死にたがりアーサー
詠三日 海座
第1話 死にたがりアーサー
それは遠い昔、後に「暗黒時代」と名付けた未知の時代のこと。この時代が訪れる前までは、やはり陸では馬車が駆け、森に獣や草木が茂り、海では漁の船が水面を滑り、水中には無数の生命が深くにまで潜むのであった。いつの時にも、命は循環し、輪廻転生が緩やかに繰り返される。平穏であったはずのこの時代がこの時代が「暗黒時代」と称されるようになったその真相を知るのなら、前置きとして、ある男の話をしなければならない。
事の始まりはとある皇国の処刑場にて。ここで、罪を犯した人間は、台にうつ伏せで寝かされ、首を丸く型どった木枠で挟まれる。身動きのとれなくなったそのうなじを、吊り上げられた刃によって断ち切られる。いわゆるギロチン処刑が、各国で用いられている死刑方法だった。今までいく人もの罪人がその板の上に身を置き、頭と体を切り離されてきたのだが、この時初めて処刑台の刃が通らなかった首の持ち主がいた。それこそ先程の“ある男”、名をアーサー・ティア・ガニメデスという。容姿の大変整った青年であった。そんな美男子アーサーのなんと罪深いことだろう。一国の皇帝を手にかけ、残虐の末に葬ったのだった。処刑台に寝かせるのにこれほど見合った罪人はない。
だが、その台の上で、彼は再び民衆を震撼させた。今まで吊るされては、刃が下りるたびに血で汚れた処刑台が赤く染まらなかったのは、極悪人、アーサーの首筋にあの大きな刃が通らなかったからである。刃は別の硬いものでも噛まされたように、ギーンと歯の浮く音を伝わせ、「これを斬るのは御免だ」と嘆いていた。そんな彼の首には刃の痕などこれっぽっちも見当たらない。これには辺りで野次になっていた民衆も怯え、弾かれたように騒ぎ出した。刃を下ろした番人も、裁判の長や執行官も等しく顔が青ざめいていたようだった。
そんな騒がしい周囲をよそに、当のアーサーは台の番人を見上げてこういうのだ。
「どうした。早く殺してくれ」
それから番人は自前の大きな鎌で、彼の首を薙いでみても、首から下を地面に埋めて馬に蹴らせてみても、彼はけろっとして、「早く殺せ」と急かすばかり。さすがの番人も、もう手の打ちようがない、そんな表情を見せかけた頃、番人が、あんまり逃げようとしない彼に拘束すら怠ったのをいいことに、彼は隙を見て逃走した。逃亡者となった彼の逃げ足とは速いのなんの、一目散に駆け出したっきり、あっという間に姿が見えなくなってしまった。その後もアーサー・ティア・ガニメデスの捜索が行われ、罪人を逃した番人が代わって台で首を打たれたのは、また別の話である。
それからしばらく、こんな不思議なことが、隣国でも起こった。いつの間にやら、王の城の、その大きな玉座の影から、男が突然現れ、椅子に掛けていた国王の首を無惨にも掻き切ってしまった。同じように鉄臭い台に乗せられ、落とされた大きな刃を通さなかった首の主は、やはり皇帝殺しの、あのアーサーだった。
そこの番人も、彼を処刑するためにあらゆる手を尽くしたのが、これもまたアーサーの皮膚を傷つけるものは持ち合わせていなかった。同じようにまいった振る舞いをすると、決まって彼は逃げ出した。死ぬより苦しい罰は執拗に受けたくないのだろう。
事態の深刻さは国境を越え、多数の国でも立派なお尋ね者として手配されてしまったのだった。
都心を離れた小さな村々では、こんな脅威が耳に届くことなど少ない。月日が経つと、大自然が織り成した深い渓谷や、海岸で、彼の姿を見る者が時々いた。話によると、彼は必ずどこかにその身を投げたり、あるいは沈めたりと、狂ったような行動ばかりを繰り返す。目撃した人々の言うところによると、あれはどうも死にたいのだそうだ。
