる。その姿は何処にでもいる、普通の、少しだけ美人の上級生。

「僕は、先輩に興味がないですから」

「えっ! 何で?」

「逆に、先輩は何で僕と帰りたいんですか。喋ったのだって、今日が初めてですよね?」

 話はしたかもしれない。

 本の冒頭と題名で。

 でも、喋ったのは今日が初めてだ。そこは譲れない。

「喋るのはね。でも、ずっと千種君の事知ってたし、ずっと気になってたもん。だから、一緒帰りたいの」

「僕の話は楽しくないですよ」

「任せて! 私の話は滅茶苦茶面白いから!」

「よく自分でハードル上げれますね」

「引くハードルはハードルって言わなものよ。千種君もきっと、大爆笑の渦に巻き込まれて腹が捻れ切れる事になるのよ」

「痛そうなので、結構です」

 僕は自分の鞄を持つと、スタスタと図書館の出入り口へ向かう。

「千種君って、いけずね」

 笑ったと思ったら、また拗ねた顔。

 長い黒髪を垂らしながら、彼女は窓から漏れる夕日の中、溜息を吐く。

「いけずじゃないです。先輩、早くしてください。僕帰りますよ」

「はいはい。今、出ますよ」

「先輩の下駄箱って、南館ですか?」

「三年だもん。そうだよ」

「じゃあ、僕は職員室に鍵を返しに行くので、先に校門の前にいて下さい」

「え?」

 不貞腐れた様な顔をしていた彼女が、弾かれた様に顔を上げる。

 まるで、熟れた果実の様な、顔をして。

「何を呆けた顔をしているんですか。一緒に帰るんでしょ?」

 僕が先に扉から出れば、慌てた様子で彼女は追いかけてきた。

「一緒に帰ってくれるの!?」

「先輩が、言ったんでしょう。嫌ならいいですよ。先に帰ってて下さい」

「いやいやいや! 私が言い出したんだもんっ! 嫌なわけが無いでしょ!?」

「じゃあ、待っててくださいね」

 彼女と別れて鍵を戻しに職員室に入れば、先生達が師走かと疑いたくなるほど慌ただしく声を荒げて動き回っていた。

「ここに隕石が落ちてくる!?」

「生徒達は」

「それは本当か!」

「我々は」

 どうやら、今日今からここに隕石が落ちてくるらしい。それも、昨日よりも大きな隕石が。

 職員室のテレビに映っていた緊急避難速報は、避難する場所なんてないと無情にも流れていて、最早僕達が何をしても無駄だという現状を、ロボットみたいだったアナウンサーが泣きながら話していた。

 ここに隕石が落ちるのか。

 それでも、世界は変わらないんだろうな。

 滅ぼすには矢張り、何処か心許ない。

 僕は鍵を戻すと、先輩との約束通りに校門に向かった。

「遅いよ」

「そんな事、ないですよ」

 寄り道なんてしてないのに、随分な言いがかりだと思う。

「罰として、私の鞄を持ちなさい」

「冤罪なのでお断りします」

「待たせておいて、その態度。問題よ?」

「先に帰ってもいいと言ったでしょう」

「もう。減らず口なんだから。いいわ。早く帰りましょう?」

「ええ」

 僕達はゆっくりといつもの道を歩き出した。

「先輩は、この世界が終わる瞬間、何しますか?」

 暮れゆく夕日に染まる真っ赤な彼女は、僕の顔を見る。

「千種君は?」

「質問したのは、僕ですよ」

「まず自分からが、マナーでしょ?」

 ふふんと、悪戯げに顔を傾けながら先輩が指を挙げる。

 どうやら、素直には答えてくれなさそうだなと、僕は諦め口を開く。

「そうですね。僕は、好きな人と過ごします」

 群衆向けのテンプレート。

「あら、ロマンチック。好きな人がいるの?」

「いえ、今はいないですが、気になる人なら」

「同じ学校の人?」

「どうやら、その様ですね」

「その人は、髪が長い?」

 長い黒髪を揺らしながら、先輩は僕に顔を向ける。

「ええ。そうみたいです」

「その人は、美人?」

 沈みゆく夕日の赤は、もう彼女を赤く染めてはいないはずなのに。

 夕日よりも真っ赤な顔をしながら、彼女は僕を見る。

「ええ。そうなんです」

「その人は、もしかして、千種君の隣にいたりする?」

 大きな隕石が、僕達の頭上にいる。

 刻一刻と、僕達に向かって、スピードを上げて、早く早くと、落ちてくる。

 世界を終わらせようと。早く早く。

「先輩は、世界が終わる瞬間どうしますか?」

 僕がもう一度聞けば、彼女は口を開いた。

「私は、千種君の隣にいるよ」

 彼女の真っ赤にした顔は、どの問いかけの答えかなんか分からない。

 ただ、真っ直ぐに、僕を見上げて、ぷくりとした唇が小さく震えている。

 僕はその可愛らしい唇にキスをした。

 唇と唇が、触れ合うだけのキスをした。

 図書カードの裏に、隅から隅まで、まるで黒く塗りつぶされた様に見える程小さな文字で、ある言葉が書かれていた。

 それは、彼女の小さな願い事が一つ。

『千種君とキスが出来ない世界は滅んでしまえ』

 図書カードを白から黒へ変えた言葉。

 ならば、この願い事が叶ったらこの世界は黒から白へ変わっていくのだろうか。

 唇を離すと、彼女はゆっくりと僕から身体を離し、自分の唇を手で覆いながら、不器用な笑顔を作って見せた。

「嬉しい……」

 僕達の頭上で、隕石が粉々に砕ける音がする。

 それは、世界を滅ぼす音の様に、それでいて、花火の音の様に。大きく大きく、僕達の鼓膜をこれでもかと揺らしながら。

 上を向けば音通り、世界を滅ぼす予定であった隕石が、散り散りに砕け、雨の様にまだ微かに夕日の跡が残る夜空を、忙しなく流れていく。

「千種君とキスしちゃった……っ!」

 彼女は今日一番の不細工な笑いをしながら、それでいて、とても可愛らしくも幸せそうな笑顔で嬉しそうに飛び上がる。

 本当に、黒が白へ変わってしまった。

 あることが、無かったことになってしまった。

 群衆色した僕の世界が、変わってしまった。

 嬉しそうに飛び跳ねている彼女に、僕は声をかける。

「先輩、明日も一緒に帰りませんか?」

 この言葉を吐くのに、どれ程勇気がいるだろうか。

 しかし、僕の些細な勇気と心配を余所に、中川瑞穂は、見たこともない笑みで僕に笑いかけてくる。

「仕方がないな。世界が滅ぶ迄なら付き合ってあげてもいいよ」

 そう言って、彼女が僕の手を取った。

 群衆色は無色で透明。

 誰にも気付かれず、誰もが気付かず。

 でも、確かにそこにある。

 群衆色した流れ星が、ぽとりと静かに暗闇に堕ちて行く。

 

 

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