「あれは不死身の男さ、いっつも崖から身を投げてる」
「死に急ぎさ」
「死にたがりさ」
そんなことから、村の人々はいつからか、彼のことを「死にたがりアーサー」と呼ぶようになった。彼のなにが死にたがっているのか。なにが彼を死なせないのか。知っているのはおそらく、当の死にたがりアーサーに限るのだろう。
「よしてくれ、うちのは人を斬るための品じゃねぇ。せいぜい、祭儀に捧げる羊や牛の首を斬るくらいだ」
「牛の首が斬れるんなら尚更だ、頼めないか? もとよりどうしてか死ねない身だ。人ではないのは確かなのさ。人の姿をした彫刻でも砕く要領で――」
「やかましい! 斬らんものは斬らん。だいたい、彫刻をぶった斬るなんてとんだ涜神行為だ。そら仕事があるんだ、あっちへ行け」
都心や、村からも遠く離れた鍛冶屋で、たった今主人に罵声を浴びせられたのは、紛れもなく死にたがりのあの男だった。
大きな煙突、大きな竈。灼熱を孕む石造りの小屋は、入口から顔を覗かせているだけでも、絶え間ない熱気が漂って暑苦しい。主人の背で屋内の暗がりから、煌々と生まれたての太刀がちらついている。それらを打ち付ける甲高い響きでさえも、主人の背後で自分を恫喝しているように思えた。
「お前さんよ、いくら死なねぇ体っつったって、無理して命を投げ出さなくたっていいだろう。例え生き甲斐がなくったってこんな惨いことはないぞ」
肩を落としたアーサーを見かねて、主人もいよいよ気の毒に思えたのだろう。なんならうちで仕事をやろうかと彼に情けをかけたのだが、本人は冴えない表情のまま、首を降った。
「いや、僕は宛もなく死のうとしているんじゃない」
言葉を言い終えるより早く、アーサーは主人に背を向け、歩き出した。
都心の街から、ずっと東にそれたこの鍛冶屋は、小高い丘の頂上にあった。急な斜面で登りにずいぶん苦労したが、降りもまた然りである。地表は丈の低い草が茂り、裸足で歩くには心地よかった。もっとも、アーサーに限っては、海に身投げをした際に両の靴を失くしてしまって、裸足で歩くしか術がないのである。
地面から剥き出しになっている岩を踏みしめると、ひんやりとした感覚が、足の平から全身へ伝わった。そこらの岩のほとんどが角のとれた岩ばかりである。昔は川であったと聞いたのは、たしかこの辺りだった。
「炉(かまど)の神よ、なぜこのようなことを……」
人界に落とされたアーサーは、その地で天界の神々の真名を口に出すことは許されない。神々の名だけでなく、あの美しい世界の草花や、小鳥、川や山の名前も全てだった。
アーサーは憂鬱だった。そして寂しく、苦しく、早く死んでしまいたいものだった。下界で命を落とせば、肉体は得られずとも、魂は自ずと天界へ還れるのだから。
ふと腹が鳴って、アーサーは懐から煤けた巾着を取り出し、持ち金を確かめた。
「いち、に、さん、まいったな、45クアーシぽっちでなにが食える」
広大な大地の真ん中で、そうつぶやく声に返事などない。
「そら見ろ、食えなくて死ぬのなら、自ら命を断つことのなにがいけない。こんな世界、人間も、吐き気がする」
彼に限っては飢えて死ぬこともないのだろう。しかしアーサーは、いや、感性をもつ全ての生き物は、初めからどんな苦痛や苦労にも喜んで耐え忍ぶ者などいないのだ。
(仕方ない、街まで降りれば宛がある。)
アーサーは覚束無い足取りで、ゆっくりと緩やかな丘を降り、街へ向かった。
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